タイトル未定2025/09/28 12:30
翌朝、早くに目が覚めたたよりは、さっそく一太郎の家まで美映を迎えに行った。
美映は夜通し客をとっていたようで、眠そうな目をこすりながら、「一太郎の事を考えながら抱かれるのはいい気持ちがしないね」と言って笑った。
たよりは、まだ男女のまぐわいを絵物語の中でしか知らないが、美映の様子から察するに、女の体をいためつけるものなのだろうと算段がついた。
安仁坊などは、女とのまぐわいをことのほか良いことのように語る。
村の女たちの中にも、男とのまぐわいをことのほか良いことのように、そして恥ずかし気に語る者がいる。
彼らは嘘をついているのだろうか、と、美映を待つ間、たよりはぼんやりとそんなことを考えていた。
例の焼き鳥男は入り口を入ったすぐ脇の部屋で大きないびきをかいて眠っていた。
「行こうか、たよりちゃん」
部屋を出てきた美映に声をかけられる。
その身なりは一応、整っている。
二人は連れ立って昨日足を運んだ役所まで、道を急いだ。
役所の前には、果たして、昨日の男が、やはり門の両脇の一方に立っていた。
「お兄さん、約束通り来たよ。一太郎を出して」
たよりは疑いを知らない笑みを男に向けた。
男の顔が、ぐにゃりとまがった。
「一太郎なら、そこにいるぜ」
見ると、男が顎で指した先には、ござがこんもりと山になっていた。
「えっ?」
たよりは、男の言ったことが呑み込めないでいる。
その後ろから、美映は「まさか」とこぼしながら、ござへとそろりそろりと歩み寄った。
美映が、ござの端をつまみあげ、中をそうっとのぞく。
しばらく、動かない美映にしびれをきらし、たよりは後ろからぐいと肩に手をやった。
すると美映の肩越しに、土気色になった一太郎の顔がのぞいた。
口をあんぐりと開け、目は半開きで宙をにらんでいる。
何か言いたげな一太郎の顔であったが、もう一言ももらさない。
「一太郎、なんで……」
たよりは全身の力が抜け、その場にへたりこんでしまった。
ちっと男が舌打ちをして、「さっさと連れて帰りな」と言う。
その言い草にも腹が立つが、何より、この男を信じた自分の頭の悪さに腹が立った。
たよりは男を見上げることもなかった。
やがて美映の嗚咽が聞こえだした。
男は門柱の前に立ったまま、背中で聞えよがしに大きく舌打ちをした。
たよりには、訳が分からなかった。
頭の中では、一太郎がまだ生きている。
生きているのに。
声だって、ついこのあいだ、この耳で聞いたのに。
その一太郎が、今は、これだ。
何故――。
その後のことはあまり記憶にない。
なんとか美映を立ち上がらせ、二人で一太郎をござごと抱いて帰ったのだった。
家に帰ると、焼き鳥男が一太郎を見てぎゃあぎゃあわめいていたが、奥の部屋に寝かせて泥を拭いてやっていると静かになった。
美映が「二人にしてちょうだい」と言うので、たよりは黙ってその場を立ち去った。
そのまま、ふらりふらりと西念寺に戻ってきて、ちょうどお堂の縁側でお茶をしていた住職と安仁坊に泣きついたのだった。
いつもおしゃべりなたよりであったが、この時ばかりはことばが喉につっかえってでてこず、えずきながら、それでもなんとか事の顛末を説明しようと二人にすがるようにして声をひねり出した。
住職と安仁坊は、黙って聞いていた。
たよりは、一太郎は役人たちに殺されたのだと何度も、何度も訴えた。
たよりの涙は、底を知らぬように両の目から溢れ出るのであった。
一月が経った。
若い一太郎の死を、同じく若いたよりは、それでもなんとか受け入れようとしていた。
しかしその一件以来、おしゃべりだったたよりの口数は目に見えて少なくなり、歩いていても頭を下げていることが多くなった。
それを見かねたのか、この日、住職はたよりをつかまえて安仁坊の弾き語りにつきあうように言った。
音楽など気分がのらなかったが、他でもない住職の頼みとあって、たよりはしぶしぶ引き受けた。
導かれるままにお堂の中へ入っていくと、そこには村人が集まっていた。
聞き耳を立てると、なんでも今回の弾き語りは安仁坊の新作ということであった。
さして期待もせずに、いざ始まったそれに耳を傾ける。
すると、その筋立ては、どこかで聞いたようなものなのである。
たよりは傍らに座る住職を仰ぎ見た。
住職は頼りの視線を受けて、大きく、ゆっくりとうなずいた。
安仁坊が弾き語りを行っているその筋書とは、たよりが一太郎と出会って、一太郎が不幸にも役人に殺されるところまでを描いたものだった。
登場人物の名前はたよりや一太郎ではないが、村人の誰もが、語られているのがたよりたちだと分かる内容になっていた。
これは、告発だ――。
そう、この弾き語りは、一太郎を殺したであろう役人の男を告発する内容だったのである。
この日を境に、安仁坊は連日のように同じ演目を披露しはじめた。
更に、安仁坊の弾き語りが終わると、住職が皆の前に立ち、説法を始めた。
その説法の内容が、毎回、悪人の不義理を糾弾する内容であった。
こうなると、一月も経たないうちに、村人の中に今回の一太郎の件を知らぬ者はいなくなり、加えて一太郎を死に至らしめた役人の男を懲らしめるべきであるという空気が村を覆った。
そうしてある日、とうとう例の役人が捕らえられた。
それは不正が行われた疑惑を逃れんがための、役所の尻尾切りでもあった。
役人が捕らえられたという知らせは、すぐさまたよりの元へと届けられた。
たよりは思った。
はじめから、自分たちでなんとかしようとせずに、西念寺の住職に頼めばよかったのだ。そうすれば一太郎は死なずに済んだに決まっている――。
激しい悔恨の念が、たよりを支配した。
ともあれ、たよりはその知らせを早く美映に教えてやろうと、急ぎ美映の住処に向かった。
到着すると、焼き鳥男は不在のようだった。
たよりは軽く挨拶をしてからそろりそろりと中へ入って行った。
すると奥の間に、ひっそりと布団が敷かれてあった。
「美映さん――」
たよりは駆け寄った。
しかし、突如つんと激しい臭いが鼻をついた。
あまりに強烈な匂いに、たよりは全身でのけぞった。
見ると、布団の中には、何かを抱えた美映の姿があった。
胸元あたりに無数の蠅が飛んでいる。
「美映さん」
たよりは美映を覗きこんだ。
美映の顔は、土の色をしていた。
よく見てみると、胸元には崩れそうな肉の塊が抱かれていた。
もしかして、一太郎――?
布団をはいでその下を確かめる勇気は、たよりにはなかった。
何故――何故こんなことになってしまったのか――美映さんまで死んでしまうなんて――。
その時、背後から声がした。
「言っておくが、俺が殺したんじゃあないからな」
振り返ると焼き鳥男がそこに立っていた。
「元々病がちだったところで一太郎の不幸が重なり死期が早まったんだ」
聞いてもいないのに焼き鳥男はよくしゃべった。
「最期は息もたえだえに恨み言をつぶやいて死んでいったぜ。悔し涙を流しながら、顔をくしゃくしゃにしてな。人間、ああなったら終わりだな」
そう言うと、焼き鳥男は手に持っていた焼き鳥を口に入れた。
もぐもぐと口を動かしながら「あ、お前、美映の後釜にどうだ?俺が男を斡旋してやるからさ、お前ならたんと稼げるって。ちょっとばかし口数が多いが、なあに、床では黙って股を開いてりゃいいからさ」などとのたまう。
たよりは茫然とした顔で焼き鳥男を見返した。
その両目に、涙をいっぱいにためて。
「言っとくが、泣いても何もならねえぞ」
焼き鳥男が言う。
うるさい。
そういうつもりで泣いているのじゃない。
涙が、勝手に目からあふれてくるだけだ。
ただ、それだけ――。
たよりは美映たちをそのままに残して、美映の家を後にした。
焼き鳥男はまだ何かしゃべっていたが、たよりの耳には何も届かなかった。
たよりの口数がようやく以前と同じくらいに戻ってきた頃のこと、季節は再び夏を迎えていた。
たよりは、久しぶりに市場へと繰り出していた。
そこで顔なじみとなった伊勢の商人から、伊勢・志摩の領主であった火花様が亡くなったという話を聞いた。
火花の死はそれは穏やかなものであったという。
たよりは、ふぅんと答えもそぞろに、並べられている組木細工を眺めていた。
以前より数を増した伊勢の組木細工は今日も素晴らしかった。
西念寺に戻ると、安仁坊がいつものように琵琶を奏でていた。
安仁坊は思う。
例の一件があってからというもの、たよりは少し変わった。
口数が多いのはいつものことだが、それまでどこか世間に対して反抗的だったのが、いくぶんか態度がやわらいだというか、住職や安仁を頼るようになったのだった。
この年にして、謙虚さを学ぶとは、しないでもいい苦労をしている気もするが…と、思わなくもない。
「ね、『平家物語』を聞かせてよ」
そう言って、たよりは安仁坊にせがむ。
「では特別に冒頭だけ」
安仁坊は姿勢を正すと謡い始めた。
周囲の木々から鳴り響く蝉の声に負けじと声を張り上げて。
その歌を、たよりはいつまでも聞いていたいと思うのだった。