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1 新生児集中治療室にて

 輪廻転生を繋ぐは水

 徳の高い魂ほど、今生(こんじょう)において華やかさとは縁遠い処でひっそり咲いて散っていく

 不治の病(ふちのやまい)(わずら)い生まれ落ち、もの心などとは無縁のまま()された幼子(おさなご)のように

 路傍(ろぼう)尻つく土地(しりつくとち)だけ与えられ、一生がそこでの物乞いを続ける行者(ぎょうしゃ)のように

 北極海の冷たく青白い氷の下で錆びず営々(さびずえいえい)と成長を続ける海獣(かいじゅう)のように


 気づいたのは、水溜りに止まる黒いアゲハを見続けたときだった。

 わたしは裸だった。春だというのに夏の暑さのジリジリに嫌気がさして、仕事もシャツもカバンごと脱衣籠に放り込み、サウナの付いた温泉に嫌というほど浸かっていた。

 吸い上げる水と吐き出す水の交合(こうごう)をどれほど重ねていったか、数え量るのはもうやめてしまっていた。

 露天の温泉からあがると、そうした椅子に身体をあずけている他の裸の男たちと同様に植栽の施された外庭を見るでもなく続けている。

 彼らは目をつむり、一様に動かない。火照った身体の湯気が消えても冷たくなった己の屍(おのれのかばね)を抱くように(ほお)ってる。わたしはこうしてこのまま屍になってしまうのは嫌なので、目を閉ざさずに動き回ってるものを探す。

 一匹の蝶がいた。

 黒いオスの蝶だった。黒い蝶が皆んなオスとは限らないのに、暑さと熱さにあてられた頭はそれがどちらか定めぬぼんやりをそのままに捨て置く透き間を持ち合わせてはいない。ほかの裸の男たちなどは消して、裸のわたしは飛び回るその黒いオスの蝶々を一心不乱に見続ける。

 その黒いオスの蝶は、生まれてこのかた、獲物でもなく交合(まぐあい)の相手でもない生き物にこれほどに長く凝視されることはなかった。だから疲れた。彼は飛ぶのをあきらめ、水へと墜ちる。

 それは温泉の零れた小さな水溜りだった。

 もとが温泉だったから、何か身体の助けになるものが含まれているのだろう。彼はジッとそれに佇んで(たたずんで)いる。飲んでいるのか浴びているのか、先ほどまでのわたしと同じにその水と一体になっている。

 どれほどジッとしているのか。

 わたしが飽いて(あいて)くるようだから時間は余程に経ったのだろう。

 彼は動かない。死んだように動かない。いったんは死んでしまったのかもしれない。

 飲んでいるか浴びているかの水の中に今生の魂(こんじょうのたましい)を戻して、代わりの魂を持ち運んでいる。


 暑さと熱さにあてられた私は、ぼんやりをそのままにしておける透き間は持ち合わせていないから、その黒々の蝶を屍に繋がる(かばねにつながる)までのオスと決めた。屍となった彼の所業を己ごと(おのれごと)として入った。



 

 いままでにも、屍となった(はし)から魂の交換がなされるのをわたしは何度か遭遇したことがあったのだ。ひとりは、切開された母親の腹からの今生に触れて(こんじょうにふれて)から2年先の屍に至る(かばねにいたる)まで、一度も新生児集中治療室《NICU》の保育器から出ることのなかった男の子だ。多臓器不全(たぞうきふぜん)で生まれたこの仔の眼(このこのまなこ)は一度も開くことはなかった。

 すやすやの眠りばかりの日常だから、目を開ける必然はない。

 もぐもぐの口元を見ると、その仔の母はそうだが、関わった医療関係者の女たちがことごとくこの仔に乳を与えたくなる。が、与えたなら、まんぞくな消化器系が揃ってないこの仔の命を瞬時に奪ってしまう。その衝動を抗う(しょうどうをあらがう)のにどれほどの強い気持ちで己の女(おのれのおんな)を縛らねばならなかったか。

 女たちの声をこの仔の耳は聞いている。

 身体に繋がれた沢山の配線のそれのどれがわたしの音を採取している波形かと見なくても、この仔は抗うわたしの心音を一晩中聞いているのは分かってることだから。

 もう何度、今夜こと切れるかの呼吸に陥っても、その度に保育器の温度と湿度と酸素濃度の微調整が育んでくれるから、お腹から出たとき16センチだった体高(たいこう)は新生児平均の29センチまで成長している。あたまの成長は遅いから、成長は身長よりも首から下の体高で図る方が意を得ている。ベクトルに従えば、身体は二倍近く成長している。


 NICU(ここ)で聞こえる女の声は様々が混ざり合ったりせず、撚糸(ねんし)のように紡いだ糸の一本でやってくる。柔らかいが少しパサついた日向(ひなた)の乾いた匂いのする声だ。視覚も嗅覚も備わってはいないから、声から他の感覚のニュアンスを拾う癖がついたのだ。母の声の方は混ざったりせずに違う糸でやってくるはずだが、あいにく胎内を通して聞こえてた声しか覚えていないので間に空気を挟んで保育器に届く声の違いを見抜くことはできない。もう少し修行して大人になれば、届いた撚糸の毛羽の毛先を、それより細く鋭利なカッターで切り取れるようになるかもしれない。


  ゲノムを素手で切り取る器用な科学者(サイエンティスト)のよう


 それが理想。

 理想はほかにも沢山あるが、回収が覚束ない(おぼつかない)くらいスパイラルは変化するからやめておく。邪念を冷やして、理想の一番前に置きおいておく。()()()が描くゲノムはあんなA・T・G・Cのアルファベットの文字が並んだものなんかじゃない。もっとアーティスティックに、目にした途端に焼くつくような美しいものだ。手に持ってその美しを味わいたくなるようなものだ。

 視覚に拠るのでなく、聴覚に拠って切っていく。

 だからゲノムに形は宿っていなくていい。胎内にいたときの羊水に浮かんでいた時の目のない網膜の裏側に映っていた小さなアブクの束が擦れる(すれる)のを頼りに、うねりが一番に高いところまで上り詰めた無重力(むじゅうりょく)無長音(むちょうおん)のタイミングで見えない片目を見開く逆さウインク(さかさウインク)すれば、スパっと切れるから。

 (ノート)でなく(メロディー)を切り取るなら次に廻ってくる波の頃合を見計らって、左右一緒の逆さウインクしたら、バッチリ。


 新生児集中治療室《NICU》の保育器しか現世(げんせ)をしらない(あたし)は、ママの胎内にいた時分の垣根が低いから、冷たく重たい真っ暗闇のマリアナ海溝に潜ってたノーチラスがいきなりバカンスたけなわの眩しく渇いたカリブ海に浮上したって、慌てて目玉を吐き出すようなへま(へま)はしない。

 どんなシチュエーションだって1歳半を迎えた子どもは、下歯の前歯(したばのまえば)2本が生えるよりもっとたくさん成長している。

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