―②― 三〇一号室
二〇一六年 七月 第一週
今日のランチは何にしようか。下の食堂で昨日から始まった冷やし中華もいいが、いつもの醤油ラーメンも捨てがたい。
「お疲れ様です、森崎です」昼飯のことを考えつつ、森崎はナースステーションの看護士達に声をかけた。
「先生、お久しぶりです」この病棟で一番若手の棚橋が振り返った。
「お、棚橋君じゃん」森崎は棚橋のデスクに向かった。「元気だったかい? 」
「ええ、相変わらずです」
「そっかそっか。あの時の彼も? 」
「元気とは言えないです。でも容態は安定してますよ」棚橋はなんとも言えぬ表情で言った。
この病院には、棚橋の友人が入院していた。その友人は糖尿病で、棚橋が担当看護士として面倒を見ているのだ。
以前、カウンセリングの時に二人が話し込んでいるところに遭遇した森崎は、後で棚橋から彼の事情を聞き、自身のカウンセリングのネタにした。それ以来棚橋とはよく話すようになり、仲の良い関係になっていた。
「早速、お願いしても良いですか? 」
「分かった。ちょっと待ってね」そう言うと、森崎は鞄からタブレットPCとボイスレコーダーを取り出し、ナースステーションを出た。
彼の心理カウンセラーとして、そして精神科医としてのポリシーは『話をよく聞く』ということだった。患者の話し相手になることで、『自分には話を聞いてくれる仲間がいる』という生きる目的を与える。それがカウンセリングの目的であり結果であると信じていた。
森崎は足を止め、三〇一号室――水沢直実の病室の扉を開けた。
「こんちは、森崎ですう」森崎は気の抜けた声で挨拶し、足を踏み入れた。「水沢君、おひさ」
「あっ、森崎先生」直実は体を起こした
「なんもなんも、寝たままでいいよ? 」
「大丈夫です。今日は調子良いんで」
「そっか、丁度いい時に来れたなあ。ここ座っちゃうよ」森崎は丸椅子に腰掛け、ポイスレコーダーのスイッチを入れた。
「今日は平成二八年六月……六月の……」
「二九日」直実が小声で教えた。
「二九日だそうだ。私も痴呆が入ってきたようだな」森崎は頭を掻いた。
「天候はあいにくの大雨。雷まで鳴ってきたらしい」二人は窓の外を見た。ガラスには雨が打ち付け、山の方で稲光が光った。
森崎はボイスレコーダーを脇の棚に置き、カウンセリングを始めた。
「今日、すごい怖い夢見たんだよね」森崎は夢の話をし始めた。夢の話を聞けば、患者がどんな状況にあるかが何となく分かる。何かに追いかけられる夢なら恐怖や焦燥。どこかをさまよっているような夢なら孤立感や寂しさを感じていることが多いのだ。
「お化けでも出ましたか? 」
「お化けなんか比じゃないくらいの恐怖よ。車のブレーキが効かねえの。なんぼ踏んでも」
「それ、自分もたまにあります。夢の中で運転すると絶対にブレーキ効かないですよね」
「ね、不思議だよねアレ」そう言うと森崎は「水沢君は、今日どんな夢を見た?」と直実に話を振った。
「ええっと」直実は少し困ったような顔をした。「今日、夢見てないんです」
「そうなの? 」
「眠れなくて」
「あらら……何か不安なことでもあったりする? 」
「えっ。いやまあ、その」
しまった。と森崎は思った。相手を困らせてしまった場合、リカバリーは容易では無いのだ。
「本当に良くなるのかなって。たまに疑問に思うことがあるんです」直実は正直に答えた。
「そうなのか。でも、さっき棚橋くんに聞いてみたら、少しずつだけど快方に向かってるって言ってたよ」森崎は嘘をついた。
「本当に?」
「ホントホント。後で本人に聞いてみな? 」
「ちょっと嬉しいすね」直実は照れくさそうに微笑んだ。
「彼、君の世話をするのが一番楽しいらしいぞ」
「ええ? どうしてですかね」
「そりゃ友人だからさ。守るべき人を守ってるんだから、やりがいがあるだろうし」
「そっか」
「君には守ってくれる人がいるのさ」そう言うと森崎は立ち上がった。「さて、そろそろ次の人に行かないと」
「先生、今日はありがとう。また来てくれますか? 」
「来週のこの時間くらいに来る予定だよ」
「了解です」
「じゃあ、また来週」
「また来週」
森崎は直実に手を振り、静かに扉を閉めた。