さかさ
待ち合わせ場所のファミレスは、予想よりも混んでいた。
ぐるり見渡せば、案内を待つまでもなく、見知った後ろ姿が目に留まる。
歩み寄って、声を掛けた。
「久し振り。いつ帰って来たの?」
振り返った小野は、僕の姿を認めて、あぁと薄く笑った。
「ん……今日だ」
「急だな。あ、お盆だからだろ?」
「まぁそうだな」
言葉を交わしながら、僕は、向かいの席に腰を下ろす。
高校からの友人、小野は、他県の大学に進学したため、今は都会で一人暮らしをしている。夏休みに入ったはずなのに連絡を寄越さないなと思っていたら、今日の夕方、突然のメールで呼び出された。
話したいことがある。
らしい。
そのままメールで説明するか、電話でも足りただろうに。訝しみつつも僕は、母の夕飯を辞して、指定されたファミレスに足を運んだ。
まぁ、四ヶ月ぶりだもの。会って話すのも悪くないけれど。
「大学って、夏休み長いんだろ? いつまでいられんの?」
「いや、すぐ行く。たぶん、あんまり時間ねーんだわ」
「えぇ? バイトでもしてんの?」
「いや……」
「あ、もしかして彼女? 彼女できたとか?」
「いや……」
昔のノリで会話を始めて、すぐのことだ。
僕は、ふと妙な気分に襲われて、首を傾げた。
目の前の小野が、ずいぶんと変わってしまったような気がする。
どこがどう、というのは、わからない。ただなんとなく……でも確実で強烈な。違和感があるのだ。
……こんな奴だったっけ。
田舎から都会に出たといっても、ほんの四ヶ月だ。そこまで雰囲気の変わるものでもないだろう。激痩せしたとか激太りしたとか、そういうこともない。怪しげなカルトや奇抜なファッションに目覚めたわけでもないようだ。
じゃあ、なんだろう。この違和感。
よくよく見れば小野は、どうにも落ち着かない様子で、伸びた髪をボリボリ掻き毟っていた。その表情は、張り詰めているような、なのに落胆したような。複雑な憂いに満ちている。
昔から口数の多い方じゃなかったけど、それにしたって、変だった。
「なんか……あったの?」
そういえば、話があると言ってたんだっけ。
深刻な相談なのかもしれない。
「僕で良ければ、聞くけど」
「…………」
水を向けると、小野は、しばし躊躇ってから、口を開いた。
†
先月、大学のツレと俺、五人で心霊スポットに凸ってきたんだ。
其処は、俺の住んでる街じゃ有名な廃屋で「逆さの家」って呼ばれてる。
なんでかって?
全部、逆さだからさ。
外見は普通の日本家屋って感じで、気味は悪いけど、どうってことない。ただの空家だ。問題は、中身なんだな。家具とか、生活用品とか。そのまんま残ってるんだけどさ。
これが、逆さまなんだ。
どういうことかって、そういうことだよ。
たとえばさ、茶の間に行くだろ。ちゃぶ台があるじゃん。これがさ、逆さま。
脚の方を上に向けて、引っ繰り返してあるんだ。その上に、お盆が伏せてある。湯飲みが伏せてある。灰皿も伏せてあって、それに吸い殻が乗ってる。万事、この調子ってわけだ。
それだけじゃないぜ。タンスが逆さま。しまってある衣類も裏表が逆に畳まれてる。古臭いテレビも逆さま。冷蔵庫が逆さま。本棚が逆さま。本も逆さま。将棋盤とか、床の間の掛け軸まで逆さまだ。
五人の中に大工の息子がいて、そいつが言うには、柱も逆柱だったらしい。
廃屋だぜ。今さっきまで人がいました、って雰囲気が、そもそもアウトだろ。
そこへ持ってきて、中に入ったら、この有様だ。
みんな、最初のテンション何処へやら。浮き足立っちまってさ。妙にソワソワして、落ち着かない。たまに冗談飛ばしたって空元気だ。正直おっかなびっくり、男五人がドラクエみたいに一列で、先頭を譲り合ってたっけ。
それでさ。
二十分くらいかな。結構、細かく探索してたんだよ。
どの部屋も逆さまだろ。
ずっと、それ見てんじゃん。
なんていうかさ、そういうものに囲まれてるとさ。
変な気分になってくるんだよ。
どうも俺だけじゃなかった。口には出さなくても、みんな同じことを考えてるのが、わかったんだ。
――俺達、これでいいんだろうか。
っていうのはさ。
家の中のもの、どれもこれも逆さまだろ。そういう空間なんだよな。いや、世界って言った方がいいのか。つまり規律だよ。この家じゃ「逆さま」が規律なんだ。それが正しい。当然のことで、ごく自然に常識なんだ。
俺達だけが、その規律から外れてる。
其処では、俺達の方が異質で、異端で、マイノリティだった。
俺達、逆立ちするべきじゃないか?
誰かが言った。
みんな、すんなりそれに従ったよ。なんの躊躇いもなくな。むしろ、ホッとした空気すら流れてた。テストの解答を確認したような、書き込んだコメントに賛同を貰ったような。やっぱりそうなんだっていう、安心感だな、あれは。
あぁ、これで俺達は「普通」だ。なにも恥じることのない、真人間だって。
規律の内側に着地して、従属する喜びを感じたよ。俺も。
ところがだ。
五人の中には一人、どうしようもなく運動神経の鈍い奴がいた。
そうだな。Aとしようか。
Aはな、逆立ちができなかったんだよ。
いるよな、こういう奴。本人は真剣で、頑張ってるのはわかるんだけど。努力が空回りして前に進まないパターン。別に悪気があるわけじゃないのが伝わるから、余計始末に負えないんだ、これが。
みんな、最初は手伝ったんだ。
脚を持ってやったり、腰を支えてやったり。コツなんか教えてやったりさ。いい歳して、小学生に戻ったみたいだ。ま、ちょっとだけ楽しくもあったんだけど。
悲惨なのは、Aの運動神経が、ガチに小学生並みだったってこと。
あるだろ。頭では理解してるのに、身体が言うこと聞かない。思うように動かせないんだよ。不器用なんだよな。おまけに焦ってるもんだから、手は滑る。重心はブレる。何度やっても、上手くいかないのさ。
あっちにゴロン。こっちにゴロン。
Aは、いつまで経っても、無様に畳の上を転がってるだけだ。
そのうち、みんな苛々してきた。
元来、そこまで気の短い連中じゃない。狭量でもない。どっちかっていうと大味なのばっかりだ。それが、明らかに焦れてる。みんな眉間に皺、Aが倒れても手を貸しやしない。顔中に書いてあったぜ。迷惑だってな。たぶん、俺の顔にも。
マジウザいんだけど。
さっさとやれよ。
規律違反だ。
なんでこんな簡単なことできないわけ?
応援の声は、いつの間にか、罵声に変わってた。
Aはもう涙目で、一生懸命に逆立ちしようとしては転んでた。その度に、舌打ちと嘲笑が浴びせられる。それが繰り返される。
気が付いたら、四人でAを囲んでな。
逆さ、逆さって声を張り上げてた。
酒の一気コールあるだろ。ちょうど、あんな感じさ。
想像してみろよ。
真っ暗な廃屋。家具という家具は逆さまに置かれてる。その一室で、何度も転がり続ける男。それを囲む、逆立ちの男が四人。異口同音に「逆さ」って喚いてるんだ。呪文を唱えるみたいに。
ちょっと尋常じゃないよな。
つか、ヤバいよ。どう考えても、危ない画だ。あのとき俺等、カンペキおかしくなってたわ。場に飲まれたっていうか、理性が気化したっていうか。意識が異界に引っ張られたっていうかさ。狂気じみてた。
……彼処は、そういう家だったんだよな…………。
逆さ、逆さ、逆さ、逆さ。
俺達は逆立ちのまま、Aの周りをグルグル回った。
逆さ、逆さ、逆さ。声は大きくなって、ほとんど叫ぶみたいだ。
やめてくれ。Aが頭を抱えて、身を捩る。
一際それが高まって、次の瞬間。
「さかさ」
天井から、別の声が降ってきた。
その場にいる、誰のものでもなかった。小さな女の子の声だった。
俺達は、それで正気に戻った。
なんだこれ。俺達、なにやってたんだ。
我に返ってみれば、こんなに異常なことはない。俄然、恐怖が襲ってきた。もう逆立ちなんてしてる場合じゃないだろ。二本の脚で全力疾走。誰もが悲鳴を上げて我先にと駆け出した。一目散だ。
幼女の声、ってベタだけどさ。
あれは心底キたぜ。
舌っ足らずで、そのくせハッキリしてて、やけに楽しそうな、弾んだ声。あんな廃屋で、あんな時間に、なんの脈絡もなく、そんなのが聞こえた日には、誰だって怖いだろうが。
でも俺が、俺達が本当に怖かったのは、その声じゃない。
「異常」ってのはな。気付くまでは「正常」なんだ。
それが異常だと、理解してしまった途端、異常になる。
俺は、ハッキリと悟った。
己の陥っていた状況が、如何に異常だったか。知らないうちに、とんでもなく危険な領域にまで足を突っ込んでた。もうあと半歩もいらない。本当にギリギリだったんだ。
踏み外す寸前で認識できたのは、ラッキーだったんだろうか。
わかんないけどさ。
なんせ、そんな自分自身が、いちばん怖かった……。
家の外に飛び出した俺達は、その場に膝を折って転がった。
みんな顔面蒼白、ガタガタ震えて、言葉もない。
もちろん俺もさ。助かったって実感するのに必死だった。
だから、そのときまで、誰も気付かなかったんだ。
あれ、Aは?
いないんだよ。
どうも、置き去りにしてきちまったらしい。
あんな状態だったからな。腰でも抜かして、動けなくなってるのかもしれない。各々、自分の保身しか頭になかったし。申し訳ないが、そこまで気が回らなかったんだよ。
とりま、電話したりメールしたり、家内に呼び掛けたりしてみたんだけど。
なんていうか、まぁ……反応がないわけだ。
さぁ、まずいことになった。
めでたく生存ルートで帰途に就こうってときに、お約束のトラブルだ。
俺達は顔を突き合わせて、短く相談した。ぶっちゃけ迷ったし、まだ完全に恐怖から立ち直れたわけじゃない。あんなところに戻るなんて、考えただけでも寒気がする。正直ゴメンだ。
だけど、答えは結局、全員一致。
さすがに放っておくわけにはいかないからな。
俺達は、意を決して、家の中に戻ったよ。
其処で……俺達は……俺は、なにを見たと思う?
†
いったん言葉を切って、小野は、僕をみつめた。
僕は、ゴクッと喉を鳴らす。
「逆さだったんだ」
賑やかな店内で、小野の声だけが、やけに鮮明に聞こえた。
「アイツは死んでた。五体バラバラに切断されて……しかも、足が腕の付け根に。腕が鼠径部に。それぞれ、ぴったり接着されてたんだよ。まるでプラモデルだ。服は裏表を逆に着せられてた。靴も裏返ってた。それで、頭は」
キノコみたいに、天井から逆さまにニョッキリ生えて。
濁った眼で、俺達を見下ろしてたんだ――。
半笑いで一息に捲し立て、小野は、静かに視線を落とした。
どこか肩の荷が下りたように。
……そうか。
そういうことだったのか。
今の話を聞いて、ようやく合点がいった。
そりゃ違和感もあるだろう。
――「異常」は、異常と認識した瞬間、異常になる――
おかしいと思ってたよ。
だって小野の口、額に付いてる。
眼は両方とも顎に。鼻は引っ繰り返って、穴が天井を向いてるじゃないか。
小野の頭、 逆さま なんだ。
了