冷たい食卓
卓を囲む二人きりの家族の間に、冷たい風が吹いた。
「……食べなさい」
見る限りに銀色を纏う皿にのせられている、真っ白いコメの粒。母親は、我が子に食べろと強制をしている。しかし、少年は首を縦には降らない。かといって、横にも降らない。
聞こえる音と言えば、早朝5時半の小鳥の囀りだけである。少年の垂らす涙と汗は、儚げに床へ落ちていく。
母親の怒りは、少年にへとだけ向いている。すぐそこにある映らないテレビや、壊れたヤカンには興味を示さない。ただ、荒んだ喉を潤すべく、卓に置いてあるコップを手に取った。手首を震わせながら、おぼつかない動作のまま、頬のあたりでコップを立てた。もちろん中に入っている水は零れ落ち、母親の頬を激しく伝っていった。
コップを卓に置いた。カタン、と。その音が、少年にとっては恐怖の音なのである。
母親は、再び少年の方へと向いた。
「もう一度言うわ……食べなさい」
少年の手元にある箸は、黒く、長い。少年が持つには重すぎるその箸を、母親はいつも出してくる。この箸を持つことを、少年はできないのだ。
無理を強制されることよりも、母親に叱られいる方が、少年には耐えられない。しかし、どう吸うことも出来ないから、少年は今涙を流しているのである。
「あのね、もう一度というのはね。もう二度とという意味もあるのよ。わかるかしら?貴方は今、一度のチャンスを逃したのよ。もう二度とないわ」
「…………」
少年の心が痛んだ。
母親の声は、どこか悲しげで、それでいて優しさを持っている。だからこそ、母親のその言葉が、少年には強く響くのである。
「…………」
母親は、もう喋る気がないと分かった。そうなれば、少年はもう食べるしかないのである。目の前に置かれている、少年にとっては最後の晩餐を。
少年はついに箸を手に持った。とても重くはあるが、それでも少年は箸を持った。母親の視線が、痛いくらいに突き刺さっている。涙のトッピングを施したその白飯に、少年の脳は一種の拒否反応を見せている。しかし、もう、食べるしかないのだ。
「……いただきます」
そういうと、少年は食べた。
白飯を箸でつかみ、口元にへとやっていき、食べた。
「……ん…………」
少年の涙は、止まらない。息をすることすらままならず、鼻詰まりもひどい。それでも、少年は食べる。食べ続けなければ、母親が口を開かないからである。
「……おぇ…………おぇ……」
もう限界が来ている。精神的にも肉体的にも、少年は限界なのだ。
しかし、それでも。少年の腹が満ちようが、箸の進む速度は変わらない。
茶碗の中に入っているものも、一切の変化を見せはしない。
「…………」
母親が見ている。母親に見られている。極度の緊張状態に陥った少年の喉は、もはや通るものなど存在はしないようになってしまった。
「んぐっ、おぇ、おぇ……」
飲み込もうとしても、のどが通さない。強制的に口の中から吐き出されたかつて白飯だったものには、少年の唾液がトッピングされている。
少年は、母親の方をみた。母親の目は何を語るのか、この少年の姿を見て、何を感じたのかを探るべく、少年は母親の目を見た。
深く、深く。
深淵まで……。
「……偉いわ、偉いわよ」
母親は、そういった。
満面の笑みで、実の息子にそう語り掛けた。
「母さん……」
少年は、思った。
この時間こそが、至福なのだと。母親に褒められることが、こんなにも清々しく、美しいものだとは知らなかったのだ。少年の心は今、清く染められている。
涙で濡れた母親の顔を、少年はじっと見つめた。
「ごめんよ、ごめんよ……愛してる、愛してるのよ……許して……」
「そんなことない、母さんに許しを乞う権利なんて、ありはしない」
窓から吹き込む秋の風が、親子二人を優しく包み込む。
冷たい食卓に並ぶ母の目を、少年は今日も見つめるのみ。