ナキア・レーヴェン視点⑨
どうして、こうなったのか。
「うふぅ~ん、んふふふ~~」
「……」
目の前で怪しい笑みを漏らしながら、ゆらゆらと頭を揺らす姉。
かつて、血が通っていないのではないかと思われるほどの無表情とその整い過ぎた美しさから、人形姫などと称されていた姿はどこへやら。その怜悧な美貌はだらしなくゆるみ、目はとろんとして焦点が曖昧になっている。
油断した。頬に全く赤みが差さず、言動もしっかりしているから全然酔っていないのかと思っていた。
まさか、メイドから追加の酒瓶を受け取るために立ち上がった瞬間、一気に酔いが回るとは。
「んん~~? もう無くなっちゃったぁ」
「……お姉様? 追加を持ってきてもらったところですが、今日のところはこのくらいにしておいた方が……」
「ん~?」
行儀悪く頬杖を突きながら、空の酒瓶を逆さにして振る姉にそう言うと、姉は焦点の合っていない目でこちらを見て、カートに載せられた酒瓶に視線を向ける。
この期に及んでその白皙には一切赤みが差していないが、姉がもうほろ酔いという段階を通り越していることは明らかだ。
いくら身内相手とは言え、これ以上の醜態をさらす前に止めなくては。
「……そんな未練がましく見てもダメなものはダメですわ。今日はもう──」
その瞬間、姉の右肘から先が掻き消えた。
キンッ
軽くも鋭い音が鳴り、一瞬の残像を残して再び現れた姉の右手。
その手の、甲には……綺麗に断ち切られた、瓶の先端が乗っていた。
「……え?」
反射的にカートの方を見ると、一番手前の酒瓶の先端が、まるで元からそうであったかのような綺麗な断面で断ち切られていた。
一切の引っ掛かりもヒビもないその断面は、さながら切断力を強化した神具の剣で切り裂いたがごとく。しかし、恐ろしいことに姉は一切神術を使っていない。
「うん、まだイケるね~」
「……」
切り落とした(?)瓶の先端の断面を見ながらそんなことを宣う姉に、ぎこちない動きで振り返る。
「い、今、なにを……?」
「ん~~? ボトルキャップチャレンジ? みたいな? な~んか間違ってると思うけどねぇ~~。そもそもキャップじゃなくてコルクだし? まあ瓶は割れてないしセーフ? みたいな?」
……何を言っているのか分からない。
えへらえへらと笑いながら意味不明なことを宣う姉。
みたいな? と言われても、その“みたい”の部分が分からない。……みたいな?
ダメだ、これはちょっとわたくしの手には負えない。
「誰か!」
わたくしは手を叩きながらそう叫ぶと、部屋の前に控えていたメイドにメイド長のマーヤを呼ぶよう伝えた。
「ん~~」
「って、お姉様! ダメです!」
「えぇ~~? なんでぇ?」
ふと目を離した隙に自分のグラスに新しいお酒を注ごうとする姉を、慌てて止める。
その手から酒瓶を奪い取ると、勢いで開いた口からお酒が吹きこぼれる。
「あ──」
「ん」
ビシャっと飛び散ったお酒が、テーブルや絨毯に降りかかる……と、思いきや、その全てが空中で静止した。
大きな塊から、数十に及ぶ細かな水滴まで。残らず空中で静止していたかと思うと、スルスルと吸い込まれるようにして姉のグラスに収まった。
「あぶないあぶな~い。こぼしたらもったいないもんねぇ~」
相変わらずゆるんだ調子でそんなことを言うが、やっていることは凄まじいという言葉でもなお足りない。
ただでさえ精神の集中が困難な酩酊状態で、詠唱すらせずに、こぼれた液体を落ちる前に止める。
およそ、神術師の常識というものを逸脱した神業だ。どう考えてもこんなところでやることではないけれども。
「って、だからダメですって!」
「えぇ~なぁんでぇ~?」
子供のように駄々をこねる姉を制止しながら、背筋に寒いものが走るのを感じる。
目の前にいる姉は、かつて“神に見放された者”などと称された欠陥神術師ではなく、紛れもなく“聖女”であるということを、まざまざと見せつけられた気がした。
「失礼します」
「マーヤ!」
ようやく現れた救いの手に、思わず声が華やぐ。
助かった。40年以上メイドとしての経験を積んでいる彼女なら、酔っぱらいの対処もお手の物だろう。
「あらまあ、セリアお嬢様。これはど──」
「あぁ~~マーヤだぁ~」
「はふぅ!」
「マーヤ!?」
姉の様子に目を丸くしていたマーヤが、姉のぽやんとした言葉に突如口元を押さえると、その場に崩れ落ちてしまった。
絨毯の上にへたり込んだまま「うぅっ」と声を漏らすと、感極まったかのように声を絞り出す。
「セリアお嬢様が……セリアお嬢様が、こんなにも安らいだ笑顔を!!」
「あれぇ、マーヤぁ? ろぉしたの?」
「はふ! ばあやは、ばあやは……っ!!」
……ダメだ、マーヤがただのばあやになっている。
ハンカチで顔を覆っておいおい泣き始めてしまったばあやを呆れた目で見ていると、姉がそれを不思議そうに見ながらグラスを傾けた。
「はふぅ~ん……お酒おいし~」
「……」
どこか色っぽい吐息を吐きながら舌っ足らずな言葉でしゃべる姉に、わたくしはもう諦めた。
これはもう……いっそのこと、酔い潰れるまで飲ませるしかないのかもしれない。
「ナキアも飲も~」
「……はいはい」
まったく、どちらが姉なのか。わたくしの姉は、こんなにも愉快な人だっただろうか。
頭の片隅でそんなことを考えながら、わたくしは酒瓶を向けてくる姉にグラスを差し出した。
* * * * * * *
「あ……」
それから更に2本の酒瓶を空けたところ、次の酒瓶に向かって手刀を振り抜いた姉が、少し呆けた声を漏らした。
見ると、それまで割れも欠けもなく綺麗だった断面が、今回は一カ所だけ僅かに欠けていた。
「あぁ~失敗。これで終わりだねぇ~」
何か分からないが、どうやらもう飲む気はないらしい。
姉よりもだいぶゆっくりとではあるものの、それなりの量を飲んでかなり酔いが回ってきた自覚のあるわたくしは、その言葉にホッとする。
「じゃあこれが最後のいっぽ~ん」
「!?」
が、どうやら早合点だったらしい。
「ちょっと待ってください! まだ飲むんですの!?」
「えぇ~? だって開けちゃったし?」
正論だ。だが、だったらそもそもそんな開け方しなければいいのにと思うわたくしは間違っているのだろうか?
いや、それ以前になんで手刀でそんなに綺麗に瓶が切れるのかとか、その技はどこで習得したのかとか……ああ、ダメ。頭が回らない。
「~~っ……」
頭の中に何かが詰まっているような感覚に、思わず額を押さえる。
わたくしはお酒に弱くはないが、気持ちよく酔うということが出来ない体質だ。むしろ、酔うと頭が重たくなって気持ち悪くなる。
「ナキアぁ~?」
「……なんでしょう?」
「もしかしてぇ、酔った?」
「……お姉様ほどではありませんわ」
「わたしぃ~? そんなに酔ってないけどぉ?」
……どの口が。
人格が変わるほどぐでんぐでんになっておいて、どこが酔っていないというのか。
「でもそっかぁ、ナキアってお酒弱かったんだねぇ。付き合わせちゃってごめんねぇ?」
「……」
いや、お酒弱いという言われようには言いたいことがあるが、付き合わせたという点に関しては本当にそうだ。
ここまで深酒するつもりは無かったというのに、本当にこの姉は……って、マズい。理性が利かなくなっている。落ち着かないと……。
「ナキアはぁ、どぉしてそこまで私に優しくしてくれるのぉ?」
「……は?」
グラスの中のお酒を意味もなくクルクルと回しながらそう言う姉に、つい反射的に刺々しい返しをしてしまう。
優しくした? どこで? 何を? 素っ気なくした覚えならあるが、優しくした覚えなんてない。
しかし、姉は目を細めるわたくしを気にした様子もなく言葉を続ける。
「ハロルドもナキアも……なんで私によくしてくれるのぉ?」
「……わたくしはともかく、」
「わたし……め~わく、ばっかりかけて……」
「お姉様?」
わたくしの呼びかけに、姉は反応しない。
その瞼は八割方閉じられ、しきりに瞬きをしながらゆっくりと舟を漕いでいる。どうやらもう半分くらい夢の世界にいるらしい。
「足手まとい、なのに……なんで、やさしいの……」
「……」
そこで、遂に姉はグラスを置くと、そのままテーブルに突っ伏してしまった。
両腕を頭の下に敷き、もぞもぞと収まりのいい場所を探す姉に、わたくしは静かに告げた。
「それは……王太子殿下が、お姉様のことを……大切に思っていらっしゃるからでしょう?」
「……そっかぁ」
やがて動きを止めた姉は、瞼を閉じたまま僅かに口を動かした。
「ナキア、も……」
「え?」
「わたしの、こと……きらいじゃないと、いいな……」
「お姉様?」
「……」
呼びかけには、静かな寝息が返ってきた。
「……」
グラスに残っていたお酒を一息に飲み干し、わたくしは手を叩いてメイドを呼んだ。
「お呼びですか、ナキア様」
「お姉様を寝台へ」
「畏まりました」
部屋に入ってきた3名のメイドがお姉様を持ち上げ、ベッドへと運ぶのを見ながら、わたくしは自分の部屋に戻ろう、と!?
「っ!?」
「あらあらナキア様、大丈夫ですか?」
立ち上がったところで膝が砕け、マーヤに支えられてなんとか椅子に戻る。マズい、どうやら自分で思っていた以上に酔いが回っていたらしい。姉と同じで、立ち上がった拍子に一気に来た。
すかさずマーヤが差し出してくれた水を飲みながら、ぐらぐらとする頭の揺れに耐える。
「これはいけませんね……急いで横になられた方がよいかもしれません。あなた達!」
「「「はい、メイド長」」」
「ナキア様を寝台へ」
「「「? ぁ! 畏まりました!」」」
「え? ちょっと、貴女達なにを……?」
一瞬の戸惑いの後、何かに気付いたかのような表情で嬉々としてこちらに向かってくるメイド達。
そのまま素早く抱き上げられ、その向かう先を見たところでようやくその意図を悟る。
「ちょ──!?」
「ではナキア様、ごゆっくりお休みなさいませ」
あれよあれよという間にベッドの上で眠る姉の隣に押し込まれ、シーツを掛けられる。
「ちょっと──」
「ナキア様、お静かに。セリアお嬢様が起きてしまわれます」
「こちら、片付けておきますね」
「それではごゆっくり」
「灯り、消しますね」
慌てて上体を起こそうとするもマーヤに素早く押し戻され、そのわずかな振動にすら頭痛と気持ち悪さを感じてしまう。
そして、その気持ち悪い感覚に顔をしかめている間に、素晴らしい連携でテーブルの上を片付け灯りを消すと、メイド達はさっさと部屋から出て行ってしまった。
静かに扉が閉まる音が響き、部屋の中にはわたくしと姉だけが残される。
「……ここで、寝ろと……?」
成人した姉妹が1つのベッドで寝るなど、どう考えても普通じゃない。
だが、そうは思っても今や体を起こすのも億劫で、とても自分の部屋まで戻る気力はない。
「あぁ……」
気持ち悪い、ぐらぐらする。下手に動くと粗相をしてしまいそうだ。どうやら、今夜はここで休むしかないらしい。
チラリと横を見ると、穏やかな表情で寝息を立てる姉の姿。その顔を見ている内に、ふと先程姉が漏らした言葉が脳裏に蘇る。
── ナキア、も……わたしの、こと……きらいじゃないと、いいな……
頭が重い。体も重い。どうやら、眠りそうになっているらしい。
押し寄せてくる眠気を自覚しながら、わたくしは姉の寝顔に向かって静かに口を開いた。
「きらい、では……ありませんわ……」
ああ、頭が働かない。お酒のせいだ。わたくし、なにを……
「でも……どうしたらいいのか、わかりませんの……」
な、に……を…………
メイド長のマーヤはラルフの奥さんです。彼女は当主であるナキアと一緒に王都と領都を移動していて、ラルフは社交シーズンの時だけ王都に来ています。




