第26話 プロの救出劇
綾辻澪は、自分がどうやって現場を離れたのか、分からなかった。
彼女の頭の中は、耳鳴りがし、目の前には、血の海に倒れたあの二つの影が、繰り返し、ちらつき、鼻腔には、前世から続く、血の匂いの幻覚が、まとわりついていた。
彼女のPTSDが、完全に、引き起こされてしまったのだ。
彼女が、再び、いくらかの意識を取り戻した時、自分が、極めてシンプルで、むしろ、冷たく硬い、内装のアパートに、座っていることに、気づいた。
ここは、家というよりは、むしろ……軍事要塞のようだった。
分厚い防弾カーテンが引かれ、室内の調度品は、最も基本的な、黒と白と灰色の三色だけで、空気中には、かすかな消毒水の匂いが、漂っていた。
あの運転手、つまり、黒崎隼人が、プロ仕様の救急箱を手に、彼女の前に、片膝をつき、彼女が緊急にハンドルを切った際に、擦りむいた手首の傷を、手当しようとしていた。
「触らないで!」
澪は、まるで、尻尾を踏まれた猫のように、勢いよく手を引っ込め、警戒心に満ちた顔で彼を見つめ、その体は、無意識に、震えていた。
黒崎の動きが、一瞬、止まった。彼は、彼女の、あの、恐怖と拒絶に満ちた瞳を見て、黙って立ち上がり、救急箱をコーヒーテーブルに置き、そして、安全な距離まで、後ずさり、もはや、近づこうとはしなかった。
ちょうどその時、アパートのドアが、外から、開けられた。
龍園蓮が、足早に、入ってきた。
彼は、相変わらず、あの、きっちりとしたスーツを着ていたが、ネクタイは、少し歪み、髪も、やや乱れ、金縁眼鏡の奥の、あの双眸には、かつてないほどの、隠しきれない、焦燥の色が、浮かんでいた。
彼が部屋に入ると、その視線は、正確に、ソファの隅で、まるで傷ついた小動物のように、縮こまっている澪を、捉えた。
彼の心臓が、訳もなく、締め付けられた。
「若。」黒崎が、低い声で、報告した。「連中は、始末しました。浜崎社長の息子の、差し金です。事故を偽装し、契約書を、奪い返すつもりだったようです。」
「浜崎の、息子?」蓮の瞳に、氷のように冷たい、殺意が、よぎった。「命知らずめ。」
彼は、手を振り、黒崎に、まず外に出るよう、合図を送った。
そして、彼は、ゆっくりと、澪の前へと、歩み寄った。
彼は、黒崎のように、彼女に触れようとはせず、ただ、彼女の前のコーヒーテーブルのそばに座り、自分で、あの救急箱を開け、消毒用の綿棒と軟膏を取り出し、平穏で、何の圧迫感もない声で、言った。
「手首の傷は、手当しないと。化膿しますよ。」
澪は、何も言わず、ただ、膝を抱え、警戒心に満ちた、審判のような眼差しで、彼を、じっと、見つめていた。
彼女の頭脳は、まだ、混乱していた。
先ほどの襲撃は、浜崎の息子が、仕組んだこと。
そして、彼女を救ったのは、龍園蓮。
この認識が、彼女の心にあった、あの、天を衝くような憎しみに、一筋の、亀裂を、生じさせた。
もし彼が、本当に、自分を殺そうとしている黒幕なら、今日、彼は、ただ、傍観していれば、容易に、目的を、達成できたはずだ。
なぜ、自分を救ったのか?
さらに、わざわざ、彼の部下の、このような……常軌を逸した力を、暴露してまで?
「どうして?」彼女は、ようやく、口を開いた。その声は、ひどく、かすれていた。
「何が、どうしてです?」蓮は、ピンセットで綿棒を挟みながら、顔も上げずに、尋ねた。
「どうして、私を救ったの?」澪は、彼を、じっと、見つめた。「私を死なせた方が、あなたの利益には、なったはずでしょう?それとも……綾辻家を完全に飲み込むまで、私という駒には、まだ、利用価値がある、というわけ?」
彼女の言葉は、毒を塗った、刃物のようだった。
蓮の、綿棒を挟んでいた手が、止まった。
彼は、ゆっくりと、顔を上げた。彼女を、見つめた。
彼の眼差しは、複雑だった。無念、自嘲、そして……気づかれにくい、一筋の、胸の痛み。
「綾辻澪」と、彼は、書類を置き、初めて、彼女の、姓名を、呼んだ。「あなたの心の中では、私は、そのような、利益のためなら、手段を選ばない人間なのですか?」
「違うとでも?」澪は冷笑した。彼女のポケットに隠された、あの黄ばんだ古い書類が、まるで、彼女の肌を、焼いているかのようだった。「『ブラックウォーター・キャピタル』の龍園様。十数年も前から、全てを計算し尽くし、今、私の前で善人を演じるなんて、滑稽だとは、思いませんこと?」
彼女は、ついに、その、切り札を、切ったのだ。
蓮の瞳孔が、急激に、収縮した。
彼は、彼女が、書類を、見つけたことを、知っていた。
しかし、彼が思ってもみなかったのは、彼女が、このように、悲惨な方法で、衆人の前で、彼に、白状させることだった。
アパートの中の空気が、瞬く間に、凝固した。
二人は、一枚のコーヒーテーブルを隔てて、静かに、見つめ合っていた。
一人の瞳には、骨の髄まで凍るような恨みと、決意が。
一人の瞳には、言葉にできない複雑さと、深淵が。
長い時間が、流れた。
蓮は、ゆっくりと、ため息を、ついた。
彼は、いかなる説明も、「証拠」の前では、無力であることを、知っていた。
彼は、もはや、言い争おうとはせず、再び、綿棒を手に取り、消毒液をつけ、そして、救急箱ごと、自分の手と共に、ゆっくりと、彼女の前に、押し出した。
「説明は、したくありません。」
彼の声は、低く、どこか、疲労を帯びていた。
「ただ、あなたに、伝えたい。あなたが信じようと、信じまいと、私たちが『同盟者』となった、その瞬間から、私は、あなたを、害するつもりなど、なかった、と。」
「今日、私の部下が、職務を怠り、あなたを、危険な目に遭わせた。これは、私の、過ちです。」
「ですから」と、彼は、目を上げ、その視線は、誠実で、率直だった。「今、あなたは、選ぶことができます。このピンセットで、私の手に、突き刺し、報復とするか。それとも……私に、あなたの傷を、手当させるか。」
「選びなさい。」




