北川明美〜思い出のピデ〜
「おはよ~、マスター」
カランカランとドアチャイムを鳴らし明るすぎず、かと言って薄暗くもない亘こだわりの明るさが保たれた店内に入る。
正面にはカウンターがありその奥に大きな姿見が微妙な角度で設置されていて、右手奥の四人が座れるテーブル席が丁度映りこむ。
あそこは常連、結の席という暗黙の了解だけど、今日はまだ来てないみたい。
テーブル席は結の席と入り口近くにもう一つ。左手の短い廊下の先に個室が一つの計三席
。カウンターを含めて定員二十名の亘の城。
「おう、明美。今日もいつものにするか?」
数年前、合鍵を返したあの日の朝と変わらない亘の声。亘は店が、私は教師と夢魔殺しの二重生活が忙しくなって選んだ選択。
後悔はしてない、こうやって常連として親友として側にいれてるのだから。寂しさは少しあるけどそんなのは些細なこと。
「あのさ、マスター。この間心春ちゃんが賄いでピデ食べてたじゃない、久しぶりに食べたいな〜なんて。だめ?」
ダメ元で急に思い出してしまったあの頃の味を注文してみる。
亘はにっこり笑って奥に消える。店の裏の冷蔵庫に行ったんだろう。もしかしたらと期待してしまう。
「ちょっと待ってろよ、材料はあるんだがだいぶ変えちまったからな。今、マンデリン出してやるから楽しみに待ってろ」
奥から戻った亘はなんだか楽しそう。そう、あの頃笑いながら肩を寄せ合ってテレビを観てた頃みたい。
珍しくカーネルママも、結も来ない朝。優しい時間が流れる。ちびちび甘いマンデリンを飲みながら亘の動きを追いかける。
自然とあの頃ハマって毎日聴いていた女性ボーカリストの曲を口ずさんでしまう。
亘が後ろ手でオーディオのリモコンを操作する。すると、ちょうど口ずさんでいる曲のインストメンタルが流れ出す。
頬杖を付き亘を眺める。あの時別れてなかったら私はあっち側にいたのかな? バカなことを考えながら香ばしいピデの焼ける香りが鼻を抜ける。
目の前に長い船型の生地に、これでもかとケバブが乗っていて脇にレタスが添えてあり上からかけられた亘特製のソースはオーブンで焦がされて芳ばしい匂いが辺り一面に広がる。
「えっ、これって?」
右眼から涙が溢れ頬を伝う。
「お前の好きなピデだ、火傷しない様気を付けて熱い内に食え」
お前って呼ばれてつい口走るけどもう止まらない。
「亘には敵わないな、ありがと。熱っ! ふーっふーっ。いただきま〜す」
涙が止まらない、亘は亘だった。変わったのは私だった。ピデは懐かしい味じゃない、思い出の味だけどちゃんと今の私に合わせてくれた大好きの味だ。
「亘、誰もいない時は亘って呼んでいい?」
ここまで来たら甘えついで、とことん甘えてやる。
「ふっ、お前がいいなら好きにしろ。もちろん、皆がいても言えるなら言っていいぞ」
強烈なカウンターをくらい、顔をが真っ赤なのが自分でもわかる。ピデを頬張りながら口の中でモゴモゴと声を出す。
勇気が出たら呼んじゃうからね
亘には届いてないはずなのになんかわかった風の微笑みが悔しい。
カランカラン。
ドアチャイムが鳴り大学に通学前の心春が入ってくるなり
「わぁ〜、明美さんのピデだ。それ絶対明美さん専用でしょ? 私に出してくれたのよりも長いし明美さんの好物のケバブだし。いいな〜、今度私用も作ってくださいね」
心春は私の隣に座りカフェオレとサバサンドを頼む。
すのうどろっぷに私の居場所はちゃんとある。いつか勇気が出るその日まで、私は世界とこの場所を守る。




