リゼル・レーヴェン視点
「リゼル・レーヴェン様。あなた様との婚約を破棄させて頂きます」
そう笑顔で言い放った少女を、私は呆然と見つめていた。
少女の名はフィオナ・ザイレーン伯爵令嬢。
このファルゼン王国の宮廷神術師指南役であるゼクシル・ザイレーン伯爵の長女であり、レーヴェン侯爵家次期当主たる私、リゼル・レーヴェンの婚約者だ。
言われたことが上手く理解できず、呆然と立ち尽くしてしまったが、フィオナがそれでは、と礼をして帰ろうとするのを見て、私は咄嗟に静止の言葉をかけた。
「ま、待て!待つんだフィオナ!」
私の言葉に、後ろを振り返ろうとしていたフィオナは足を止めると、再び私と向かい合った。
しかし、その表情は私が知るフィオナとは全く違っていた。
私の知るフィオナは、いつも私の隣で静かに微笑を浮かべていた。
いつも礼儀正しく、上品で、相手を立たせることを忘れない、貴族令嬢の鑑だった。
フィオナはあまり口数が多い方ではないため、いつも私から話す形になっていたが、よく話が合うし、話していて楽しかった。
親が決めた婚約者同士だったが、私たちはそんなことは関係なく上手くやっていたはずだった。
…なのに、何なのだその表情は?
無意味で無価値なものを見るような、自らの内面を映さない鏡のような瞳。
感情を動かすことすら拒否したかのような無表情。
それではまるで……あの忌々しい妹のようではないか。
「なぜだ。私たちは上手くやっていたではないか。なぜ、婚約破棄など」
「なぜ…ですか。それはリゼル様もよくお分かりのはずでは?」
いつにないフィオナの表情に怯みつつそう問いかければ、フィオナはやはり表情を変えることもなくそう返答した。
その返事を聞いて、私には思い当たる節があった。近頃王都の貴族たちの間でささやかれている噂についてだ
「あの噂か?だがあれらは…」
「嘘…とでも言うおつもりですか?6年間、婚約者としてあなた様と共にあったこの私に対して、あれらの噂は間違っているとでも?」
そこでフィオナの表情に少し感情が宿った。
しかしそれは静かな怒りであり、やはり今まで見たことのないものだった。
今、レーヴェン侯爵家や私に関して、王都の貴族たちの間で様々な噂が飛び交っている。
曰く、聖女様を虐げ、その結果聖女様に捨てられた家。
曰く、聖女様の兄は妹を妬み、妹の才能が開花しないように指導と言う名の虐待を行っていた。
曰く、聖女様は神意召喚を行い、自らを虐げた全ての者の不幸を願った。
…あの忌々しい妹が姿を晦ましてからというもの、そんな根も葉もない噂が際限なく流れ出した。
我が家があの妹を虐げた?期待を裏切り続けた人間に失望し、冷たくすることは当然だろう?
私があの妹を虐待しただと?不甲斐ない妹に多少手荒な方法で指導を行うことの何が悪い?他の教師たちが遠慮してヌルイ指導しか行わないから、私がわざわざ軽く鞭を加えてやっただけのことだ。
妹が神に我が家の不幸を願った?我々に恨まれる筋合いなどない。むしろあれだけ期待を裏切り続けたあの妹を、見捨てることなくこれだけ長い間育ててやったのだ。感謝こそすれ、恨むなど筋違い。そんな身勝手な願いを神が聞き入れるはずもない。
やはり、どう考えても根も葉もない噂だ。
しばらくは口さがない者たちが面白おかしく吹聴することもあるだろうが、所詮噂は噂だ。いずれ収束するだろう。
「ああ、私も様々な噂を聞いたが、どれも根も葉もない噂だ。あのようなくだらない噂に踊らされて婚約破棄など、あまりにも早計で浅慮だとしか思えないが?」
「…左様でございますか。あなた様のことです。本気でそう思っていらっしゃるのでしょうね…」
「いずれ噂は収束するだろう。それでなくとも、今王家を挙げてあの妹の捜索を行っている。あの妹が何を考えて出奔したのかなど分からないが、奴が捕まればすぐに我が家の汚名は晴れる。我が家との婚姻が君の家にとってどれだけの良縁か分からない訳でもあるまい?」
我が父、ルイス・レーヴェンは、軍属神術師であり、王都を守護する第1軍の軍団長を務めている。
元々レーヴェン侯爵家は、戦闘神術師として名を馳せた家柄である。
他にもそういう家はいくつかあるが、そのほとんどが辺境伯や辺境候であり、国境で他国や害獣に睨みを利かしている。
つまり、我が家は、代々軍を束ねる将軍を輩出する公爵家を除けば、王都で最も優れた戦闘神術師の家柄なのだ。
対して、フィオナのザイレーン伯爵家は、有力貴族ではあるが、急激に力をつけた家であるため、敵も多い。
元々ザイレーン家は子爵家だったのだ。しかし、現当主であるゼクシル・ザイレーン伯爵が、子爵家としては破格の神力量と神術の技量を有しており、史上初となる子爵家出身の宮廷神術師筆頭になるという偉業を以って、伯爵に陞爵された。
さらに、病死した前妻との間に子供が生まれなかった伯爵は、辺境候の三女を後妻に迎え、その間に2男1女をもうけた。その子供たちも非常に優秀な神術師であり、次の代で侯爵位に陞爵されるのではないかという声もあるほどだ。
我が侯爵家と縁続きになることは、そんな急成長を続ける伯爵家にとって地盤を固めるまたとない機会なのだ。しかし…
「まあありえないことだとは思いますが…仮にそうなったとしても、私がリゼル様との婚約を継続することは決してありませんわ」
「な、なぜだ?」
「お答えしたくありませんわ」
「は?」
「お互いのためにもこれ以上の問答は避けた方がよろしいかと」
「なんだそれは?理由も聞かずに婚約破棄など納得できない。構わないから答えよ」
「…そうですか。では言わせて頂きます。私があなたとの婚約を継続しないのは…」
フィオナは、その瞳に明らかな軽蔑と嫌悪を宿し、はっきりと告げた。
「リゼル様のことが大嫌いだからですわ」
「……は?」
あまりの答えに思考が停止する。フィオナが?私のことが大嫌い?意味が分からない。
「な…わ、私たちは婚約者として上手くやって来ていたではないか!?君だって私といる時はいつも笑って…楽しそうにしていたではないか!?」
「貴族令嬢ですもの。愛想笑いくらいしますわ。それにあなたとの会話…正直あなた自身の自慢話ばかりでうんざりしましたが…おべっかくらい当然言いますわ。それに、私はこれでも貴族に連なる者として、なんとか婚約者であるあなたのことを好きになろうと努力したつもりです。ですが、どうやってもあなたのことが好きになれませんでした。むしろ、あなたのことを知れば知るほど嫌悪感が増しましたわ」
「なっ…」
あまりに辛辣な物言いに、私は絶句した。目の前の少女は一体誰なのだ?
フィオナはいつも笑っていて…私のことを認めてくれて…決して、決してこんなことを言う少女ではない!
しかし、目の前にいるフィオナの表情が、その視線が、私に現実を突き付けてくる。
「先ほど申し上げたように、私はあなたのことを知って、好きになろうと努力しました。しかし、あなたは私を知ろうとして下さいましたか?そんな訳ありませんわよね?でなければ今そのように驚いていないはずですもの。あなたができそこないと蔑んでいたセリア様は、いつだって婚約者である殿下のために努力をしていらっしゃいましたよ?それだけではありません。あなたが知ろうと、見ようとしていなかっただけで、セリア様はあなたがしていない、しようとも思わない努力をたくさん積み上げていらっしゃいました。今一度ご自分とセリア様のことを顧みてみては?果たしてご自分に、セリア様をできそこないと蔑む根拠がどれほどあるのかを」
何も言えないでいる私に、フィオナは容赦なく言葉の刃を突き付けてくる。
「この際はっきり言わせて頂きます。あなたは結局自分しか愛していないのですわ。自分だけが可愛くて、そんな自分を脅かす妹が嫌いで、そんな自分を肯定してくれるお人形が好き、ただそれだけ。仮にも婚約者として6年間連れ添った者として、最後に忠告させて頂きます。あなたが自分のことしか見ていない限り、他の人間も本当の意味であなたを見て、愛することはありません。どうか、私の最後の手向けの言葉として覚えておいて下さいませ」
そう言うと、礼をして今度こそ部屋を出て行こうとするフィオナに、私は荒れる心のままに言葉を放った。
「こんな、私にこんなことをしてただで済むと思っているのか…?必ず、後悔することになるぞ…」
そう言った私に、フィオナは肩越しにどこか憐れむような視線を向けながらこう言った。
「まあ…これから私も色々と面倒なことになるでしょうが…。大丈夫ですわ」
そして顔を前に向けると、どこか嬉しそうな声で言った。
「だって私は見たのですもの。自らの意志で恐れることなく羽ばたいていくあの方を。それに私には、私を本当に愛し、支えて下さる家族がいるのですもの。何も怖くありませんわ」
そして、フィオナはそのまま部屋を出て行った。
私はしばし呆然としていた。
しかし、時が経つにつれ、言いようのない怒りが湧いてきた。
(この私を…ここまでコケにするとは…。フィオナめ、必ず後悔させてやるぞ!レーヴェン侯爵家を敵に回したらどうなるかを思い知らせてやる!)
怒りに衝き動かされるまま、私は父上の執務室に向かった。
伯爵家風情が図に乗って侯爵家との婚約を破棄するなど、言語道断。父上も必ずやお怒りになるはずだ。
しかし、その執務室に向かう途中、妹のナキアと鉢合わせた。
「ナキアか…」
「どうなさいましたの?お兄様。そのような怖い顔をなされて」
どこかに出かけるつもりなのだろうか?外出用のドレスを着たナキアは、私の顔を見ると怪訝そうな顔をした。
「フィオナが…私との婚約を破棄するなどと言い出してな」
収まらない怒りのまま吐き捨てるようにそう言えば、ナキアは納得したような表情で、信じられないことを言った。
「左様ですか。まあフィオナさんはお兄様のことを好いてはいらっしゃらないご様子でしたものね。今の状況ではそのようなこともありましょうね」
「…は?」
予想外の言葉に、思わず怒りも忘れて呆けてしまった私に、ナキアは意外そうに眉を上げながら言った。
「まさかお兄様…気付いていらっしゃいませんでしたの?フィオナさん、いつも作り笑いばかり浮かべていらっしゃったではないですか。学園で同級生とお話ししている時の方がよっぽど打ち解けた顔をしていらっしゃいますよ?」
「……」
愕然とする。私はフィオナとは上手くいっていると思っていたが、そう思っていたのは私だけだったのか…?
「なぜ…教えてくれなかったのだ…?」
喘ぐように言った私に、ナキアはどこか呆れたような表情を浮かべて言った。
「なぜ私が教えなくてはなりませんの?お兄様ご自身で気付くべきことでしょうに。そんなことを私に言われても困りますわ。では、私はこれから王宮に向かいますのでこれで」
礼をして、さっさと去っていく妹の後ろ姿を呆然と見送った後で、私は再び執務室へ向かった。
執務室のドアをノックし、父の入室を許可する声を確認したうえで中に入る。
「リゼルか、何の用だ?」
執務室には母上もいて、2人で何やら話し合っている最中のようだった。
「先ほどフィオナが来まして、私との婚約破棄を突き付けていきました」
ナキアとの会話で霧散しかけた怒りをかき集め、そう父上に伝えたが、父上の反応は予想外に淡泊なものだった。
「そうか、まあ仕方あるまい」
「え……?」
予想外の返答に思わず呆けた声が漏れる。しかし、父上はそんな私に頓着することなく冷めた言葉を放った。
「終わりか?なら出て行くがいい。セリアがあんなことをしでかしてくれたおかげで、私たちは忙しいのだ」
「え、いや…」
思わず救いを求めるように母上の方を見たが、しかし母上はもう私を見ることなく、父上に視線を向けていた。
また、これだ。
私は既視感を覚える。
また、あの妹が私から両親の関心を、視線を奪い去った。
いや、もしかしたら最初からずっと…?
恐ろしい想像が脳裏に浮かんで、私は震えた。
両親は、私が神術の訓練で成果を挙げると、いつも褒め、喜んでくれた。しかしその後で必ず言うのだ「セリアがお前のように優秀ならば…」と。
当時は嬉しかった。あんな神力が人より多いだけの無能とは違うのだと思って誇らしかった。
だが、だが…
(優秀であれば?そうであればどうなのだ?いや、実際に優秀になってしまった今…私は…私は……!?)
言い知れない恐怖に衝き動かされ、私は執務室を飛び出した。
そのまま震える足で自室に辿り着き、中に飛び込む。
普段なら使用人の1人でもいるはずの室内には、今は誰もいなかった。
きっと、両親の指示で忙しく動いているのだろう。
今、この家に私を気にする者など1人もいなかった。
先ほどのフィオナの別れ際の言葉が脳裏をよぎった。
( 「私には、私を本当に愛し、支えて下さる家族がいるのですもの」 )
「う…あ……」
意図せず、口から声が漏れる。
そのまま私はその場で蹲り、ひび割れた声を零した。
「誰か…誰か私を見てくれ…」
その声は誰に届くこともなく、人気の無い室内に溶けて消えた。