東京に来た異世界の神官さんのお話
日本に来た元神官のシリウス君のお話です。
ゆっくりと目を開ける。
目を覚ますとベッドの上にいた。
都内の安いボロアパートの一室で目が覚めた。
ベッドから起き上がると体のあちこちを触る。近くに鏡があったことに気づき、自身の顔を覗き込む。
そこに写っているのは普段とは違う顔。さっきまで異空間の扉の前で見ていた青年の顔だった。
「ああ。良かった。無事にこちらの世界に来られたのですね」
元シリウス、現水瀬達也は大きなため息をついた。
伝承の通りの状況だったとは言え、あの状況で確実に人生が交換できるかは確認のしようがなかったのだ。
こうなっては交換後のシリウスの身体がどうなっているか確認できないが、無事を祈るしかないだろう。
それにしてもまさか本当に人生を交換して頂けるとは!
勇者を導き、魔王と戦うという過酷な運命を知ってもなお人類のために異世界に来てくれるなどと!
なんと高潔で勇敢なお方だろうか!
私など、その運命を知った絶望に打ちひしがれていたのに!
ああ女神様。かのお方に女神様の御慈悲を。
達也は異世界に来ても女神に祈りを捧げていた。
しばらく祈っていたが、達也はおもむろに立ち上がる。
達也さんの記憶によると今日は『あるばいと』の面接でしたね。
では早速準備をしなくては。
達也は朝食を取ろうと冷蔵庫を開ける。達也の記憶によるとこの機械の能力は信じがたいものだった。
食材を冷たくして保存できるなんて!
一部の高位貴族では氷魔法を利用して食材を保存すると聞いたことはあるが、庶民の家でもこんなものが使えるとは!
異世界の技術は凄まじい。
しかしこの冷蔵庫という箱は謎だ。何故氷魔法も雪も使わずに中が冷たいのか。
達也の知識では『これを使えば食材が冷える』ことは分かってもその原理は理解していない。
異世界とは不思議なものだ。
冷蔵庫から食パンとベーコンを取り出す。
パンをトースターに入れてタイマーを捻る。
ベーコンはフライパンで炒めていた。
達也は異世界の教会にいた頃、炊き出しなどもしていたため、料理は人並みにはできる。
フライパンからはじゅうじゅうと油の跳ねる音と香ばしい香りがして食欲を唆る。
パンも焼きあがって、バターを塗って皿に並べた。
最後にケトルで沸かしたお湯を粉末スープの素に注ぎ、即席のトマトスープを作った。
女神へ日々の糧の感謝の祈りを捧げて、達也は食べ始めた。
パンを一口嚙り、そのまま固まる。
「っ……なんですか!この美味しいパンは?表面はサクッとしているのに中はモチモチと弾力が!」
こんなに美味しいパンは今まで食べたことがない。
次にベーコンを口に運ぶ。絶妙の塩気と油のうまみ。カリカリに焼いた香ばしさ。全てが極上の味に仕上がっていた。
最後にトマトスープだ。
いくら異世界とは言え、まさか粉末にお湯を注ぐだけでスープなるとは信じられない。
しかしパンとベーコンは信じられないほど美味だった。
ではこのトマトスープも?
躊躇いながらスプーンで少量を掬って口に運ぶ。しかし口につけた瞬間、目を見開いた。
次から次へとスプーンを動かす。一気に半分ほど飲み干して大きなため息をついた。
美味い。トマトの旨味と酸味が出ている。しかもそれだけではない。もっと複雑ななにか。食べたことのない味だ。
まるで数日かけて煮込んだような深い味わいではないか。とても粉にお湯をかけただけとは思えない。
全てを食べきって、達也は幸せそうに目を閉じた。
満足だ。
このような食事はアポロニア王国では貴族でないと食べれないだろう。
まさか死ぬまでにこれほど豪勢な朝食を摂ることが出来ようとは!
これほどの生活を捨てて異世界に来てくれたあのお方は、やはりいと尊き聖人なのだろう。
達也は再び感謝の祈りを捧げた。
達也はシャワーを浴び、着替えてアパートを出た。アルバイトの面接に向かうためだ。
アパートの階段を降りて面接先まで歩く。
ほんの徒歩10分程度だがそこには今まで想像も出来なかった世界が広がっていた。
あの建物はなんだ?まさか10階?いやもっとあるのか?
何故地面はこんなに平らで歩きやすいんだ?
くるま?これが車か!まさかこのような大きな箱が動くとは!
信号機は三色も光を放つのか?光は白ではないのか?
達也は目に映る全てが新鮮でワクワクする。
人の技術とはここまで世界を変革させ得るのか。
感動に打ちひしがれながら歩いていると面接を受けるアルバイト先の居酒屋についた。
駅前によくある全国チェーンの居酒屋だ。
店の前で水瀬達也は深呼吸をする。
今日から僕は、水瀬達也の人生を歩む。
ならば僕は水瀬達也として、あるべき振る舞いをせねばならない。
このような先進的な国で、果たして僕は生活出来るのだろうか。
いや、恐れてはならない。
なぜなら本当の水瀬達也は私と人生を交換し、魔王との戦いの運命に身を投じたのだから。
聞いたこともない異世界のために、その人生を投げ打って戦うと宣言した彼は誠に聖人であったろう。
彼は勇敢なお人だった。
その人生を継いだ『俺』が恐れることなどあってはならない。
かの聖人に恥じることのない人生を送らねば!
そしてこの人生を完遂する。
それが異世界のために戦ってくれる彼へのせめてもの礼であろう。
そうして水瀬達也の体に宿る異世界から来た神官は、まるで魔王の城に乗り込む勇者一行の如く、決死の覚悟で居酒屋の暖簾をくぐったのだった。
たまに日本サイドも挟んでいこうと思います