第25話 事故か、殺人か
黒のポルシェが、郊外へ続く公道を、疾走していた。
綾辻澪の頭の中は、混乱していた。
彼女は、浜崎を首尾よく計略にかけたことへの、かすかな快感と、龍園蓮に支配されている状況への、怒りと不安を、同時に、感じていた。
この複雑な感情が、乱れた麻のように、彼女の心臓に絡みつき、息苦しくさせた。
彼女には、捌け口が、必要だった。
そして、一つの……打開点が。
【ブラックゴールド・クラブ】。
それこそが、彼女が選んだ、打開点だった。
彼女が、これからの計画に、全神経を集中させていた、その時。彼女の視界の端が、突如として、バックミラーの中の、一台の黒いワゴン車を、捉えた。その車は、近すぎず遠すぎずの距離で、彼女の車を、いくつかの交差点を、ついてきていた。
まるで、プロの殺し屋のような直感が、彼女の心に、警鐘を鳴らした。
彼女は、平静を装い、足元のアクセルを、わずかに踏み込み、同時に、ハンドルを切り、何気ないふりをして、脇道へと、曲がった。
あのワゴン車は、躊躇することなく、彼女に続いて、曲がった。
尾行されている!
澪の心臓が、一気に、沈んだ。
誰だ?
浜崎?まさか。彼は、たった今、契約を結んだばかりだ。こんなに早く、手を下す理由がない。
葛城靜子と橘拓海?彼らは今、自分のことで手一杯のはずだ。そんな度胸は、ないだろう。
では……
一つの、恐ろしい考えが、彼女の脳裏を、よぎった——龍園蓮?!
彼が、自分が彼のことを調査しようとしていることに気づき、それで……口封じを、しようとしているのか?
この考えが浮かんだ途端、燎原の火のように、彼女の心に残っていた、最後の理性を、瞬く間に、焼き尽くした。
恐怖と、裏切りへの怒りが入り混じった感情が、彼女の全身の血液を、まるで燃え上がらせるかのようだった。
彼女は、アクセルを、床まで、踏み込んだ。ポルシェのエンジンが唸りを上げ、矢のように、前へと、突き進んだ。
しかし、彼女が速ければ、相手は、もっと速かった。
あの一見、何の変哲もないワゴン車が、その外見とは、全く不釣り合いな、恐ろしい速度を、爆発させ、彼女の車の後部に、死に物狂いで、食らいついてきた。
さらに悪いことに、前方は、連続したS字カーブだ。
ここは、郊外の、有名な、事故多発地帯だ。
相手は、ここで、「事故」を、偽装するつもりなのだ!
澪の額に、細かい冷や汗が、滲み出た。彼女の両手は、ハンドルを、固く握りしめ、頭脳は高速で回転し、一つ一つのカーブの角度とタイミングを、計算していた。
彼女が、最初のカーブに差し掛かろうとした、その時。あのワゴン車が、突如として、斜め後ろから、激しく、ぶつかってきた!
「ドン——」
巨大な衝撃が、澪の車を、瞬く間に、バランスを失わせ、車体が、制御不能に、外側へと、流された。
彼女は、ブレーキを、死に物狂いで踏み、車体を立て直そうとしたが、全てが、遅すぎた。
ポルシェは、制御を失ったコマのように、回転しながら、カーブの外側の、ガードレールへと、突っ込んでいった。
もう、ダメだ!
澪の脳裏は、真っ白になった。
まさに、その、絶体絶命の、瞬間に。一つの、黒い幻影が、信じられないほどの速度と角度で、斜め後ろから、猛烈に、割り込んできた!
それは、黒の、ベントレー・ミュルザンヌだった。
「キィィィ——」
タイヤが地面を擦り、耳障りな、叫び声を上げた。
あのベントレーは、竟然、ほとんど、自殺行為に近い方法で、澪のポルシェと、あのワゴン車の間に、強引に、割り込んだのだ。
「ドゴォォン——」
ワゴン車は、避けきれず、ベントレーの側面に、激突し、耳をつんざくような、轟音を立てた。
そして、澪のポルシェは、この、瞬間的な緩衝のおかげで、車体が、かろうじて、ガードレールを擦りながら、停止した。崖まで、わずか、十センチも、ない距離だった。
九死に一生を得た、巨大な衝撃が、澪の体を、恐怖で、激しく、震わせた。
彼女が、まだ、反応できずにいると、あのベントレーのドアが、開けられた。
龍園蓮の運転手、あの、普段は無口で、影のような男が、運転席から、降りてきた。彼の額からは血が流れていたが、その眼差しは、万年氷のように、冷たかった。
彼は、既に、変形したワゴン車には、一瞥もくれず、まっすぐに、澪の車のドアの前まで歩み寄り、ドアを開け、反論の余地のない口調で、静かに、言った。
「お嬢様、我々の主人が、お迎えに参りました。お降りください。」
澪は、呆然と、彼を見つめ、また、自分を、致命的な一撃から守ってくれた、車体が、ひどく損傷したベントレーを見つめ、頭の中は、混乱していた。
龍園蓮が……私を、救った?
では、ワゴン車の中の連中は、一体、誰だ?
彼女の頭脳が、この、巨大な情報量を、処理しきれずにいると、あの、衝突したワゴン車から、よろよろと、二人の男が、這い出してきた。彼らは、計画が失敗したのを見て、顔を見合わせ、竟然、身の傷も顧みず、向きを変え、そばの山林へと、逃げ出した。
「逃がすか。」
運転手の瞳に、獰猛な光が、よぎった。彼は、懐から、澪が映画でしか見たことのない、あるものを、取り出した——
サイレンサー付きの、黒い、拳銃を。
彼は、手を上げ、その動作は、手際よく、一切の、躊躇もなかった。
「プスッ!プスッ!」
二つの、くぐもった、ほとんど聞こえないほどの、音。
遠くで、逃走中だった、あの二つの影が、声もなく、倒れた。
澪の瞳孔が、急激に、収縮した。
彼女は、あの二人が、血の海に倒れるのを、目の当たりにし、濃い血の匂いが、あたかも、時空を突き抜け、再び、彼女の鼻腔に、流れ込んできたかのようだった。
前世で、独房で感じた、あの、瀕死の恐怖が、目の前の、この血腥い光景と、瞬時に、重なった。
「うっ……」
彼女は、もはや、耐えられず、ドアを開け、道端へ駆け寄り、激しく、嘔吐した。
運転手は、彼女の反応を見て、その瞳に、気づかれにくい、複雑な感情が、よぎった。彼は、銃をしまい、一本の電話をかけた。
「若」と、彼の声は、相変わらず、一片の波もないほど、平穏だった。「片付けました。お嬢様は……少々、お驚きのようです。」
電話の向こうから、蓮の、低く、そして、どこか、緊張を帯びた声が、聞こえてきた。
「彼女を、セーフハウスへ。すぐに行く。」




