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更科梨沙(セリア・レーヴェン)視点 0-②

「まあ、こんなもんかな?」


 私は神術で作り上げた目の前のものを見て一先ず満足した。

 私が何をしているかというと、ズバリ装備の心許こころもとなさを一挙に解決しようとしているのである。


 草原を全力で駆け抜け、林の入り口に辿り着いたところでようやく少し冷静になった私は、真剣に自分の装備を整える方法を考えた。

 そこで考え付いたのが、自分の私物を持ち出すということだった。

 これなら服もお金も一気に解決する。

 しかし、流石に王都の屋敷に戻るわけにはいかない。

 いまから王都に戻って見付からない自信はないし、何よりあんなことをやらかした後で…いや、何もやってない。何もやってませんよ?何もやってませんともぉ…お、おぉ…。


 ゴホン。とにかく、王都に戻れないならどうするか。答えは簡単、レーヴェン侯爵領の領都にある屋敷に行けばいいのだ。

 学園に入ってからは年に数回しか帰っていないが、ちゃんと着替えはあるし、お金も少しは部屋に置いてあるはずだ。


 領都まで飛んで行くことも考えたが、ここで私は、私の最終目標である地球への帰還の鍵となるであろう空間転移に挑もうと考えた。

 しかし、いきなり瞬間移動のようなものは少し難易度が高かったようだ。目を閉じて自分の部屋を脳裏に思い描き、目を開けたらそこは自分の部屋、みたいな感じで試してみたのだが、上手くいかなかった。

 そこで思い付いたのが、前世の国民的アニメで見た未来の便利道具、どこにでも行けるドアである。“目を開けたらそこは自分の部屋”ではなく、“ドアを開けたらそこは自分の部屋”でやろうと思ったのである。


 というわけで、今私の目の前には、神術で木と石から作り出したドアがある。

 先程神術で服の形態変化はやったので、同じ要領で木と石を変形させれば意外と簡単にできた。

 といってもピンク色ではない。普通にウッディな茶色である。ただし、このドアの外見は領都の屋敷にある自室のドアとかなり似せてある。つまり、このドアを自室のドアに見立てようということだ。


 という訳で早速やってみる。

 ドアノブ(石製)を握り、意識を集中させる。


(私の部屋…ベッド…机…クローゼット……)


 頭の中に自分の部屋の光景をなるべく鮮明に描く。


(部屋の空気感…匂い…)


 やがて、体の感覚は遠ざかり、素足に当たる草の感触も、風に揺れる木の葉の音も感じなくなり、右手に握るドアノブのひんやりとした感触だけを感じるようになる。

 更に集中を高めていくと、視界が狭まり、目の前のドア以外の物が視界に入らなくなる。


(……きたっ!)


 イメージが完全に整ったと思ったところで、右手に握るドアノブを通して、かなりの量の神力がドアに吸い込まれる感覚がした。


 そのまま、意を決してドアを押し開けると、そこは…


 領都にある自室だった。


 自分でやったことながら呆然と部屋の中央辺りまで進むと、背後で勝手にドアが閉まり、神力が霧散する気配がした。

 部屋のドアまで戻って、少しだけドアを開けて外を確認すると、そこには屋敷の廊下が左右に向かって伸びていた。どうやら今ので空間の接続は切れたらしい。


 ドアを閉めると、窓まで行って外を眺め、領都の光景が広がっているのを確認する。

 どうやら問題なく空間転移は成功したらしい。

 これで地球への帰還が現実味を帯びたが、同時に課題も浮かび上がった。


(今の一回でかなりの神力を持ってかれちゃった。王都から領都までの正確な距離は分からないけど、この感じじゃ地球に行くまでの神力はどれほどになるのか…。それに、私の前世の部屋が、私の記憶にある状態のまま保たれてるとは思えない。でもかなり明確にイメージできる場所でないと転移は成功しなさそうだし…うーん)


 そこで一旦思考を切り替え、とりあえず服を着替えることにする。

 一応カーテンを閉めてからクローゼットに向かい、その下の戸棚に下着が入っているのを確認すると、着ていたローブを一旦下に脱ぎ捨てた。

 そして、いざ下着に手を伸ばしたところで…


 ドガンッ!!


 そんな音と共に、部屋のドアが外から蹴り開けられた。


「賊め!そこを動くな!!」


 突然の衝撃音に思わずビクッとしてドアの方を見ると、右手を体の前に構えた執事服の初老の男性が、そんなことを言いながら部屋に飛び込んで来た。


 そして、ばっちり2人の目が合い、時が止まった。


(うわぁ、これが噂のラッキースケベってやつ?へぇー現実でも起こるんだ。あっ、私は被害者だからこの場合はアンラッキースケベになるのかな?まあ大丈夫でしょ。こういう時って、光とか髪とかがいい感じに大事なところは隠してくれるのがお約束だし?…あっ、カーテン閉めたから光差し込んでない。髪も…さっき服に編み込んじゃった。あっはは~やっちゃたなぁ~~)


 そんなどう考えても正常でない思考をそこまで巡らせたところで…


「―――っっ!!!?おおお嬢様あぁぁぁーーーーーーーっっ!!!?」

「―――っっ!!!?きゃああぁぁぁーーーーーーーっっ!!!?」


 時が動き出し、2人分の絶叫が部屋に響いた。




~ 梨沙のメンタルが死んだので第三者視点に移行します ~




 数分後、部屋には、脱ぎ捨てたローブに小さく包まりながら死んでいる梨沙と、その梨沙に向って全力で土下座する執事の姿があった。


 ちなみに執事服の男性の名はラルフ・サルバン、元はサルバン子爵家の四男で、先々代の頃からレーヴェン侯爵家に仕える執事であり、今は王都で軍団長を務めるルイスに代わって、このレーヴェン侯爵領を統治する領主代行を務めている。

 当然セリアとも旧知の仲であり、セリアの成長を幼少期から見守ってきた1人でもあるのだが、今はそのセリアに対して全身全霊の謝罪を行っていた。


「申し訳ありませんセリアお嬢様!!突然屋敷内に強大な神力の放出を感知し、お嬢様のお部屋で物音がしたため、てっきり賊か間者でも侵入したのかと!このような不始末、罰はいかようにでもお受け致します!!」


 しかし、そんな言葉を受けた梨沙はというと…


「ふ、ふふ、ふへへっ、王宮の人たちにネグリジェ姿を見られたと思ったら、今度は男の人に全裸を見られちゃったぁ……お父さん…お母さん…私、もうお嫁に行けないよ…?…えっ?嫁になんて行かずにずっと家にいればいいって?あはは、もうお父さんったらぁ……」


 そんなことを、瞳孔が開き切って単一色になった瞳を虚空に向けながら、抑揚のない声でぶつぶつ呟き続けていた。


 怖かった。普通に夢に見そうだった。


 恐る恐る少し視線を上げてその姿を確認したラルフは、慌てて視線を床に戻し、更に深く額を床に擦り付けた。

 そんなラルフの様子をよそに、梨沙の幻影との会話は続く。


「えっ?記憶が飛ぶまで殴ればいいって?もう、お母さん怖いこと言わないでよぉ…そんなことしたら捕まっちゃうから。…えっ?ばれなければ犯罪じゃない?発想が完全にヤンキーじゃん、もお……あぁ、でも…そっかぁ」


 そんなことを言いながら、梨沙は唐突にゆらりと立ち上がった。


 何がそっかぁなのか、何を納得したのか、聞きたいけど聞いたら絶対に後悔する!そんな思いに支配されるラルフに、ぐりんっと音がしそうな唐突かつ不自然な動きで、梨沙の顔が向けられた。

 そして…


「誰も知らなければ……なかったことと同じだもんね……?」


 体ごとラルフに向き直り、ゆっくり床に這いつくばるラルフに向かって足を進めながら、そんなことを言った。

 実は、ローブを適当に巻き付けた状態で立ち上がったので、裾から色々と見えてしまっているのだが、それを気にする余裕は梨沙にもラルフにもなかった。


 焦点の合っていない目をラルフに向けながらゆっくり歩く梨沙の体から、神力のオーラが揺らめくように立ち上る。

 完全に“精神的に追い詰められ過ぎると短絡的行動に走る”という前世からの悪癖が発動しているが、この場にそれを止められる者はいない。


「お、お嬢様?短慮は、短慮はいけませんぞ!?」


 あまりに異様な迫力を纏う梨沙に恐怖心を刺激されたラルフは、必死に静止の声を上げながら両膝を床に着けたまま器用に後退あとずさりをするが、その声が届いた様子もなく、梨沙はラルフの眼前に立った。


 そして梨沙の右手がゆっくりと掲げられ…


「おじょ、アッーーーーーーーッッ!!!」


 ラルフの悲鳴が部屋に響き渡った。




~ 梨沙が多少正気を取り戻したので梨沙視点に戻ります ~




「やっちゃった…」


 目の前には、白目を剥いた状態で床に倒れ伏し、びくんびくん痙攣するラルフの姿。

 今の気分はさしずめ、勢い余って人を殺してしまった昼ドラの主婦といったところか。いや、昼ドラ観たことないけど。

 うちは両親揃って任侠ものとかヤンキーの抗争ものとかドンパチしたものが好きだったので、昼ドラの類は観たことがない。

 そして、そういうドラマを観ている時の両親はなんだがおかしな血が騒ぐようで、「いや、あれくらい避けられるだろ?」とか、「きっちり止め刺しなさいよ手ぬるいわね」とかツッコミながら観ていた。


 それはともかく、これどうしよう?

 どうやら先ほどの遭遇の際にラルフが人払いしたようで、こんな状況になっても他の使用人がやって来る気配はない。


(ちょっと誰か呼んだ方がいいかな?勢いに任せて思いっ切り神力叩き込んじゃったけど…大丈夫かな?)


 ちなみに梨沙がやったのは、直近の記憶を消し飛ばすイメージをしながら、ラルフの側頭部にチョップを叩き込んだのである。

 記憶を飛ばすにはここを斜め45度の角度で殴るのが一番だって、昔お母さんが言ってた。


「う、う~ん」

「あっ」


 そんなことを考えている内に、ラルフが目を覚ました。


 咄嗟にきちんとローブを着込むと、どこかぼーっとした様子で体を起こしたラルフが、ぼんやりと周囲を見渡し、梨沙に目を向けたところで止まった。


「…セリアお嬢様?」

「あ、はい」

「なぜここに…わたくしは…?」

「あぁ、え~っと」


 どう言うべきか考え、当たらずとも遠からずな話で誤魔化すことにする。


「え~っと、私、最近神術の才能が開花したんです。それでやりたいことが出来て、着の身着のままでここまで来たんですけど、こっそり部屋に侵入したら、そこに賊だと勘違いしたラルフさんが飛び込んできてしまって、驚いて思わず神術で吹き飛ばしてしまったんです。ごめんなさい。頭痛くないですか?結構思いっ切りぶつけてしまっていましたけど…」

「…そうでしたか。いえ、特に問題はないようです。こぶもできておりませんし…。ご心配ありがとうございます」


 どこかまだぼーっとした様子のラルフを見て、私はほっとする。

 どうやら私の黒歴史第二弾は無事に闇に葬られたようだ。


 それからまだ頭が覚醒しきっていない様子のラルフを一旦部屋から追い出すと、手早く服を着替え、ようやく人心地付いた。

 ここまで長かった…と静かに妙な達成感を噛み締めてから、もう一度ラルフを部屋に招き入れる。


「すみませんセリアお嬢様。先程は私少々頭がはっきりしておらず、聞き流してしまったのですが…神術の才能が開花した、と仰いましたかな?」

「はい」


 静かに肯定すると、ラルフは目をすがめ、部屋の中を見渡した。

 おそらく、先程行使した神術の残滓たる神力の痕跡を感知しているのだろう。


「どうやらそのようですな。凄まじい力の痕跡を感じます。…そうですか…セリアお嬢様は聖女となられたのですな……」


 そんなことを、どこか噛み締めるように囁くと、表情を改めて梨沙に問うて来た。


「それで、家を飛び出したということですが…それはつまり、レーヴェン侯爵家との縁を切るということでしょうか?」

「…そうですね。レーヴェン侯爵家というより、この国との縁を切るつもりです」


 そう答えると、流石に予想外だったのか、ラルフが大きく目を見開いた。

 しかし、それも一瞬。次の瞬間には覚悟を確かめるように鋭い視線を向けて来た。


「そうですか…国を離れ、どちらに行かれるおつもりで?」

「それは…言えません」

「王家は黙っていないでしょう。いや、聖女となれば、国中の貴族がこぞって手を伸ばして来るでしょう。…それでも行かれると?」

「行きます。…もう、決めたことですから」


 そう、視線に覚悟を乗せてラルフの目を真っ直ぐに見つめ返すと、やがてラルフはふっとその目を和らげた。


「今のお嬢様をお止めすることは出来ないでしょうな…。畏まりました。お嬢様がこの屋敷にいらっしゃったことは一切他言いたしません」

「…よろしいのですか?」

「構いません。本来ならお嬢様をお止めするのが最善なのでしょうが、それが不可能である以上、お嬢様がいらしたことを他言するのは百害あって一利なしです」


 それを聞いて、やっぱりこの人は変わらないなと思う。

 昔から、私情に流されず、侯爵領に住まう領民のために最善の道を選ぶ人だった。全ては侯爵領の安寧と繁栄のために。たしかに、今私がここに来たことを誰かに伝えれば、なぜ逃がしたのかということになって、確実に面倒なことになる。最悪、ラルフが私の逃亡を手引きしたのではないかと疑われれば、無用の混乱を招くだろう。


 それから、ラルフは渡したいものがあると言って、部屋を出て行った。

 私はというと、部屋中から持って行くものを引っ張り出してきて、ベッドの上に集めた。

 当初の目的通り衣類一式、あるだけのお金、神術に使う触媒諸々、筆記用具、いざという時のために換金できる宝石類や貴金属類も持って行く。それと…

 机の引き出しから、古ぼけた分厚い本を取り出す。

 これは日記帳だ。ただし、今世のことについて書いているのではない。小さい頃から、忘れないように何かを思い出す度に書き綴った、前世のことに関する思い出を纏めたものだ。だから、日記帳と言えるほど整然としたものではない。時系列もバラバラに、思い出したことが取り留めなく日本語で書かれている。

 人目に付かないように王都に持って行かなかったことが幸いした。地球に帰る上で前世の記憶は鍵になるかも知れないし、何より大切な思い出だ。持って行かないという選択肢はない。


 そんな感じで荷物を纏めると、当然のことながら相当な量になってしまった。

 とてもではないが1人で持ち運べる量ではないだろう。

 しかし、荷物を減らすという選択肢はない。ならば、やはりここは神術でどうにかするしかないだろう。幸い、どんな神術でも込められそうな最高の装備もある。


 私は、荷物の中から白いハンカチを取り出すと、ローブの右腰辺りに押し当てつつ、神術で大きめのポケットに変形させた。

 更に、出来上がったポケットに手を当て、イメージを集中させる。

 イメージは未来の便利道具第二弾、何でも入るポケットである。

 といっても四次元はちょっとイメージできないので、無重力空間をイメージする。ポケットの口を開くと、広々とした空間とそこに入れた物がふわふわ浮いているような感じをイメージする。


 先程の空間転移よりもかなり時間が掛かったが、しばらくしてポケットに神力を吸われる感じがして、神術が成功したと分かった。

 念のためポケットを開いて見てみると、中は不自然なほどに広い純白の空間が広がっていた。

 とりあえず、失敗してもあまり害はなさそうなハンカチを1枚取り出すと、ポケットの中に入れてみる。

 ハンカチはポケットに入れた瞬間、水の中に入ったようにふわりと浮き、もっと押し込むと、ゆっくりと奥に向かって落ちて行った。

 そこで気付く。


(これ…神術で呼び寄せないと取り出せないんじゃない?)


 慌てて、もうかなり小さくなってしまったハンカチに手を伸ばし、手元に呼び寄せるようなイメージをする。そう、イメージはどこぞの銀河の戦士が使う念動能力である。

 意識を集中させると、一気にハンカチがポケットから飛び出してきて、手の中に納まった。とりあえず取り出すことに問題がないと分かってホッとする。


 問題は入れたことを忘れてしまった場合、定期的に持ち物の整理でもしないと永遠にポケットの肥やしになってしまう可能性があることと、ポケットの入り口を通らない大きさのものは入れられないことくらいか。

 前者は気を付ければいいし、後者はそもそもそこまで大きなものを持ち運ぶ予定もないから問題ない。もし何か必要に迫られたらその時にまた改めて考えればいい。


 そう結論付けると、私はベッドの上にある荷物を片っ端からポケットに放り込んでいった。それと、さすがにいちいち全ての荷物を神術で取り出すのは面倒なので、もう1枚ハンカチを使って、ローブの左側に普通のポケットを付けた。ハンカチと小銭をそっちに放り込んでおく。


 そうして全ての荷物を収納したところで、ドアをノックする音と、入室の許可を求めるラルフの声がした。

 入室を許可すると、ラルフが部屋に入って来る。そしてその手に握られていた、布の掛かったバスケットをそっと差し出してきた。


「…これは?」

「簡単ですが、軽食を用意させて頂きました。私からのささやかな餞別とお思い下さい」

「…ありがとう」


 折角なのでありがたく受け取ると、軽食というにはやけに重い。

 そっと掛け布をめくると、そこにはサンドイッチと水が入った瓶があった。しかし…


「どういたしましたか?何か嫌いなものでもありましたかな?」

「いえ…」


 何食わぬ顔で尋ねてくるラルフを適当にあしらいながら、瓶をバスケットから抜く。やっぱり不自然に重い。そのまま軽く振ると、バスケットの底の方から何かがぶつかる硬質な音がした。


「…ラルフ?」


 これ、軽食じゃないもの入ってるよね?たぶんお金。そんな思いを込めながらラルフを見ると、ラルフは参りましたと言いたげに首を左右に振り、どこか慈しむような顔をした。


「お気になさらないで下さい。先程も申し上げました通り、私からの餞別でございます」

「困りますこんなもの…」


 軽食だけ取ってバスケットは返そうとすると、ラルフはまた首を左右に振ってそれを拒否した。


「よいのです。侯爵家のためとはいえ、私はセリアお嬢様が辛い目にあっておられるのを知りながら、ずっと傍観しておりました。この程度で許されることだとは思いませんが、せめて門出を祝うくらいのことはさせて下さい」

「ラルフ…」


 予想外な言葉が出て、私は目を見開いて驚く。そんな私を、ラルフはやはり優しい表情で眺めた。


「以前お会いした時よりも表情が豊かになられましたね。ずっと生き生きとしていらっしゃいます。ずっと見て見ぬ振りをしておいて何を言うんだと思われるかもしれませんが…あなた様が自由になられて本当に良かった」

「……」


 何と言えばいいのか分からなかった。ただ、これだけは伝えておくべきだと思った。


「…私は、ラルフのことを怒っていませんよ?他の使用人の皆さんのことも。当主夫妻に疎まれる私を気遣うことは難しいでしょうし、別に虐げられたりしたわけではありませんから。むしろラルフや…一部の人たちは、時々私を気遣って下さっていましたし…だから、ありがとうございました」


 そう言って頭を下げると、ラルフは少しだけ驚いた表情をしてから、そっと微笑んだ。


「そう言って頂けると救われます。…きっとナキアお嬢様も」

「…?」


 ここでなぜナキアが出てくるのか?そう思いながらラルフの顔を見ると、ラルフは少し困ったような表情をしながら、にわかには信じられないことを言った。


「セリアお嬢様は気付いておられなかったでしょうし、ナキアお嬢様にうかがっても否定されるでしょうが…ナキアお嬢様は、私ども以上にセリアお嬢様のことを気にかけておいででしたよ?特に旦那様や奥様から何度もセリアお嬢様をさりげなくかばっておいででした」

「ナキアが…?」


 本気で驚く。

 ナキアは、いつも私のことを無視するか、それでもなければ腹立たしそうに睨み付けてくるばかりだったので、完全に嫌われていると思っていたのだ。

 そんなナキアが私のことを両親から庇っていたと言われても、とてもではないが信じられない。


 どういう反応をすればいいのか分からずに立ち尽くす私に、ラルフは静かに頭を下げた。


「余計なことを申し上げました。忘れて下さい。もう用がお済みになったようでしたら、裏口からお出になって下さい。そちらは既に人払いがしてあります」


 整理がつかない頭のまま、その言葉に頷くと、ラルフに先導されて屋敷の中を歩く。

 廊下を歩いている最中も黙々と言われたことについて考えていると、気付いたらもう裏口に着いていた。


 ローブのフードを被り、顔を隠す。

 裏口を出て、最後にもう一度ラルフに別れの挨拶をしようと屋敷を振り返ると、屋敷の二階や三階の窓から、顔見知りの使用人たちが何人も頭を下げているのが見えた。


「……」


 無言でフードを深く被り直すと、静かに感謝を込めてお辞儀をする。

 そのまま踵を返してから、背中越しにラルフに声を掛ける。


「…ラルフ」

「はい」

「ナキアに伝えてほしい。…私はあなたのことを嫌ってはいなかった。…あなたの気遣いに気付いてあげられない鈍い姉でごめんなさい。そして…ありがとう」

「…たしかに、お伝えします」


 その声を聞くと、私はもう振り返ることなく屋敷を後にした。


主人公が思った以上になかなか旅立ってくれなかった…。

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― 新着の感想 ―
ラルフさん、梨沙だけじゃなくナキアの事もちゃんと見てたんだなあ。雇い主はあんななのに優秀だ。
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