その5 魔王の家と妖精と
その5 魔王の家と妖精と
「湖からお家までなら一緒に歩けるの。旦那様とお出かけなんてうれしいの」
僕の手を取って歩くエスリーは、父親と歩く娘みたいだ。もちろん前世では魔法使いの資格をもつまでもう少しだった僕に、こんな大きな子どもがいるわけない。
「あまりはしゃがないで」
テンション高めのエスリーだけど、僕ははっきり言えば困ってる。僕のいたのは、学校で先生が「近所の人にあいさつしてはいけません」と教える国だ。僕には子どもを相手にしたことがないし、同じアパートに住んでる子だってあいさつなんかしない。
ローティーン、JSってくらいのエスリーと二人でいること自体が気まずい。
「だってエスリーはお家から出られないの。だから今は特別なの」
「え?」
それは問題だ。児童虐待じゃないのかと思ってしまうけど、続く説明でわからなくなった。
「エスリーはブラウニーじゃないけど家妖精なの。家妖精は、そのお家の中からでちゃいけないの」
もともとは湖の妖精だったエスリーが、どうして魔王に従う守護妖精になったのか?どうして家妖精なのか?わからなことだらけで、そもそもこの世界の魔王がなにか、僕はまだろくに知らない。
ただ、この街が憂鬱で、好きになれそうにない。
湖岸から歩き始めた僕たちは、行く手を遮る白い壁を前にした。しかし、僕の手をひくエスリーは目の前になにもないように進んでいく。
「危ないよ、エスリー」
「平気なの。旦那様もこんなの気にしなくていいの」
そして僕たちはすり抜けた。
「あれ?……あれって幻なのかい?」
「いいえなの。ただ、エスリーとその旦那様には関係ないの」
「……どういう意味?」
「エスリーはもともとここの主で、旦那様は事実上今の主なの。だから祭殿を守る魔力壁も遮ることはできないの」
……ますますわからない。エスリーは世話焼きで忠実で僕の質問には答えてくれるけど、
元々の常識が違うせいか、聞いてもわからないことがある。
「旦那様。ここがレクアの街なの」
だけど、目の前の景色には驚かされた。悪い意味で。
「こんな街でよく今まで滅びなかったね」
どの建物も、同じような石壁の、同じような二階建ての、同じような四角形だ。違いがあるとすれば、それは汚れ具合とかヒビの割れ方とか。店はないのか、看板や装飾も見えない。いや、そもそも暗くてよく見えないんだけど、それはここには太陽も星もないんだから仕方がない。
「暗いの?なら灯りをつけるの」
エスリーは何事もないように、僕の手をつかんでいない方の掌を前にかざした。すると彼女の手が普通に光る。魔法だ。
「すごいね、エスリー」
「普通に火精霊を使役してるだけなの。あ、旦那様、そこ、気をつけるの」
足元の石畳には水たまりができていた。
「竜酸だまりなの。魔力不足のせいで、お空の光壁も耐えきれなくて染み出してるの」
危なかった……はまったら火傷ですみそうにないんですけど。気をつけて見るとけっこう多くそこかしこに竜酸がたまっている。
「道理で空気が酸っぱいわけだ」
エスリーの灯りに照らされた石壁は、その表面が溶けて変なマダラになっていた。僕は、前世で環境対策部門に異動させられた時に見た、酸性雨で溶けた街やら石像やらの写真を思い出した。
「昔は空気はきれいだったの。お店には看板も飾りもあったの」
エスリーは悲しそうにつぶやくんだけど、昔っていつだろう?
「お空は暗くても、歩く人は明るかったの」
人?人なんか誰も歩いていない。さっきから誰ともすれ違わない。
「外出禁止とか?」
「はいなの。でもそれよりも、みんな疲れてるの」
どうやら国土の維持に多くの魔力や労働力をつぎ込んでいるため、住人には余力がないらしい……ブラックだな。でも、それをやらないと国が竜の胃酸で溶けてしまうのか……。
「……どうにかならないのかな」
「旦那様は見知らぬ街の人が心配なの?」
とても不思議そうに僕を見るエスリーだ。やはりこの子の常識は僕とは違う。
「それが普通だと思うけど、おかしいかい?」
「旦那様はお人よしなの」
自分ではそう思わないけど、よく言われる。なんでだろう?
「僕のことはいいんだけど……なんとかならないの?」
「なるの」
「なるの!?」
こんな状態であっさりなんとかなるって言われて逆にびっくりですけど。
「魔力がたくさんあればいいの」
「……それって、新しい魔王が生まれればってことかい?」
先代の魔王が亡くなって数日。だけど、たったそれだけでこうも凋落するんだろうか?
そもそも魔王一人の問題で解決する問題なんだろうか?
「旦那様の考えることは難しいの。妖精はマナ的な存在なの」
「そして人間はポリス的な存在、ということかもしれないね」
まずは知って、考えることだ。僕は当たり前なことを、当たり前に考えた。ま、普通のつまらない人間だから、仕方ない。こんな僕でも湖底にいるアルビエラ母さんが期待してくれると思えば、なんとかしてみようって思える。
「ここなの。ここが旦那様とエスリーのお家なの」
「…………」
絶句です。歴代の魔王の住処ですよ?僕が万魔殿とか魔王城とかを想像していてもそれを責める人はいないと思う。しかし、だ。街に入って幾度か街角を曲がってあっさりたどり着いたのは、他の家との見分けがつかない、この街ではごくごく普通の家だった。
「築140年のレクア様式なの」
この国が竜に飲まれて間もなく改築された、当時最先端の魔法国家独自の建築様式らしい。無言のままの僕に、エスリーは少し舌足らずな声で説明を続ける。なんだか不動産屋の物件を紹介されてる気分だ。
「石材造りの二階建てなの。地下室と屋上もついて、もちろん各種精霊を誘因しやすい魔法円が付与されてるの」
召喚じゃなく誘因なのは、ここじゃあ精霊はそこらへんに普通にいるかららしい。
「だけど庭もベランダもないよ」
そう考えると、建売住宅より狭いんじゃないか?
「それに近所の家と見分けがつかないんだけど」
一度外出したら、戻れる自信がない。表札もないし、家の外見で区別は至難だ。
「近くでエスリーを呼べばいいの。旦那様に呼ばれたら玄関に立ってるの」
「玄関って、これ?」
家の外に戸があれば、そこは玄関だろうけど、普通に石扉があるだけで、勝手口にしか見えない。実際エスリーの細腕であっさり開いた向こう側には、三和土、つまり靴を着脱する土間の部分も段差もないし下駄箱がない。あるのは、普通の廊下だけだった。
「そうか、靴を脱がないんだな……」
国際交流部門に異動したときの資料によれば、家の中では靴を脱いで生活する様式は、室内が衛生的で健康にもいいと、最近海外でも広まりつつあるはずだったけど、ここじゃ縁遠いらしい。
玄関(?)をくぐると、エスリーはクルリと振り向いて、僕を見あげる。
「おかえりなさいなの、旦那様」
うっ……これはけっこう効いた。幼いとはいえメイド服を着た女の子に言われてみたかった。しかも僕の場合、両親を早くになくしたこともあって、誰かに「おかえり」と言われたことがとても新鮮だった!感涙にむせいでもおかしくなかったくらいだ……これがいけなかった。浸ってる僕に、エスリーが畳みかけてきた。
「旦那様、お家に帰ったらまず何をお望みなの?お食事、洗浄、それとも……エスリー?」
「gebobobobobo……」
なにかを期待して上目遣いしてるエスリーだけど、無防備だった僕の精神に与えたダメージは数値化できない!異音を発する口をとめるまでどれだけかかったことか。
「こほん。エスリー、そういう冗談はいけないよ」
僕が少女趣味だったら、危ないところです。
「エスリーのエスはシリアスのエスなの。エスリーはまだ魔力が足りないの」
「…………『エスリー?』って、エスリーへの魔力供与を先にするかって聞いたの?」
「はいなの。他になにかあるの、旦那様?」
「…………いいえ」
無邪気な視線からそっと目をそらす。汚れているのは、僕の精神みたいだ。
「だけど、時間がかかるの。だからエスリーはガマンするの。旦那様は靴を脱ぎたがってるから洗浄がいいの」
洗浄という響きは、なんか車を洗うみたいな感じがする。味もそっけもない。
「お風呂はないの?」
僕としては、体を洗う以上に、精神をやすめ体をくつろがせたい!ああ、お風呂!いいよねえ……湯船につかり残業の疲れを癒す、あの至福の時間!そして、その後のビールの泡!断言する!お風呂とビールがなかったら、僕の過労死はもっと早かっただろう!……まあ、それ以前に普通に休めって話だけどさ。
「オフロ?……旦那様がなにを言ってるかエスリーにはわからないの」
この言葉の衝撃は、僕がこの世界に来てから一番大きかったかもしれない。詳しくはないが、その方面では「デカルチャー」と言うはずだ!
「まさか、お風呂ないの?お風呂だよ、お風呂!お湯に浸かることは、体をきれいにするだけじゃなく、血行を促進し、心身の疲労回復にも、いや、水質によっては神経痛に関節炎、切り傷に冷え性、循環機能改善に、病後の回復や産後の肥立ちにだって効用があるんだ!」
もう、僕は思いっきり力説する!この世界の温泉伝道師になってもいい!
「全身浸かるくらいのお湯?……旦那様。水遊びに精霊を使役するのはいけないの」
なのに、エスリーは冷たく言うんだ。まるで、子どものいたずらをたしなめる母親みたいな感じだ。だけど、負けるもんか。そうさ、伝道師の第一歩目はいつだって無理解から始まるんだ。
「水遊びなんかじゃないよ!僕にはお風呂の癒しが必要なんだ!」
「とにかく、レクアでは贅沢な遊びはいけないの」
まるでわがままな小さい子どもを叱るように、エスリーは無情にも僕を狭い家の中でも一番狭い部屋に押し込んだ。シャワー室かもという期待はあったけど、シャワーヘッドも蛇口もない。これ、まさかの監禁か?推し入れ代わりの罰ゲームなのか?
「ここなに?僕、なにされるの?」
「旦那様、服は別に洗うので、はやく脱いでほしいの」
と言いつつ、僕が着ている服はまるで自分の意志があるかのように勝手に体から離れていく。まるで有名な妖怪マンガのちゃんちゃんこみたいだ。
「あ~れ~」
昔の時代劇で悪代官に帯を解かれてグルグル回る娘さんみたいな悲鳴を上げてしまう。
「旦那様、大人しくしないといけないの」
エスリーが手を叩くと、なにもなかった石の床に魔法円が浮かんで。
「え、なになに?」
青いもやと白いもやがたくさん僕の周りに姿をあらわす。おおよそ20㎝くらいだ。
「水精霊と風精霊なの」
どちらも精霊としては低位らしいけど、目をこらすと人の形をしている。子ども?
「じゃあ、旦那様、洗浄するの」
「洗浄ってどうやって?」
「エスリーのエスはスピンのエスなの」
それは説明になってない!幼い姿の精霊たちが集まってるせいか、なんだか「けらけら」「きゃぴきゃぴ」「わくわく」的な笑い声が聞こえる気がする。
「精霊たちも旦那様が好きなの。じゃあ、一緒にスピンするの」
指を上向きにクルクル回すエスリーの方がよっぽど楽しそうに見えるのは、僕の気のせいじゃないと思う。そして、水と風が渦巻く中、僕は思いっきり、そうフィギュアスケート
のスピンみたいな回転をさせられた。……ただし回転数は数えきれていない。で。僕は以前イベント部門に異動したときに見た資料を思い出した。昔の万博の、人間洗濯機みたいだ。
「でも、僕を洗うだけなら僕まで回転する必要ないよね?」
思いっきり目が回る中、ふと浮かんだ疑問です。むしろ僕を固定した方が摩擦みたいな関係で汚れ落ちるんじゃないか?僕はまだ回りたそうな精霊たちを見つめながらそう思う。
「別にエスリーは遊んでないの」
「……遊んでたの?」
「遊んでなんかいないの。旦那様、次は逆回転なの」
ひょっとして、僕、遊ばれてる?ヘロヘロのまま逆回転した僕だった。
「旦那様、おきれいになったの」
だけど、笑顔を向けられては怒るに怒れない。
「では、次は、お食事なの」
「……ごめん。なんか食欲ない」
三半規管と完全にやられた僕にはもう食欲がない。うぷっ……。
「そうなの?なら、今日は『栄養補給』ですませるの」
「錠剤かなにか?」
僕は海外どころか国内の観光にも行ったことがない。だから異国の食事には興味もあれば不安もあった。少し肩透かしの気分だ。
「いいえなの。『栄養補給』は魔術なの。魔力を栄養に代えて直に届けるの」
食べ物を出すとかじゃなくて、直接相手の体内に送るらしい。点滴みたいなものか?
「魔法ってすごい」
「だけど、一日一回しか使わないの、普通は朝食がサプリなの」
原理上は完全に栄養を補填できるらしいんだけど、毎日この魔術で暮していると、なぜか食が細くなり体重も減少し、ついには栄養失調になるらしい。だから、この国では朝食はこれで代替し、夕食は普通に食べるという習慣とか。
「う~ん、便利なんだか味気ないんだか」
「食料が不足なの」
「でも、魔力不足も深刻なんじゃなかった?」
「はいなの。だから、いろいろもう追い詰められてるの」
……こんな場面じゃ、ビールとか到底言い出せない。もうお風呂もないし、食事も楽しくなさそうだし、ビールにも期待できなさそうだ。もう気分は真っ暗です。
「旦那様、お座りするの」
僕の気分は別として、エスリーは何が楽しいのか、機嫌よさそうに僕の手を引き今度は居間らしき部屋に案内した。
家の壁はどこもむきだしで飾りもない石壁で、けっこう圧迫感がある。そのせいか床面積以上に狭く感じてしまう。居間もそうだ。四畳ほどのスペースの中央には小さな食卓があり、向かい合わせで椅子が置かれている。
「どちらも貴重なカシム木の家具なの」
木材そのものが貴重らしい。もともとは瀟洒な彫刻があったらしいけど、今ではくすんだ色の木だ。それでも清潔そうな布で覆われ、アンティークには無縁な僕でも上品な気がした。
僕は、所縁のありそうな古い椅子に、慎重に腰掛ける。
「エスリーもお邪魔するの。んしょ、なの」
てっきり向かい側に座るという僕の予想を大きく裏切り……斜め上なんてもんじゃない……エスリーは僕の膝の上に腰かける!メイド服の厚い布地を通して。小さいお尻の感触とかが伝わり、僕の鼻先を髪の香りが刺激する!
「tyo、tyo、tyo!……ちょっと、エスリー?」
「はいなの」
「なんで膝に座るの!」
初対面の少女にこんなことをされるほど、僕は美形じゃないし、それで喜べるほど大物でも、まして少女趣味でもない!正直、事案とかそっちの言葉が頭をよぎる小心者です!
「旦那様?……エスリーは魔術を使うの。でも魔力が不足してることに変わりないの」
振り向くエスリーは、特に僕をからかってるそぶりはないけど。
「だから、旦那様に触れることで、その魔力をお借りするの。契約妖精の特権なの」
「…………つまりは、僕の魔力を使って僕に魔術をかけるから、くっついた方が便利ってこと?」
「はいなの」
もう少し穏便なくっつき方ってないものか?せめて手をつなぐとか?そもそもこの子は気難しい年代なのに僕なんかにくっつくのがイヤじゃないのか?錯綜する僕を気にすることなく、エスリーはためらいなく僕に体重を預ける。スキンシップとかに縁遠かった僕には、いろいろ問題がありそうで。
「こんな光景を誰かに見られたら。前世なら一発アウトだよな」
「旦那様……そんなに固くならないの。エスリーを受け入れてほしいの」
どうやら僕がエスリーとの接触に困惑していることが、彼女にとっては負担らしい。悲しそうだ。
「旦那様はエスリーが嫌いなの。エスリーのエスはサッドのエスなの」
「き、嫌いじゃないんだよ!ただ、エスリーは会ったばかりだし」
「時間は問題じゃないの。エスリーのエスはサーバントのエスなの」
「いや、だってね。会ったばかりの女の子にくっつかれるのは」
僕の常識では、それだけで非常識なんだけど。
「エスリーのエスはスプライトのエスなの。最初からそう言ってるの」
つまりは、契約した従属妖精とは、そういうもの、ということらしい。それで納得できるほど、僕の常識はもろくないんだけど……。
「旦那様はふれあいを嫌がるお国から来たの?おかわいそうなの」
まあ、あの国は人との距離感が難しくて、僕もけっこう慎重な方だった。真面目な顔で同情されては、なんだか僕が悪い気がしてしまう。
「旦那様のそういうおかわいそうな境遇もエスリーが癒してあげるの」
エスリーは強い決意を漲らせてるんだけど、僕ってそんなにかわいそう?
「でも、その前に、まずは……エスリーのエスは『サプライ』のエスなの」
なんの気負いもない平文で、しかし、魔法があっさりと発動した。僕はうっすらと白銀光に覆われ、で、気のせいかもしれないけど空腹感がなくなっていた。いや、気のせいじゃないな。
こりゃシャルネさんも一言いうわけだ。お手軽とかお気軽とか、そんな調子で魔法が使われて、正直、ちょっと残念な感じだ。
「味もないんだ……」
マズイよりはいいかもしれないけど、食べる途中の味も食感もなにもない。
「明日の夕食はエスリーがつくるの。今日は旦那様が食欲ないの。食材も乏しいの」
先代の魔王さんが地上を去ってから、この家の食材も補充されていないらしい。
そのくせ、食後の歯磨きはしっかりさせられた?なんでだ?
水道はないけど、エスリーは水精霊を呼んで直に水をもらってた。
「旦那様、お家ではエスリーの言うことをきかなきゃいけないの」
いろいろ納得いかないけど、エスリーは僕の歯磨きに幾度かダメ出しまでした。
「旦那様、もう夜も遅いの。お休みになるの」
ずっと暗いせいか、僕の時間間隔は壊滅的なことになっている。とはいえ、疲労感はずっしり。さっきの洗浄と栄養補給でマシにはなったけど。
またまたエスリーに手をひかれ、狭くて急な階段を上り、その一室につれていかれた。
「ここが寝室なの」
……やはり狭い。仮にも魔王さんたちが暮らしていた家で、そのプライベートな寝室と言えば、それなりに、と思うのは間違ってるんだろうか?そこは3畳くらいのスペースで、木製の寝台は、シングルベッドより窮屈そうで、無駄についてる天蓋がそらぞらしいくらいに思える。とはいえ、シーツや毛布は清潔そうで、カプセルホテルだと思えばいいのかもしれないけど。
僕がベッドに横たわるのをしっかり見届けるエスリーだ。子どもの夜更かしを見張る母親みたいだ。なんだか悪い子になった気分です。
「旦那様、お休みなさいなの」
とても自然な動作で、エスリーは僕の頬にお休みのキスをしてくれた。普通なら僕はまた騒ぐところだったんだけど、疲れていたせいか、僕はすぐに眠りに落ちた。或いはエスリーのキスに魔法がかかってたのかもしれない。
「だけど……せまくて暗くて臭くてお風呂にも入れない……なんてブラックな……」
最後に、世話焼きすぎる妖精を思い浮かべ、評価に困った。
「旦那様!旦那様!」
僕を呼ぶ声に目覚める。胸の中が重苦しく、気分はとげとげしさでいっぱいだ。汗がすごい。
「……旦那様!」
目を開けると、暗い部屋の中、うっすらと光る、淡い水色の髪の少女が泣きそうな顔で僕を見つめている。あ、耳、少しとんがってたんだ……そんなことに今さら気づく。
「……僕?……ああ、エスリー?」
僕は寝台の上に横たわったままで、エスリーは半ば僕の上から抱き着いてる形だ。
「旦那様!ご気分はどうなの?」
「すごく悪い」
「悪夢なの。もう追い払ったの」
悪夢?確かに、悪い夢を見てた気分だけど……内容は覚えていない。
「お家には邪気払いも付与してるの。だけどどこからか入ってきたみたいなの」
むかむかする。動機もやまない。エスリーの、少しかん高くて舌足らずな言葉にもイライラしてしまう。こんな不愉快な気分は初めてかもしれない。
「旦那様、エスリーは心配したの」
だけど、不安そうな声を聴いて、僕のイライラはスウッと引いていった。
「……心配してくれてありがとう、エスリー」
今までこんなことを言える相手は、いなかった。それが出会ったばかりで昔の契約で従ってる妖精相手でも、普通にうれしかった。
「旦那様……それは当たり前なの。エスリーのエスは」
スプライトでもサーバントでも、大したことじゃない。
「僕のお世話をしてくれるメイドさんだ。頼りにしてる」
きゅ。エスリーの両の腕が僕の首にまきつく。
「そうか……エスリーもさみしかったんだよね」
仕えていた先代の魔王が去ったばかりだ。この家に一人で何日も過ごしていたんだ。僕はそんなことも考えなかった。僕は、人の顔色を窺ってたくせに、相手が何を感じてるか本当は無関心だったんだな……。
「旦那様。代々、魔王様の魔力はとても強くて、魔物たちの中には旦那様のお肉や体液の一部を狙う者もいるの」
「え?……西遊記の三蔵法師みたいだね」
伝説の聖者とかにはそんな設定があった気がする。
「……特に、まだ魔力を操る術を持たず、魔術も使えない旦那様は格好のエモノなの」
あー……僕の戦闘力は皆無だ。昔のマンガにあった戦闘力を数値化する機械で測定されたら、「1」とかじゃないか?
「そして、悪夢や淫魔はたちが悪いの。夜忍び込んで、無防備な相手をむしばむの」
……悪夢はゴメンだけど、もう一つのほうは正直心惹かれます。もしも「摩耶ちゃん」みたいな小悪魔系なら、誘惑に耐える自信はありません!
「旦那様、なんだかおかしなことをお考えなの」
「そんなことはありますん!」
「どっちなの?……旦那様は男性だから好色なの」
否定しきれない!もう少しで魔法使いの有資格者になれる僕だったけど、それはいろいろと余裕のない生活だったからで、そもそももてないってこともあるけど、「そういう」機会があればよろしくお願いしたい主義でした!
「……旦那様。エスリーが一緒に寝てあげるの。だけどエスリーは魔力の容量が大きくないから、いくら劣情しても旦那様の体液注入は禁止なの」
「Bu!」
僕の上に抱き着いたままのエスリーが、とても危険なことを言い出しました。
「それ、ダメだから!いろいろ問題だから!」
「そうなの。キスも唇はダメなの」
「そういう意味じゃなくて!」
もちろんしませんけど!
「そうなの。これはエスリーへの魔力補充の意味もあるの」
「手をつなぐだけじゃダメなの?そもそも普通に魔力を注いじゃダメなの?」
まあ、魔力を注いだこともないけど、やり方を聞けばできるかもしれないし、少女相手に同衾とかよりはよほど安心安全です……主に僕の精神にとって。
「旦那様。なんどもお話したけどエスリーは直に旦那様の魔力を受け取れないの。旦那様の魔力は濃すぎるの。もし受け取ってしまったら、魔力暴走するか消滅するかもしれないの」
……寝台で僕と重なったままで、しかしエスリーの話は真面目な内容になっていく。僕も騒ぎ立てる雰囲気ではなくなってしまう。
「……言ってたね」
「だから、エスリーは、旦那様が自然に放出する魔力だけをいただくの」
生きとし生けるものは、おしなべて魔力をもつ。それはその体内で魔力を発生させ、循環させているからである。それを生体魔力という。
そして、その魔力は生きている限り発生し続けるわけで、循環する以上の魔力、つまり余った魔力は自然と体外に放出される。
「汗や体温と一緒に放出されるの」
「……その放出された生体魔力が自然界に漂い、集まり、流れて?」
「はいなの。それが世界の現象魔力になるの」
前に聞いた話ともつながるし、これがこの世界での魔力の基本概念らしい。
「旦那様の魔力は、歴代のご主人様と比べても多いし純粋なの」
それ、実感がまったく湧かない話です。何度言われても他人事なんだけど。
「それに、それを狙ってやってくる魔物は、きっとこれからも来るの」
「つまりは、エスリーの魔力補充と深夜の警護のためなの?」
「はいなの」
ふう……いろいろ悩んだけど。
「エスリー。さっきみたいな悪夢から、僕を護ってくれるんだね」
「はいなの。旦那様はエスリーがお守りするの」
いつの間にか、僕の頭はエスリーに抱えられている。ふにゃん。頬にあたる、頼りない感触がちょっとだけ気になるけど、思ったより落ち着く。さっきまであったとげとげしい気分も薄らいでいて、今、完全になくなった。
虚勢はやめた。あの悪夢とやらはもうまっぴらだし、エスリーが抱いてくれるのは……前世の常識を気にしなければ……意外に悪くない。自覚して、力を抜く。
僕はこの子の保護者のつもりで、どうやら、実は逆だったらしい。
「旦那様。今度はよい夢をみるの」
エスリーのお休みのキスは、やはり魔法の効果があるに違いない。