時計の針
少年は、首を吊った。
この世にはもう未練など無く、生きているだけの地獄から、少年は解放されようとしているのだ。
少年の首に麻縄が掛かったのが、つい一秒前である。これから30秒ほど、少年は最後の地獄を体験するのである。
その地獄というものは、決して痛いとか、辛いとか、苦しいとかではない。
地獄を体験するのである。少年が生きている間に体験してきた地獄とは比べ物にならないくらいの、地獄を体験するのである。
「ぐぅぅぅ……」
まず、少年の眼球の水分が吸い上げられていく。血が頭の方に登っていき、鼻血などが出始めた。
それと同時に、脳に酸素も届かなくなり、激しい頭痛に襲われる。頭がはじけるのではないか、というくらいに熱くなった。
しかし、こんなものは地獄ではない。もっと恐ろしい地獄が、少年を待っているのである。
「んんんんぐ……」
完全に息ができなくなり、少年の喉からは、とても声と呼べるようなものではない音が発せられた。この時点で、少年の中で一つ、大きな違和感が生じたのである。
長くはないか、と。てっきり、苦しいがすぐに死ねると思っていた首吊りで、ここまでの時間がたつとは思っていなかったのだ。
しかし、実際はまだ5秒も経ってはいない。人間は死を目前にして、初めて生というものの偉大さを感じるのである。
体感時間が長くなってしまうと、少年の体は勝手にある行動をとった。
首を掻いたのだ。
少年の意志とは関係なく、生きようという人間としての意思が体を支配しているのである。
首にめり込んでいる麻縄を何とかしようと、首を掻き続けているのである。
もはや少年にどうすることも出来ず、ただ自分の手で自分を傷つけるという最悪の痛みを感じるだけだ。
しかし、これでも地獄と呼ぶにはふさわしくない。さらに恐ろしい地獄が、この先にあるのである。
「----------」
少年の喉から発せられる音は、もう音として言語化することは不可能である。
しかし、喋れなくなっている少年も、まだ生きているのである。首を掻くこと約5秒。少年にとっては何分と感じたのだろうか。血だらけの首と手に、真っ赤な顔面。残りの寿命が10秒程度の少年の顔には、死を覚悟した者の物とは思えない、苦悶の表情が浮かび上がっている。
血液がどんどん上半身にたまっていき、そうなれば、下半身の方は冷たくなる。様々なものが決壊している。
少年の現在の服装は、無地のシャツにジーパンであるが、そのジーパンの中にはパンツがある。そのパンツの中が、決壊し体の中からあふれ出してきた様々なものでいっぱいになった。
とても激しいその臭いは、瞬く間にも少年の鼻に届いた。今は臭い臭くないどころの話ではないのが唯一の救いではあるが、それでも、嫌なものは嫌である。
パンツの中からあふれ出したそれらは、少年の太ももをつたい、重力に逆らう事なく下へと向かっている。その感覚が、少年にとっては一番の苦である。
しかし、地獄というものはこれとは違う。地獄はさらに深く、少年はまだ片足も入れてはいない。
「…………」
ついに音を発するという事が出来なくなった。
この時点で、15秒。残り半分程度の時間で、少年は息絶えることができる。
血はさらに上り、胃の中のものもそれに従い上ってきている。口からは、その胃の中にあったものが吐き出ている。頭まで到達した血は目から鼻から出ていく。行き場を失った血が血管にたまり、そうすれば裂け、遂に血に自由が舞い降りた。
体中の穴という穴からその血は噴き出ている。主に、顔面から。
気を失ってもいいころだが、少年の意識はいまだにある。それもそのはずだ。死を目前にして意識を失うような人間はいない。完全なる開放の時を、今か今かと待ち続けているのだ。
そう、今か今かと。
少年にとっては何分の時が経ったのだろうか。苦しみ苦しみ、それでもまだ地獄が待っているのだ。
残り10秒の間でも、地獄は現れない。少年は地獄を見られないのだ。
そういう、地獄である。
離れてしまった者の定めなのである。
「……………………」
少年の10秒は、まだまだ終わらない。