訊かぬは一生の恥なり
子供の頃に見たのを思い出してずっと前に書いたんだけど、じつは小説が既に存在していたんですね(笑)。もちろん小説の存在を知らずに書いたので、まったく別の語り口になっているはずです(こんど読み比べてみよっと)。
この話はかなり古く、草刈正雄さんが主演でしたね。当時はVTRを残しておかなかったなぁ。。。もういちど見たい。
インターネットで何でも知ることができる現代では辻褄が合わないので、時代背景は当時のままです。
なお、人を批判するような表現が含まれていますが、あくまで主人公の目線に立っての表現であることをご了承ください。私だって無能で貧乏人なのです。。。
自分ほどの知的人間はそうそう存在するものではないと、遠山は思っていた。
遠山はある大手商事会社に籍を置いている。三十六歳で、営業本部長。何を問わずして博識であるとの評を受けていた。
幼い頃から英才教育を受けてきた遠山は、まず五カ国語をほぼ完璧にマスターしている。政治経済界の常識はもちろん、科学にも強い。世界全国の諸事情は知り尽くしているという自信があった。あらゆる学問の知識はもとより雑学知識までと、その分野は全域に達しているといってもよい。たとえば生物学などの専門外分野にしても、研究者と質疑応答できるだけの基礎的な能力は備えていた。
自分に較べればこの社の、いや世間全体の人間はほとんどが屑だ。無能な人間ばかりであった。世の中には一握りの有能な人間と多くの無能な人間がいる。そして大抵の場合、無能者は貧乏人だ。
教養は力なりという。遠山の知識はうわべだけのものではないから、充分な応用が利く。加えて記憶力にも自信がある。これまで、何事にも常に最悪の場合も想定して判断を重ねてきた。上司の判断を必要としたことは少ない。その結果が営業本部長の椅子であった。
その日に開かれた会議で、遠山は一人の部下を叱った。池田というAブロックを担当する主任であった。売上の下降しているAブロックの状況を遠山は訊いた。池田の答えは遠山の怒りを買うものであった。まず、状況を把握できていない。状況が把握できなければ対策も浮かばない。Aブロックの成績が落ちるのも無理はなかった。下降線をたどり始めたのは池田が担当になった頃からだったのを、遠山は思い出した。
遠山は総務課に説明することにした。池田を担当から外してもっと有能な者を就かせないかぎり、Aブロックの成績はどうにもならない。
遠山は夢を見た。
奇妙な夢だった。
夢の中には常識は持ち込めないから、遠山の能力をもってしても解決はできない。そういう夢はこれまでに数多く見ている。
妙に現実感めいたストーリー性のある夢で、そのストーリーの中には人為的に創作されたような伏線もある。完成度の高い夢なのだが目が覚めればやはりどこかに欠陥がある。夢の中で遠山は必死に解決を試みるが、どうにもならない。目覚めたあとにもその夢をはっきりと覚えていて現実の思考を働かせてみるが、やはりその世界には遠山の頭脳も及ばない。
自分が無能な人間に成り下がった夢も見たことがある。永劫に思える時間の中で、無能呼ばわりされて絶望にまみれていたことがある。
夢は脳のイタズラが生み出すもの。能力が詰まりすぎたためにそういった夢が生じるのかもしれない。無能な人間は逆に自分が称賛を浴びる夢でも見ているのであろう。そしてその夢が覚めれば現実が残る。夢を見るというのは無能な人間の好む言葉であるというのが、遠山の考え方だった。
もちろん、まったくストーリー性のない夢も経験している。
その日の夢にもストーリー性などはなかった。これまで見た記憶にある夢と較べて、一風、不可解で不気味な夢であった。
実体のない空間――景色も色も思い出せない。その空間に遠山は独りで存在していた。
気づいたときには、遠山の全身に幽鬼じみた声がまとわりついていた。空間のあちこちに小さな隙間が生じたり消えたりして、か細く、しかし脳裡に共鳴するような音声でブツ、ブツ、ブツとつぶやいていた。
遠山は叫びだしたくなるほどの恐怖に襲われた。
やがてその音声は聞き覚えのある声に変わった。社の連中であった。会議で叱ったAブロック主任の池田の声が聞こえた。他の部下たちや女子社員のつぶやきも混じった。遠山は耳を覆った。悪意が全身にまとわりついていた。上司たちの声も混じって、全員が遠山の悪口をつぶやいていた。
やめろと、たまりかねて遠山は叫んだ。
悪意のつぶやきがピタリとやんだ。
訊くのは一時の恥……。
はっきりと言葉が流れた。男と女の声帯を掛け合わせたような奇妙な音声だった。
訊かぬは一生の恥……。
その声は続けて、そう言った。
男と女の声帯を掛け合わせた奇妙な声は、次の瞬間には高笑いに変わった。身の毛のよだつおぞましい声であった。空間に数え切れない〈顔〉が浮き出て遠山に嘲笑を浴びせかけていた。
目覚めたときには部屋が薄明るかった。いつの間にか目を開けている自分に気づいた。
日中に、夢を引きずるような奇妙なことが起こった。
社員の表情が全員、妙に明るかった。
遠山は浮かない顔で出社した。目覚めが悪いと遠山は不機嫌になる。くわえて、悪意に満ちた夢の影響もあった。自分を良く思わない社員が少なくないことは遠山自身が承知していた。そのための被害妄想的な夢かもしれないと、自己分析した。それでも、さすがに気分は良くなかった。上司まで入り交じっての悪意のつぶやきは強烈であった。夢だとわかっていても、不愉快だった。
常日頃から社員の悪意を無意識のうちに感知して、積み重ねられたそれが夢に出たとも考えられた。
不機嫌な遠山を社員たちは笑顔で迎えた。
職場にはこれまでにない明るさが飛び交っていた。勤務時間中もそれは同じであった。自然な活気に満ち溢れていた。その中で遠山だけが一人で沈んでいた。人々の活気が何を意味するのかわからないから、なおさら不機嫌になる。
昼休みに、その活気の理由が一部分だけハッキリした。
社員食堂であった。
「ところで、見ただろ? スンドコベロンチョ」
いつもグループを作っている若い連中が傍のテーブルにいた。
「見た見た。すごかったな、あれ」
答えたのは、Aブロック担当主任の池田。
「あの、スンベロでしょ?」
女子社員が楽しそうに笑った。
「部長は見ました?」
部下の一人が訊いた。
「…………」
遠山には話が見えない。
「バカだね、部長が見逃すわけないだろ。ね、部長」
池田が顔を向けて同意を求めてきた。
遠山は池田を一瞥して、目をそらせた。池田の表情が夢の続きのような悪意をたたえて見えた。
「ああ。たいしたものだ……」
とりあえず、知っているがどうでもよいふりをしてみせようと思った。
――何かを企んでいるのか。
遠山は不機嫌さをわざと顔に出した。そうすれば部下は話しかけてこない。もう少し様子を見るしかなかった。連中が何かを企んでいることがわかれば相手にする必要はない。
部下たちはそのスンドコベロンチョという珍妙な名称の話題で弾んでいた。見た? と言うのだから昨夜のテレビ番組である気配が濃かった。しばらく聞いていたが、それについて具体的な内容を示す言葉は出てこなかった。すごかったとか、感動したとか、そのての感想が飛び交うばかりであった。
遠山はいらだった。昨夜の悪夢が形を変えて現実の世界に訪れている。スンドコベロンチョとやらが実在するか否かはともかくとして、遠山の知らない何かが進行していた。
「じつをいうと、おれ……」一人が言いにくそうに口を開いた。「きのう、はじめて見た」
「うっそ」女子社員が驚愕して、周囲をうかがった。声をひそめて「いまどきそんな――笑われるわよ」
それっきりであった。急激に白けた雰囲気が訪れてその話題は終わってしまった。
遠山は無言で社員食堂を後にした。
スンドコベロンチョという不可解な名称は実在するもののようであった。最後の白けた雰囲気が、それを示していた。社員の明るさを呼んだのがそのスンドコベロンチョであることはわかったが、それ以外はさっぱりであった。テレビに出たことは間違いなさそうである。しかし、昨日に初めて見て笑われるのなら、いまの段階で名前を知っただけの遠山は、どうなるのか……。
退社後、遠山はコンビニに入った。
テレビ番組の今週号を読み始めた。いまどきそんなと、社員食堂で女子社員は言った。その言葉から、スンドコベロンチョの存在は以前から世間に存在していたことになる。昨日初めて見て笑われるほどなら、テレビの出演率もかなり高いものであるはずだ。
――ない。
遠山の肩が落ちた。番組表の隅から隅まで目を通したが、求めるものの名称は見当たらなかった。もちろん昨日の番組表に重点を置いて見た。解説の欄も読み尽くした。得られたものはない。
――やはり、からかいではないのか。
その思いが強くなっていた。だいいち、それほど有名なものならもっと早く話題になっていなければならない。それが遠山にとってくだらないことでも、一度くらいは耳にしているはずであった。遠山だけ取り残されるというのが、解せない。
遠山は昨夜の夢を思った。あれは予知夢だったのかもしれない。空間のつぶやきが社員たちの声になり、遠山の悪口をささやいた。あれは、この質の悪いイタズラを告げたものだったのだ。すべてが演技だったのだ。遠山の知らないことを楽しそうに話題にして遠山を置き去りにすることで、日頃の鬱憤を晴らしたのだ。乗せられて知っている素振りをしてしまったことを、遠山は後悔した。いまごろ、あの連中は腹を抱えて嘲笑っているに違いない。
池田は平社員に格下げだと、遠山は思った。場合によっては圧力で自主退職に追い込むのもよい。営業本部長をからかえばどういうことになるのかを思い知らせてやるつもりだった。
コンビニを出ようとした遠山の足が止まった。
レジの前に何種類かのテレフォンカードが宣伝されていた。その一つにデザインも何もないカードがあった。白地に青い文字で、〈スンドコベロンチョ〉とだけ綴られていた。
遠山はあわててレジにいる少女に訊こうとして、踏みとどまった。完売と感謝を告げるメッセージがあった。
遠山の顔は翌日も浮かなかった。
昨夜、帰宅して真っ先に新聞の番組欄を隅々まで見渡したが、スンドコベロンチョの名称は見つけ出すことができなかった。
妻の優子に訊いてみた。“スンベロ”とはなんなのかと。陽気にハミングをしながら食器を洗っていた優子は、それを聞いて怒りだした。バカな冗談はやめてと。九歳になる娘の千秋にも同じことを訊いたが、千秋の反応も優子と同じであった。遠山はそれ以上の追求はできなかった。妻と娘の白い目が痛々しかった。何よりも、これまでほとんどのことは自力で打破してきた遠山であった。人に教えを請うことは、たとえ身内であれ矜持が許さなかった。
社内では、その日もスンドコベロンチョの話題は続いた。
テレフォンカードが売られているのだから、“スンベロ”は世間に実在することになる。遠山はどうにかしてそいつの正体を探ろうとした。会話に耳を傾けたが、相変わらずいい加減な感想くらいしか出てこない。
「本部長は、どう思います?」
社員食堂であった。例によって昨日の連中が訊いた。
「さあ、な」
遠山は素っ気なく答えた。答えようがなかった。下手に答えて笑い者になるのを、遠山は警戒した。
「本部長……」池田が表情を曇らせた。「本部長がそんな、いい加減なことを……」
一同が表情を見合わせた。会話はそこでブツリと途切れてしまった。顰蹙の眼差しをちらちらと遠山に向けながら、気まずい雰囲気の食事が続いた。
日曜日に、遠山は繁華街に足を向けた。
その日のうちにスンドコベロンチョの正体を掴むつもりだった。
テレフォンカードが出ているくらいだから、他にも何か商品化されている可能性は高い。レンタルビデオショップ、レコード店、書店。あらゆる店を回ったが、しかし、収穫は欠片も集めることができなかった。
スンドコベロンチョの姿は微塵も浮かんではこない。人物なのか、動物なのか、あるいは生き物以外の名称なのか、それさえも定かでなかった。
――わからない。
遠山は入社直後からエリート街道に乗っていた。自分にはどんな障害でも乗り越えられる能力がある。世の中の情報は何でも手に入るという思いがある。即断即決を遠山は信条とする。その遠山に初めて、五里霧中が続くという事態が立ち塞がっていた。
レストランで、遠山は考えを巡らせてみた。
まず、最初に確実だと思っていたテレビ番組説もしくはその番組の出演者説は消えている。何件か回ったレコード店に手掛かりはなかったから、歌手やロックグループの類でもない。総じて、タレントや有名人ではない。諸外国の有名人でもなさそうであった。作家でもない。動物の名称でもない。飛躍して、ネッシーやツチノコなどの類の未知動物の名称でもない。
消去法では結局、わからなかった。有力な候補が残りすぎるならともかく、何もかもが消去されて残らない。想像では解けそうもない謎であった。あるいは名称以外の概念なのか。
――誰かに訊ねればいい。
そうは思ってみては否定し、もう一度決心してはいざ実行する勇気がなかった。妻の優子と娘の千秋、それに部下たちの白い目が焼き付いていた。あかの他人に訊いても、おそらく同じ反応をするに違いなかった。とくに優子の反応は軽蔑するような色を含んでいた。見知らぬ人間に訊ねて変質者でも見るような視線を返されれば、それこそ遠山の矜持は崩壊する。
ともかく、陽が暮れるまで歩いてみるつもりだった。
デパートの玩具売り場に入った。そこならと、遠山は思った。玩具の種類は多彩である。縫いぐるみや人形の中には“スンベロ”を形取ったものが出回っているかもしれない。他にもトランプなどがある。テレフォンカードだけというのは腑に落ちない。
玩具店に限らず、あらゆる店を回れば、何かが出てくるはずであった。
「きみ」遠山は店員を呼び止めた。「“スンベロ”を売ってもらいたいのだが」
遠山は上からの態度に出た。戦法を切り替えていた。すでに知っていると見せかけた状態で、何でも良いから関連するものを運ばせる――。
「はあ……」
若い女であった。女は戸惑うように遠山を見つめた。
気がつくと、身の周りの客が動きを止めて遠山を見ていた。
不穏な気配を感じて、遠山の肌が収縮した。
「お待ちください――マネージャー!」
女はそれだけ言って場を離れた。ひどくあわてた様子だった。近くのコーナーでアルバイトらしい少年に指図している男のもとに、女は駆け寄った。
遠山は客の視線を気にしながら待った。女は遠山の方を指して、自分がマネージャーと呼んだ男と二、三やり取りした。男が何か危険な視線で遠山を見た。
警察だと、男が言った。押し殺した声だがはっきりと聞き取れた。アルバイトの少年がそれを聞いて走り去った。
同時に、遠山もその場を走り出した。ものも言わずに逃げ出していた。
――バカな!
逃げる理由がわからない。犯罪を犯したわけでもないのに、警察を呼ばれる理由がわからないからだ。それでも、遠山は死に物狂いで突っ走った。走りながら遠山は、万引きを見られて逃げる子供の心理が初めて、わかったと思った。
売り場を遠ざかり、階段を走り下りた。なぜだと、心の中で叫んでいた。なぜ、警察が――必死の思いで店の外に出たときには呼吸が荒かった。近くに交番があるからすぐに警官が駆けつける。遠山はデパートをあとにした。スンドコベロンチョに関することはすべて不可解だ。何か得体の知れないの陰謀が進行している気がした。街全体が遠山ひとりを陥れるための陰謀を画策したように思えた。
走りに走って、デパートから死角になる路地を入ったところでようやく、歩を緩めた。
――もう、どうでもいい。
諦めようと、遠山は思った。挫けていた。子供時代ならともかく、挫折は久しく記憶にない。惨めな気持ちにまみれていた。どうでもよいという投げやりな思いだった。
スンドコベロンチョなどはもう、どうでもよい。追求しようとすれば白い目線が返ってくる。今後は追求をやめて話題にも加わらなければよいのだ。何も知らないところで、まさか死ぬわけではあるまい。世間話の一画に過ぎないのだ。少しくらいは知識の欠落があってもよい。それを補っても無尽蔵といえる能力が遠山にはある。警察に捕まって経歴に傷を残すのは、それこそ愚かな人間の末路だ。これまでに築き上げてきたものを崩壊させるわけにはいかない。
それに、部下の一人もスンドコベロンチョを見たのは数日前であると言った。そういう人間も中にはいるはずであった。ほっておけば、そのうちに情報は入ってくるかもしれない。いつかはこの目で見るときが来るかもしれない。追求すれば遠のき、無欲の状態になれば向こうから姿を現す、それがスンドコベロンチョなのかもしれない。
風呂に入った。街を歩き回って疲れが出ていた。遠山は湯船に漬かってうめいた。
スンドコベロンチョの名が脳裡から離れない。
数日前に見た夢も並行して忘れられずにいた。
夢が、現実になったのではないのか――何度もそこに思いを巡らせた。
あれは悪意に満ちた夢であった。社の連中が揃って遠山の悪口をつぶやいていた。自惚れすぎたのかもしれない――その思いが芽生え始めている。
ブロック会議で主任の池田を叱ったのが、間違いだったのか? 大衆の前で部下の無能さを詰るのは、考えてみれば上司としてのマナーに反する。ミスだったことには気づいていた。すべては、そこから来ているような気がする。部下たちの反感は蓄積していた。上司たちも遠山には少なからず反感を抱いていたのだ。能力を誉めたたえてはいても、性格的になじめないものがあるのだろう。それらの反感の力が悪意となって遠山の脳に悪夢を送り込み、その悪夢が形を変えて現実世界に滲み出た……。
遠山の思考らしくない荒唐無稽な発想だった。しかし、もはや否定する気力が湧かない。常識が通用しないのだから、しかたのないことであった。
悪意のつぶやきのあと、あの夢には少し続きがある。
訊くのは一時の恥。訊かぬは一生の恥。
その奇怪な音声も思い出すことができる。不思議と、はっきり覚えている。格言にある『知らぬは一生の恥』と、おそらくは意味するものが同じであった。
もっと早く訊いておくべきだったとの悔恨がある。一日ごとに誰かに訊くことへの抵抗が増す。妻の優子に白い視線を向けられて、遠山はおびえた。あの時に恐れずに真実を訊いておくべきだったのだ。それを、遠山は自分のプライドを持て余した。じつは何も知らないなどと、いまになってはもう切り出せない。
――訊かぬは一生の恥、か。
夢の最後に聞いたその言葉は、のちに遠山の身に起こることを警告していたのだ。それ以外には考えられなかった。
荒唐無稽な想像を否定できない理由であった。
優子と千秋がテレビを見て笑う声が聞こえる。ふたたび白い目線を浴びようが、二人に訊くべきかもしれない。顰蹙などを恐れずに訊いておくべきかもしれない。いまなら、まだ……。
「…………!?」
風呂の湯をぶちまける勢いで遠山は突っ立った。
千秋の笑い声が高くなっていた。スンベロだと、そう叫ぶ声を聞いたのだった。
遠山は浴槽を飛び出た。素裸のまま居間に走った。
「おいッ、どけッ」
優子と千秋が並んでテレビの前に座っていた。遠山は声を張り上げた。振り向いた千秋があわてて目をそらした。
「あなた、なんです! その恰好は!」
優子は驚愕して叫んだ。風呂から出てきた夫が素裸のまま突っ立っていた。湯が滴って絨毯を濡らしている。
「パパのエッチ! 来ないでよ!」
千秋が雑巾や座布団などを手に取って投げつけた。
「おい、そこをどけ! 見せろ!」
「あなた、何か着てください!」
「スンベロが――投げるな、どけ!」
「あなたッ!」
優子は表情を変えて夫の頬を叩いた。
千秋が静かに泣きだしていた。
遠山は立ち尽くした。テレビに目を向けた。コメディ番組は次のコーナーに移ったばかりだった。そこにはもうスンベロの姿はない。
「泣かないの、ほら。また今度、スンベロに連れていってあげるから……」
優子が千秋をなだめるのを、遠山は放心したように見つめた。優子は遠山を睨み据えた。侮蔑の色が表情に浮いていた。千秋の手を引いて、ものも言わずに遠山の横を通り過ぎた。
スンベロ・プロジェクトなる企画の噂が社に流れ始めていた。
ひどく漠然としたものであった。近いうちに実現されるのではないかと言われていた。誰が流した噂なのかわからない。どのセクションで生まれた企画なのか判然としない。
遠山は追い詰められたことを知った。話題を無視できる状況ではなくなりつつあった。
しかし、スンドコベロンチョの実体は今もって不透明なままだ。何一つ、明らかにならない。
数日後。
遠山は呼び出しを受けて小会議室に入った。
「スンベロ・プロジェクトの噂は、知っているね」
松岡常務が切り出した。
「ええ」
遠山の鼓動が高鳴っていた。とてつもなく嫌な予感がする。
「そのプロジェクトを来週から、いよいよ決行することになった。そこで相談がある。より優れた企画が必要なのだ。君に、執行部長を頼みたいと思ってね」
「し、しっこうぶちょ――」
遠山の全身から血の気が失せた。
「君しかいないと思っている」松岡は続けた。「是が非でもこのプロジェクトを成功させたいのだ。君の能力と実績を見込んでの頼みだ。引き受けてくれるだろうね」
「…………」
「どうしたのかね。何か不満でも?」
松岡の表情が曇った。少しでも自分の思い通りにならないと松岡は不機嫌になる。返答に躊躇しても同じだ。その点は遠山と共通したものがあるが、松岡の場合は情緒がきわめて不安定だった。それこそ相手が心の隅々まで自分の思い通りに動かなければ、敏感に感知して不機嫌な表情を見せる。
「やらせて、いただきます」
そう答えるしかなかった。社内では社長以上におそれられている男である。松岡に逆らった者は社内では生き残れないとされていた。
「そうか、やってくれるか」松岡の表情に笑みが戻った。「この件は早速、明日の朝礼で発表しよう」
「……はい、失礼します」
遠山はきびすを返した。足に力が入らなかった。よろめくようにしてドアに取りついた。
「忘れていた。君、これ、資料……」
松岡は机に置いた書類を取った。しかし、顔を上げたときにはすでに遠山は外に出ていた。松岡は手にした数十枚の書類に目を落とした。
いまさら資料もないものだと、松岡は苦笑した。子供でさえスンベロは知っている。遠山のことだから、資料にも載っていない奥の深い知識を修得していることは間違いなかった。あるいはすでに、人知れず研究を進めている最中かもしれないのだ。その遠山にちっぽけな資料などを渡すのは、たとえ上司であれ失礼というものなのである。
遠山は新宿をさまよっていた。
松岡常務に呼ばれたあと、小会議室を出た足で社長室に向かった。気分が悪いからといって退社を申し出ていた。遠山は貴重な戦力だから社長は即答で許可を出した。
来週までに残された時間は三日しかない。それまでには何がなんでもスンドコベロンチョの実体を掴んでおかねばならなかった。明日も休暇をとるつもりだった。もう一刻の猶予もならないところまで、遠山は追い詰められていた。
えらいことになったとの思いが遠山を押し潰そうとした。遠山は新宿の街中を歩き回った。
そして、歩き疲れていた。気力が萎えかけていた。
夕刻が迫っていた。
どこからかスピーカーを使った声が流れている。繁華街からは離れた公園のベンチだった。気力も体力も使い果たして、聞くとはなしに聞いていた。目的の不明な若者たちが遠山と同じように、疲れた顔で座っている。
〈毎度おなじみの、スンドコベロンチョ……〉
遠山は突っ立った。声の流れてくる方向に向かってよろよろと歩き出した。
路肩ぎりぎりをゆっくりと走る一台の軽トラックが目についた。
〈毎度おなじみの、スンドコベロンチョ……〉
「待ってくれ!」
遠山は死力を振り絞って走り出した。目の前に求めていたものがある。スンドコベロンチョの何かを積んだトラックが走っている。
「まて、まってくれ! おい、待ってくれ!」
遠山は懸命に突っ走った。トラックとの距離は縮まらない。いや、トラックが遠山に合わせてスピードを調節しているようだった。このままトラックを見失ったらと思うと、遠山の心臓は恐怖も重なって破裂しそうだった。ただでさえ歩き疲れた体であった。呼吸が死にかけている。それでも、遠山は走った。なりふり構ってはいられなかった。なぜか、これが最後の機会だという気がした。トラックを見失えばスンドコベロンチョそのものを永遠に見失うような気がした。
トラックとの距離はしだいに離れていった。それでも遠山は走り続けた。
やがて、トラックは表通りに走り出て、消えた。
力尽きて遠山はくずおれた。
しばらくそのままでいた。
遠山の周囲が笑い声で埋まった。
遠山は顔を上げた。いつの間にか取り囲んだ通行人が遠山を指さして笑っていた。腹を抱えて笑っている者もいる。何がおかしいのかわからない。必死にトラックを追いかけて力尽きた遠山の姿がおかしいのか。それとも、これまで必死にやってきて謎の一片も解き得なかった遠山の無力さを笑っているのか。遠山は人々を見上げたまま、身動きもしなかった。
嘲笑う人々の顔が、遠山にはどれも同じに見えた。社でも家でもどの街へ行っても遠山に対する悪意が渦巻いていた。どうしてこんなことになったのかと、人の世が恐ろしく思えた。遠山は泣き出したい思いだった。
男と女の声帯が掛け合わさって、異様な笑い声が遠山を押し包んだ。
破滅の足音が人々の嘲笑の渦から溶け出していた。
出社した遠山を社員一同が笑顔で迎えた。
「体の具合は、治りましたか」
「スンベロ・プロジェクト執行部長就任、おめでとうございます」
口々に歓声が飛び交った。
勝手なことを叫び勝手に盛り上がる社員を横目に、遠山はものを言わなかった。
朝礼が始まって、スンベロ・プロジェクト執行部長に就任した遠山の紹介があった。短い挨拶を命じられて、遠山はゆっくりと前に出た。少しでも時間を稼ぎたかった。この瞬間に地震か何かで朝礼が中止されることを真剣に願っていた。会社が潰れてもよいとさえ思った。
何事も起こらなかった。一同の前に出た遠山に期待の視線が集中した。
遠山の体は化石のようになっていた。
「……す、スンベロって……なんですか?」
出社して初めて、遠山の口から出た言葉らしい言葉であった。
遠山はうなだれていた。顔を上げることができなかった。上げるまでもなく人々の表情は思うことができた。あっけに取られた顔、顔、顔が並んでいる。ズシリと重いものが遠山の頭上にかかっていた。それまで渦巻いていた期待の熱が段差をかけるように鎮火していくのを、肌で感じていた。
「……だれか、教えてください。スンドコベロンチョって、なんなのですか?」
遠山は顔を上げた。体は硬直したままだったが、動かしてみれば首だけは簡単に動いた。頭上にかかっていたものは遠山の矜持と半生分の重みであった。それらが音もなく一瞬にして消え失せたのだった。首から上だけが驚くほどに軽くなっているのを、遠山は知った。
遠山は泣いていた。両の目から涙が溢れ出ると、もうそれまでであった。遠山に残された重みは何もなかった。
開いた口をそのままにした社員たちの顔がにじんでいた。
真っ白な静寂が遠山の胸にしみた。
完




