2 路傍にて
隣の小蛇は枯れている。
きのう出てきたときは、わたしの二の腕ほどの長さで尺取りしていたが、だんだんに縮んで動かくなくなり、とうとう中の水も吸い上げられて屍の有様にさえ辿れなくなった。
かれが逝ったのはどのときだったろう。
尺取りのジタバタのときはすでに己れが虚しゅうなっていたろうか。それとも、動かず固まり、百滴の雨粒と引き換えに干上がる己れの屍を正々堂々正面から見続けるときまでは逝ってなかったろうか。
幼体の蛇だから、ゆうべ脱皮した抜け殻がわたしの趺坐の横に置かれてる。あたまの表裏までを綺麗に剝がした筒状の抜け殻が、干上がった彼とは違い、そのままの格好でとどまっている。すでに、かれはその抜け殻よりも小さくなった。縮んで軽く、いずれは夕べのかたちを忘れた骨だけの姿に化けるであろう。
そんなかれに、路傍を行き交う一連どころか腹を透かせたムクドリさえ目を止めるものはいない。たまたまの縁で隣になったわたしだけが彼の些末を見届けている。
しかし、わたしはこの小蛇を憐れんではいない。執着してるのだ。小蛇にではなくいずれ近いうちに同じ屍となる己れに執着しているのだ。
白の一枚布で己れを隠し此処の赤茶けた土けらに座ってから30年が経とうというのに、いまだ解脱しえぬ格好ばかりの行者に執着しているのだ。
喜捨が寄る辺の乞食となってから、口中が途絶え己れの肉のみを費やすだけのとき、何度この小蛇のように干からびる己れを想像したであろう。喜捨を寄る辺の乞食とはそういうものであると、行者が出来ぬ大の字に窶し踏ん反り返っただろう。
命そのものを委ねる己れであるから、一椀の飯、一杓の水が喜捨となりうるのだ。
そこに辿り着くまで、30年が掛かった。掛かったが、その先はない。わたしは彼の小蛇の次に枯れて屍になる。