第一章 暗殺の序曲
イングリッド王国・刑務所――。
夜。厳重な警戒の時間帯に、不意の訪問者が現れた。
制服姿の警備員たちは、ゲートに立った高官の顔を見て慌てて直立し、敬礼する。
「お疲れ、ご苦労」
低く落ち着いた声で高官は答え、入退室のゲストカードを受け取った。
その瞬間――。
高官の顔が、ノイズが走る映像のようにわずかに歪んだ。
「……なんだ? お前は?」
高官が怪訝そうに問いかける。
「私の顔に何かついているか?」
「い、いえ! 何でもありませんっ!」
警備員は慌てて直立不動に戻る。
高官は一瞥だけを残し、刑務所の奥へと歩み去った。
長い廊下を進みながら、誰の目もないことを確認すると――。
男の顔はくるりと反転し、不気味なピエロの仮面に変わった。
「ヒャァッハァ――!」
道化師は軽やかにターンを決め、両手を広げる。
虚ろな廊下に、甲高い笑い声が響いた。
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ピエール・アンカーボルトの独房。
刑務所とは思えぬほど豪奢な部屋でありながら、音も光も漏れぬ密室。
王国の重罪人にして大物――その男は、決して外界と繋がらぬように隔離されていた。
だが。
「ピーッ、カチャッ」
扉のロックが外れる音。
入ってきたのは、TPBの上級士官の制服を纏った、ピエロの顔の男。
軽やかなステップで中央へ進むと、帽子を取り、舞台俳優のように深々と一礼する。
「……ゼ、ゼファー・リング!? ま、待て! 俺は何もしてない! 何かの間違いだ!」
ピエールは怯え、声を裏返らせた。
ゼファー・リングはくるりと回転し、両手を広げる。
「クイズです」
声が弾んだ。
「人間と野生の獣の違いは、なんだと思う?」
「な、なんだと……? か、金か? クスリか? 望むものなら何でもやる! だから命だけは……!」
「ブッブー!」
甲高い音を口で鳴らし、ゼファー・リングは肩を揺らす。
「不正解ですよ、ピエールくん。獣には秩序がない。強きが食い、弱きが逃げる。ただそれだけ。
でも人間は掟を作り、ルールを決め、守らせる。だから国があり、文明があるんです」
彼はポケットを探るようにごそごそし、やがて黒い小型ディスクを取り出すと、にやりと笑って頷いた。
「だ、だから俺は秩序を乱してない! 何の間違いだ!」
ピエールは必死に訴える。
ゼファー・リングはディスクを宙に放った。
浮かぶ円盤が淡い光を放ち、赤い閃光で空間を切り裂く。
その裂け目に腕を突っ込み、まるで引き出しを探すように――輪っかを取り出した。
トリックスター・コイル。
回転を始めた輪は空中で唸りをあげ、渦のように周囲の空気を巻き込む。
そして、道化師の表情はふいに冷たく歪む。
「掟がなければ人は獣と変わらない――いや、それ以下だ」
ピエールは震える指でインターホンを叩き続ける。だが反応はない。
すでに通信ケーブルは切断されていた。
ゼファー・リングはその姿を指さし、再びおどけたように笑う。
「ところが! 掟を笑い飛ばす奴がいる。王女に頼まれてグリッチライダーを解放したり……
秩序を乱し、好き勝手に振る舞う奴だ。そういう連中は獣にも劣る。
獣には裏切りも、嘘も、ないからなァ!」
「ヒィィィッ!」
ピエールは絶叫した。
その背後で、トリックスター・コイルの中央から重厚な銃身が突き出す。
「だから私は断罪する。掟を踏みにじる者には――死こそが唯一の秩序だ」
道化師が両手を振る。
空に浮いた機関銃が火を噴いた。
乱射の轟音、飛び散る血肉。
原形を留めぬほど蜂の巣にされながら、ピエールの命は塵と消えた。
「ギャハハハハハ!」
虚無の牢獄に、道化師の哄笑だけが木霊していた。