3 歌姫の成長と覚醒
ジャンボジェット機に拵えたスイートルームがわたしの住処だ。
マネージャーは離陸から着陸まで12時間30分だと言っていたから、6時間経った26時25分はユーラシアを抜けた北極圏の一番冷たい氷の上だ。スイートだからって航空機の窓の大きさは変わらないから、顔を近づけなければ暗闇の中の空も氷河も見えてはこない。
今日の防音壁技術は大したもので、順々に並んだ小さな窓を除けばホテルの小さなスイートルームと何ら遜色はない。小さなを隠すためベッドは低反発マットレスを敷いたキングサイズだから、毎晩の睡眠は充分に確保できる。
睡眠薬を飲んで最低4時間は塊りになって眠れるよう躾けられた習慣は守られている。わたしはベッドから眠っていたわたしの身体を起き上がらせる。
シャワーを浴びる前に、化粧台に映った顔をみる。北極海を超えて新大陸に入れば日付変更線を潜ってもう一度昨日がやってくるからだ。わたしは時計を見ながら腕を少しだけあげて、海洋に定規をあてて描かれてる細い線をいつものように見つけようとする。
こんにちわ、再びの昨日
アメリカは、いま真夜中の2時28分。ロサンゼルス時間の今夜20時からSoFiスタジアムに集まってくれた5万人のファンの中でわたしは歌っているはずだ。
17歳で生まれ育ったレイキャビクのクラブハウスでマイクを握ってから1世紀が経たとうとしている。わたしの歌声はレコードを通じて40万人の国からヨーロッパ英語圏7000万人へと拡がり、デジタルコンテンツに変わったときにはツバルに住む12才の男の子にも繋がった。わたしは世界中の誰もが知ってる歌姫になったのはミレニアムのとき。そのときのわたしは33歳。6フィートには届かないCカップの瘦せた女の子だった。
それから後ここ半世紀は、ジャンボジェット機のスイートルームがわたしのプライベート空間になっている。
わたしの歌声がたくさん大きく拡声するに従って、わたしの身体も高く大きく成長していった。それにつれジャンボジェット機のスイートルームの天井とキングサイズベッドも拡張する。その度にスイートルームと航空機窓は小さくなっていくが、その分の小さくなってく感じが可愛いからと、いつのどのマネージャーにも手を付けないようにきつく言い含めている。
歌姫になってからのわたしは、いつのどのエージェンシーやプロヂューサーにもレコーディングやツアーのことで不平不満を言ったことは一度もない。その辺りが唇から零れたことだって一度もないんだから。
口にするのは、ツアーの移動と生活スタイルの二つだけ。
どちらも飛行機のスイートルームで完結することだから、ツアーに係る関係者とグッズは丸ごとアメリカ大統領のエアフォースワン並みのジャンボジェット機1機に押し込んで、割に近接してる大都会の移動でも地球の裏側でも同じように回るこのやり方にクレームは出てこない。
わたしの周りにもホテル暮らしのセレブはうじゃうじゃいるが、ジャンボジェット機のスイートルーム暮らしはわたしだけ。いままもう「あなたのお母さんだっておばあちゃんだって知ってるケルトの歌姫のスタイル」だから、不思議な生きものを眺めるような人は誰もいなくなった。
聞きただる人が地球上に一人もいなくなると、わたしでさえ忘れてしまいそうになる。
だから、こうして目を閉じる。はじめて新大陸へのツアーで北回りのジャンボジェット機の小さな窓から見た北極海の氷の海の景色を思い出すため。
冷たく青白い氷の下に大きなクジラと大きなサメと大きな二枚貝をわたしは見たのだ。
日付変更線の細い紐を潜ったら、あのときのホッキョククジラの青黒いあたまが氷を割って出てくる。温暖化が進んで1フィートまで瘦せた氷河になったから、彼もアップアップしてるんだろう。
それでも再会は10年ぶりだから、懐かしい。やはり大きくなっている。温暖化が進んでも氷河が1フィートまで瘦せても、凍るまでに冷えてる海水の冷たい時間は守られているから、彼のゆっくりした成長のスピードは守られている。
5年先か8年先か分からないけど、392歳のニシオンデンザメと507歳のアイスランド貝の再会も楽しみにまっている。
北極の青白く冷たい海の中で生まれた女はゆっくり長生きする
大人になるのを忘れたようにゆっくり成長を続け、大きくなるのをやめようとしない
ホッキョククジラもニシオンデンザメもアイスランド貝も、そしてわたしも
ツアーのステージは、小さくても5万人収容のスタジアムだから、年200回で勘定すると年1000万人が生のわたしを見て、聴いて、感じてくれる。熱心なリピーターには親子代々もいるから、以前と変わらないとこだったり成長していったとこだったりを確かめながら楽しんでくれるはずだ。同じ位置から同じ距離の望遠カメラで写真を撮って重ねたら、10年前のわたしよりも1インチ伸びた身長と1カップ大きくなった胸のサイズに気づいてくれるはず。
そんな科学者みたいな地道な継続調査をしなくても、北の青白い炎の歌声は華氏6度熱くなってるから、きっと今夜も地球並みの速さでゆっくり成長していくわたしを感じてくれるはず。
黒いアゲハ蝶は、今夜も6フィート9インチHカップの堂々たる歌姫になって大都会のスタジアムを揺るがす。