序章 天使が来た日
天使が来た日
「アインシュタインに言わせれば、死ぬということはモーツァルトが聞けなくなるということなんだってさ。キミはどうなの?そういうの、なんかない?」
「ああいう偉い人と比べられると、なんだか緊張しますね」
目覚めたら、雲の上にいた。見渡せばどこまでも青い空、そして足の下には白い雲が無限の絨毯のように続いていた。きっと天界とか天国とか、そっち系の場所なんだろう。
「死は偉人にも凡人にも平等だよ。父なる神にとってはどちらも等しく愛し子なのだから」
僕と話しているのは天使だ。絵に描かれるようなきれいな天使。背中の白い翼と頭の上の輪がちょっとまぶしい。
だけど、慈愛に満ちた言葉とは裏腹に、その天使の目は僕を凡人と言っている。
「……ええと、そうですね。僕にとっては……死ぬってことは」
しかし思い浮かんだ自分の人生には、浮かぶものが一つしかない……死んでも凡人のままみたいだ。
「……仕事ができなくなる、みたいな?」
「まだ仕事する気!?」
驚かれた、いや、呆れられたみたいだ。目の前の天使は大げさに目を見開いて迫ってきた。
「キミは新種の回遊魚かい?泳いで泳いで泳ぎ続けて、泳いでないと死んじゃうんだ……確かにキミの国じゃあ引退すると早死にする人が多そうだからねえ」
「誰がマグロですか」
初対面の、っていうか天使に初めて会うというすごい経験なんだけど、それは僕が死んだ日のことで、しかも、さっきから怒られてるような気しかしない。
「キミ、自分の死因わかってる?」
「死因ですか?なんかすごく頭痛くて、胸も痛くて、お腹痛くて……あれなんだったんでしょう?」
「明らかに過労死だよ!そもそも以前からあっただろ、たま~~の休日に見舞われた重い偏頭痛にきつい全身の圧迫感!あんなにはっきり前兆があったのに……かつて地球上に闊歩しついには絶滅した大型爬虫類並みの鈍さだね。キミ、神経伝達どうなってるの?」
平日は交感神経が優位状態で緊張してるおかげで気づかなかったことが、休日は副交感神経が優位状態になり、つまりリラックすると、もろもろが噴出して苦痛を訴えるらしい。つまり仕事中は平気でも、実はそれ、脳内でいろいろな物質が分泌して痛みを抑えていただけで、本当はとっくの昔から僕の体はボロボロだったってことらしい。
「へ~最近の天使って、科学知識もすごいんですね」
「ボクに感心してる場合じゃないだろ?本当に愚かだな、キミは。鼻をかむたび、メガネをふくたび、テーブルのごみを拾うたびにいちいち取り出されては捨てられる街頭でもらったポケットテッシュだってもう少し自分を大事にしそうなものだが」
なんだかすごいディスられてるけど、僕には僕で言い分があった。大型爬虫類や回遊魚なんかと一緒にしないでほしい。
「だけど、僕は頑張ったから、職場じゃあ、もの覚えが早くてどんな環境にもすぐなじむって言われてたんですけど」
これは事実だ。転勤しても部署替えにあっても僕は早く居場所をつくるために頑張った。
「キミ、今の会社に採用されてから何度転勤させられたの?部署異動は?そのたびに通勤帰宅の生活時間は激変、人間関係も業務だって……おかしいって思わない?」
思うか思わないかで言えば、自分だってそう思う。しかし、欧米と違い、日本の企業は雇用契約がいい加減だ。給料は、業務内容ではなく「人」に支払われる。どんな仕事を何時間働くかを明記する契約を正規に結ぶ社員は少ない。同じ業務でもパートと正社員で時給が違うのはそういう仕組みだからで、仕事と言われれば業務外のことでも普通にやらされるのが日本の企業だろう。そして……転勤と言われれば転勤するしかない。理由の説明もないまま、転勤と告げられ、自分の努力不足かと思って転勤先で無理して働いて、短期間でそれなり以上に成果を挙げたと思ってもなぜか翌年また転勤で。
「キミの場合は明らかに異常だね。パワハラじゃない?……で、気づいてたんだろ?」
「…………むりくり人事でも、理由はあるんでしょうし、誰かが引き受けないと困るんでしょうから仕方ないですよ」
「……バカ?」
「バカはひどいです、天使さんの方がパワハラじゃないですか」
「ボクはいいんだよ、別段キミを罵倒することでノルマが上がるわけでもないんだから」
「そういう問題じゃないと思いますけど」
「人がいいのも問題だよね~キミの会社じゃ、単に社内の人事交流とかを言い訳にして重役たちが派閥争いのため人事権を行使してたんだって。そのしわ寄せがキミに来てたんだよ?……ほんとに気づいてなかった?」
気づいてたか気づいてなかったかと言えば、気づいてた。そういうウワサがあるってことくらいだけど。
「そういうのは、そのうち誰かが気づいてやめてくれるって思ってました」
「……ほんとにバカだねえ。自分で苦情を言うとか、積極的にどっかの派閥に入ろうとか、そういうのをやめさせるくらい出世しようとか、ないの?本質的なところで人任せなんだね」
「だって、うちの会社、問題だらけでいちいち文句なんか言ってられません」
「さすが業界最大の超ブラック……なんでそんな会社に入ったのやら」
「……問題を直したら、もっといい会社になって成長できそうだなって」
「キミは社長の御曹司か!?何様だよ?……上の者からしたら、キミはなんでもハイハイいうこと聞いて、それでもまあまあ使える捨て駒、そういうことさ」
「……確かに使いべりのしない便利屋って思われてたかもしれませんけど、でも、ちゃんと教えてくれなきゃ、わかんないですよ!僕の転勤理由もですけど、エライ人たちにだって、下っ端の気持ちや現状をわかってもらって、そのうえで対処して経営だって……」
「だから、わかろうとしない人に何を言ってもムダなんだよ、この世間知らず」
グウの音も出ない。天上目線なのに、いちいちもっともらしいのは、きっとこの天使さんはいろんな人生を見てきたからなんだろうって思う。
「……ありがとうございました。僕、なんだか自分のいたらないところを教えてもらって、スッキリしました」
「……マジ?」
「え?本気で本音ですけど?」
「自分を酷使した会社のエライ人にウラミ言とか、休日出勤をキミに押し付けてちゃっかりデートしてた後輩にツラミ言とかないの?」
「ツラミ言ってなんですか?そういうのは僕ないんで。人を呪わば穴二つって言いますし」
人と争わず、怒らず、もちろん恨んだりしないのが僕のトリエだし。
「……まあ、いい感じでお人よしってのは、条件にはかなうんだけどねえ」
「条件って何ですか?」
「うん。アミダからキミを薦められたからね」
「アミダ様ですか。そういえば僕、死ぬときに迎えに来てくれるのは阿弥陀如来って文化圏だったんですけど」
とはいえ正直に言えば、性別不明で年齢不詳の阿弥陀如来よりは、目の前のかわいい天使に迎えられた方が報われた感があった。3日間一人で苦しんで、そのまま死んでしまった僕は、でもこの天使を見た時、すべてを忘れられたんだ。もっとも当の天使は見かけよりはるかに気難しい性格で、そんなところは仏様とは違うみたいだ。
「まあ、同業他社と業務協定くらいは結んでるさ。これも現代人の意識が高次元化しつつあるから可能なことなんだけどね」
そういうのがないと、すぐに宗教戦争とか文明の衝突とかになるらしい。そう考えれば、人類も少しはマシになった気もするけど。
「まったく、昔はボクたちの指示がなければ何もできなかったくせに、でも、なんとか苦難を乗り越えてここまで来たんだからね。楽園から追放した甲斐があったよ」
とはいえ、改善の余地があるそうで。
「だけど今世紀も戦争は続くんだね。見てる方がつらいよ。人類の歴史は残り何ページかって、そろそろまた始まりそうだ」
時々地上に出現する、何とかの予言書とか人類滅亡〇〇年説って、天界のブックメイカーの流出品じゃないかって気がしてきた。
「死んだはずなのに背筋が妙に薄ら寒いんですけど。そういう創造主目線のやばい話って、聞いてていいんですか?」
「キミの記憶はこっちでいい具合に調整しておくから大丈夫さ。本来なら記憶も人格も全漂白して、次の転生先に送るんだけど、今回は特別な事情があってね」
「特別な?……僕、なにされるんです?どこに行くんですか?」
「ああ、それは秘守義務があって教えられない」
「そうですか……そうなんですよね」
その時思ったんだ。僕は、きっと天使にも都合のいい男なんだねって。
「会社にも同僚にも、みんなにとって都合のいい僕だから、きっとあなたにとっても都合がいいんですよね」
「……キミ?」
「だけど、僕だって死ぬために生きてたわけじゃない!使い捨てにされるために働いてたんじゃないんです!」
本当はわかっていた。自分のやりたいことが見つからなくて、だからなんとなく進学して、なんとなく就職して。いつしか自分がなくなっていた。
「でも、結局なにも見つからなくて……だからきっと僕は自分のために何かを見つけるんじゃなくて、誰かのために働くことでごまかしてたんです!いけませんか!それで死んだ僕はバカですか!」
なんでかわからないけど、涙が出た。僕はせっかく僕を迎えにきてくれた天使に八つ当たりしてる。本気で情けなくなった。だけど止めようと思った涙も、黙ろうと思ってる口も止まらない。止められない。それがいっそう僕をみじめにする。
「それでいいんだよ、キミ」
だけど、僕よりうんと小さい天使は僕にゆっくり近づき、背伸びして僕を抱きしめてくれた。よく見たら足元は宙に浮いてたけど。
「キミはバカでお人よしで、自分がしたいことすらわからないどうしようもないヤツだけど、ほとんどの人類はそうして死んでいく。生まれた時から使命を知ってるボクたちと違い、キミたちは自分で見つけなきゃいけないから、迷いや悩みは尽きなくて、限りあるわずかな時間の中で、自分の使命を見つけられたのは、ほんの一握りさ。だから死んでようやく後悔するんだ。キミは人よりちょっと後悔が遅いけどね……よかった。全然後悔してないんじゃないかって心配だったんだぞ」
細い腕が、白い翼が僕を包んでくれる。天使には匂いがないと思ってたけど、僕の天使さんには花の香りがした。
「キミたちは迷うし悩むけど、それはボクたちにはできない、キミたちだけの特権さ。うらやましいって言ったら言い過ぎだけど」
こんな言い方がおかしいのはわかってるけど、僕はこの時思ってしまった。こんな天使さんに抱いてもらえたんだから、このまま死ぬのも悪くないかなって。
「こら、顔、顔……なんだい、その顔は……まったく、使い古されてゴムのきれたジャージみたいなゆるんでだらしない顔になっちゃってるよ」
「……そんなに見苦しいですか?」
「人によっては母性本能がくすぐられるかもしれないけど、ボクはキミを成仏させに来たんじゃないんだ。そっちは専門外だし、決意が鈍るからやめてくれ」
成仏は、おそらく阿弥陀如来とか、そっちの業界用語だから、天使は確かに違うかもしれないけど……だったら僕はなにをされるんだろう?
「だいたい、キミはまだ一番大事なことがわかってない。そこは不安材料だけど……ま、向こうで気づくかもしれないし」
「向こう、ですか?」
「キミが本当のバカなお人よしだけだったら、僕はキミの転生をためらうところだったけど、今は大丈夫だって思うよ。キミはバカでお人よしだけど、ちゃんと前世を後悔して、次の人生でやり直しできるくらいには見込みがあるってね」
「そんな、バカでお人よしって何度も言わないでください……」
僕は転生する……でも、それが急に寂しくなった。今は天使さんから離れたくなかった。
「はい、ここまで。キミのせっかくの旅立ちを僕は祝福してるんだからね」
それなのに、天使さんは僕から離れていった。僕は急に心細さで震えて、そんな自分を両腕で抑えようとする。
「だから、いいかい。今度は後悔しちゃだめだよ。ちゃんと自分を生きて」
自分を生きる。なんて難しいことだろう。人と揉めず、争わず、それだけじゃいけないんだろうか?
「争うことと、自分を主張することは違うよ。自己犠牲が慈愛じゃないことと同じさ」
「僕には難しいですよ」
「誰にだって難しいことさ。だけど、そこから逃げない!いいね、次の人生は幸せになるんだよ。そして……その世界を好きになってね」
僕は僕の世界が好きじゃなかった。僕に犠牲を強いる会社に、我慢させるみんなに。だけど、それは僕にも原因があったわけで。
「だから、ちゃんとがんばれ、人として。回遊魚でも使い捨てのティッシュでも、絶滅した大型爬虫類でも、使い古しのジャージでもないところをボクに見せて、そして天寿を全うしたまえ」
ドン!天使さんは小さな手で僕を突き飛ばした。すると僕の足元はなにもなくなって、僕は一気に落ちていくんだ。
「ボクはここからキミを見てるからね。しっかりね」
ものすごい勢いで落ちながら、僕は、赤ん坊に戻ったみたいに泣いた。寂しくて心細くて、でもちょっとうれしくて。流れる風圧が僕の涙を全部吹っ飛ばしてくれた。
だから僕は、僕のままで、でもちゃんと生まれ変わることができるのかもしれないと思ったんだ……その時は。