更科梨沙(セリア・レーヴェン)視点 1-①
作者の不躾な要望に応えてご意見ご感想を下さった皆様ありがとうございました。
活動報告の方に謝辞と今後の予定について載せているので、よかったら一読してみて下さい。
今回から梨沙の旅編が始まります。それではどうぞ。
ガタンッゴトンッ
整備されていない道を進む馬車が跳ね、その振動が体にまで伝わる。
今、私は領都から国境方向の隣町に向かう乗合馬車に乗っていた。
なぜ国境方向かというと、私の最初の目的地がズバリ国境付近にあるからだ。
より具体的に言うならば、王国の南東端にあるバルテル辺境伯領に向かうつもりだ。
ここで、この国と周辺国家の地理について説明すると、ファルゼン王国は南北に広い領土を持ち、東側で2つの国家と隣接しており、さらにその向こうに3つの国家が存在している。
そして、南から西を通って北にかけては、害獣の縄張りと隣接した国境地帯となっている。
王都は国土のほぼ中心に存在し、レーヴェン侯爵領は王都の南東に位置している。
つまり私は、王都と正反対の方向に進んでいるということになる。
バルテル辺境伯領は、東側を隣国と隣接し、南側を害獣の領域と隣接している、王国で最も南東に位置する領地なのだ。
なぜそこに向かうかというと、私の目的とする聖人の遺跡の1つがバルテル辺境伯領にあるから、そしてそこで国外の遺跡に関して情報を得ようと思っているからだ。
一応王都でも各地の遺跡の位置に関して大まかな情報は調べたが、全ての遺跡の情報がある訳ではないだろうし、現地人に聞かなければその正確な位置は分からないだろう。
私の予定では、南東から始めて西に向かい、ぐるっと北東まで、国境沿いに片っ端から調べて行くつもりだ。
それでも神が言っていた“私以外で地球に帰ろうとした聖人”の情報が得られなかった場合は、そのまま国境を越えて隣国へ向かうことになるだろう。
ではなぜ神術を使わずに乗合馬車などに乗っているのかというと、それにはいくつか理由がある。
1つ、これが最も大きな理由なのだが、実は現在、私は神力を枯渇寸前まで消費してしまっているのだ。
まあ神意召喚の儀をやって神力切れを起こし、完全回復し切らない内に7つも固有神術を開発して行使したのだから、当然と言えるだろう。
といっても、空間を弄った2つの神術以外はそれほどでもなかった。だが、あの2つだけで回復していた神力の7割は持って行かれた。
その結果、現在私はかなり余裕がないのである。
今の状態で飛行の神術を使えば、神力の枯渇で体調を崩しかねなかった。
2つ、領都には私の顔を知る領民が一定数いるため、出来るだけ早くに領都を離れる必要があったのだ。ここで正体がばれてしまえば、確実にラルフたちに迷惑が掛かるだろう。
私は基本的にレーヴェン侯爵領の領都以外の場所は行ったことがないので、とりあえず領都を出てしまえば、正体がばれる心配はなかった。
乗合馬車でなくとも、傭兵を護衛として雇ってもいいし、なんなら1人で出て行くという手もあるにはあるが、前者は費用と悪目立ちするという問題で、後者は安全性の問題で却下した。
3つ、まあこれは単に経験である。
この先1人旅をするなら、こういった状況になることはあるだろうと考えたのだ。
それならまだ治安がいいであろう領都の近くで経験しておいた方が今後のためになると思ったのだ。
そう、思ったのだが……現在私はその判断を後悔し始めていた。
(臭い…狭い…お尻痛い…)
この世界の庶民の足を完全に舐めていた。
前世のバスと同じ感覚で使っていいようなものじゃなかった。
国内であっても町を出れば害獣の脅威に晒されるのがこの世界の常だ。
なので、乗合馬車にも当然護衛として傭兵が雇われている。
ちなみにだが、この世界には傭兵ギルドというものがあり、こういった乗合馬車や隊商の護衛、害獣の退治や貴重な素材の調達などを請け負っている。
これから行く国境付近となれば、国外の害獣の縄張りに侵入するような強者たちが大勢集まっている。
とにかく、そういった傭兵を護衛として雇っている以上、乗合馬車は多くの客を一度に乗せないと割に合わないのだ。
結果、馬車の中は立っている者こそいないが、隣の人と腕がぶつかるくらいにはぎゅうぎゅう詰めの状態である。
しかも、この世界の庶民の衛生状況は決して良くない。
狭い車内にこれだけ人が密集していると、車内になんとも言えない臭いが充満してしまっていた。
本当は目的地である隣町に着くまでに、ラルフにもらったサンドイッチを食べようと思っていたのだが、流石にこの環境で食事をする気にはなれない。
というか後で食べるサンドイッチをこの外気に触れさせたくなくて、掛け布できっちり包んでしまった。その際にバスケットの底に小さな革の袋、恐らく財布を発見したが、そちらは中身を見ずに右ポケットに突っ込んでおいた。
そして、このお尻から全身に伝わる振動。
別に馬車に乗るのが初めてという訳ではない。
ただし、今まで私が乗っていた馬車は貴族の使う上等なものであり、走る道も領都や王都、あるいは領都から王都への道というある程度整備された道だった。庶民が使う馬車で整備されていない道を走った結果、私のお尻は早くも限界を迎えていた。
出来ればクッションでも敷きたいところだが、生憎屋敷からクッションは持ち出していないし、手持ちの衣類をポケットから取り出す訳にもいかない。
結局のところ、ただひたすら耐えるしかないということだった。
そして、それだけではない。というか一番問題なのは…
(目立ってる…ものすっごく目立ってる…)
そう、明らかに車内の人間の視線が私に集中しているのだ。
まあ考えてみれば、こんな明らかに仕立てのいい服装をしている人間がバスケット1つしか持たずに乗合馬車に乗っているのだ。嫌でも目立ってしまうだろう。
フードを深く被って俯いているので、精々口元くらいしか見えていないだろうが、恐らく服装と肌の綺麗さ、白さでいいところのお嬢様だということはばれているだろう。もしかしたら、お嬢様が家出でもしているのではないか、というところまで察している人もいるかもしれない。
(いや、大丈夫。何かもっともらしい理由を考えるのよ。…そう!私は隣町に住む祖父母の家までこっそり届け物をしに行く商家の娘!これでいこう!)
ちょうどそこまで考えたところで、隣に座っていたお婆さんが話し掛けてきた。お婆さんのコミュ力が高いのは異世界でも共通らしい。
「きれいな娘さんだねぇ、何かお遣いかい?」
どうやらお婆さんの背が低く、隣に座っていたこともあり、顔を見られてしまったようだ。
私は先ほど考えた設定に従って返答する。
「はい。とても美味しいパイが焼けたので、隣町の祖父母の家まで届けに行くんです」
どうよこれ。完璧じゃない?
普通のお遣いなら使用人にやらせるだろう。裕福な家の子女が供も連れずに乗合馬車などに乗る訳がない。しかし、自分で焼いたパイを祖父母に食べさせてあげたくてこっそり持って行くなんて、実に微笑ましいではないか。
どうやらお婆さんもすんなり信じたらしく、微笑ましそうな表情をしていた。
「そうかい、それは喜ぶだろうねぇ。実はうちの孫も…」
そのまま自分の孫自慢を始めてしまったお婆さんに適当に相槌を打ちつつ、周囲の様子をこっそり伺うと、先程よりは私に向けられていた好奇の視線が減っていた。
どうやら私の作戦は上手くいったらしい。
しかし、ふと、粘着くような嫌な視線を感じた。
お婆さんの方を向く振りをしてこっそりそちらを見ると、対面の座席のがっちりした体躯の強面の男がこちらをジロジロ見ていた。まるで値踏みするような視線に嫌な気分になる。
(何か…やな感じ。もしかしたら何か目を付けられたかも)
そんな風に思ったが、別にこの場で何ができる訳でもないので、とりあえずそちらは無視してお婆さんとの会話を続ける。
ちなみに、私は人見知りだが、中途半端な知り合いとの会話よりも、赤の他人との会話の方が口が滑らかに動く。
前世でも、学校のクラスメートよりも買い物先の店員さんとかの方がスムーズに会話出来た。
なぜなら、知り合い相手にやらかすとずっとそのことが付いて回るが、赤の他人相手ならたとえやらかしてもそれっきりだから。…まあ、しばらくは後で思い出して悶えるけど。
そういう訳で、相手が主導となって会話を進めてくれるなら、スムーズな受け答えくらいなら出来る。
まあ決して気が利いたことが言える訳ではないし、表情筋はピクリとも動かないのだけど。
「そういえば名乗り忘れていたね。私はローナっていうんだよ。お嬢さんのお名前は?」
ふと思い出したかのように、お婆さんがそう尋ねてきた。
私は咄嗟に梨沙と答えようとしたのだが…なぜか口が止まった。
理由は自分でもよく分からない。ただ何となく、本当に何となく、この世界の人間に梨沙と呼ばれることを、私の心のどこかが強く拒否した。
口を薄く開けたまま沈黙してしまった私を、お婆さんが少し不思議そうに見詰めてくる。
私は一度口を閉じて少し考えてから、改めて口を開いて名乗った。
「…サラ。私の名前は、サラです」




