プロローグ02
「‥‥‥はぁ‥‥夢か‥‥‥‥‥」
久しぶりに嫌な夢を見た。思い出したくもない、君が死んだあの日の夢。
喧しく鳴り続ける目覚ましを叩き、眠たい眼を擦る。
下着やコンビニの袋で雑乱とした六畳間の床からゆっくりと身体を起こし、カーテンを開く。窓から差す陽光が僕を照らし、その清々しさが自分には似合わないものだということを無理矢理にでも実感させられてしまう。
覚束ない足取りでトイレに向かい、用を済ます。そのまま手と顔を洗い、粘つく歯を磨く。冴えない僕の顔が鏡に映る。朝起きたばかりだというのに、どこか泣いているようにも見えた。
椅子に腰掛け、昨日買っておいた菓子パンを口にする。
甘ったるいチョコの味が口の中に広がり、ペットボトルの水を含んで薄める。ぬるめのそれに不快感を覚え、小さく溜息を吐く。
壁に掛かった時計を見て、口にパンを押し込んでから着替えを始める。バイトまで時間がない。
着れれば問題ないと言わんばかりのよれよれの服を着用し、寝癖のついた髪のまま、制服の入った安っぽい鞄を肩にかける。これでも公園でホームレスをしているような浮浪者よりはマシだと思う。
「行ってきます‥‥‥‥」
狭苦しい部屋に別れを告げるように、僕は家を飛び出した。
──────
「いらっしゃいませ。」
僕は、今日も淡々とコンビニのバイトをこなす。もう二十歳になるというのに、僕はいつまでたっても大人になれない。大人と子供の境界線なんて、曖昧で、そんな明確なものは存在しなくて。
「おい、聞いてんのか!?」
「すみません。どうかなさいましたか?」
ぼーっとしていた僕のレジに並んでいたのは、小太りの初老の男だ。見るからにイラついた顔をこちらに向けながら、指を曲げるジェスチャーを見せつけてくる。
イライラが頂点に達したのか、レジ台を叩く。レジ横に配置された十円のチョコが容器ごと落ちた。
男の大声で、店内の視線が僕のレジに集中する。
「いつものって意味だろ!わかんねえのかよ!」
「はぁ、そう言われましても‥‥‥」
ここで働き始めて数ヶ月の僕に、そんな事がわかるわけがない。そもそも、コンビニの店員が客一人一人の顔を覚えるなど難儀な話だ。そんなに名前を覚えてもらいたいなら狂ったように個人経営の店に通えばいいのだ。全国チェーン店には酷な話だ。
「これだから最近の若者は‥‥だいたい態度が悪いんだよ、ああ?なんだその目は、舐めてんのか?」
始まった。ストレス(笑)が溜まった自称お偉い方々のお決まり説教タイムだ。
こういう人間は、自分より下がいないとやってられないクズだ。自分の感じたストレスを、お客様は神様とかいう誰がが作った大義名分を振りかざし、僕達にぶつけてくる。
「てめえ聞いてんのか!?」
「はい、お客様のおっしゃる通りです。申し訳ございませんでした。」
深々と頭を下げる。大体のクレーマーは、ストレスを解消しきるまでうだうだと説教を続けるか、他人が頭を下げるのを見ると満足するものだ。僕は他人に頭を下げられたことがないのでわからないが、それ程に上に立つ事が素晴らしい事なのか?僕にはわからない。
「次からは気ぃつけろよ!」
「申し訳ございませんでした。」
男は大股でズカズカと歩き、店から出て行ってしまった。男を目線で見送った後、店内を見渡すと、大体の客がこちらを見ないように各々の買い物を済ませていた。関わりたくない、それが簡単に見え透ける。
「‥‥‥‥‥」
店長が担当している隣のレジは混雑しているが、僕のレジの前にはそこだけぽっかりと穴が空いてるかのように、誰も並ぼうとしない。
「‥‥‥お客様、こちらのレジにどうぞー。」
きっと、僕は今日も平常運転だ。
──────
コンビニでのバイトも終わり、次のバイト先に向かう途中。僕はギィギィと金属音を鳴らすママチャリに乗り、変わるまで時間のかかる信号を待ち続けていた。
血のように真っ赤な信号が、片方の交通を制限する。そして、緑なのに青と言い張る信号が、片方の交通を許可する。
これは法律上なんら問題はないことで、普遍的な事実だと断言してしまってもいいだろう。人間は信号がある事によって、安全に車やバイクを動かす事ができる。それは覆しようのない事実なのだ。
しかし、ごく稀に信号は嘘をつく。
君が死んだのは、そのせいなのだ。
全部、全部、全部、あの信号が嘘をついたから。
だから、僕は信号が嫌いだ。たくさんの人に“危険”と“安全”を交互にチラつかせて、嘲笑うかのように立っているそれが。
信号が青になる。
僕を含めた有象無象が動き出す。自転車を漕いでいるだけで、昨日と全く同じ。巨大なビルの電子広告が目に入る。
全く変わらない日常。変わってしまった、君のいない日常。
多分、君は有象無象ではなかったのだろう。だからあの日、僕は生き残って、君は死んだんだと僕は思う。
あの日の事を後悔しなかった時は一度もない。あの日、あの時、あの場所に行かなければ、君は死なずに済んだんだ。君が死ななければ、僕はもっとまともな人生を歩めた。落ちぶれる事なく、普通の人生を歩めたはずだった。
だがそれは自分が落ちぶれた言い訳でしかない。例え話だが、ゲームのように一つ前のセーブポイントに戻れたとして、僕は君のいる日常を手にする事ができるだろうか?
答えは否である。きっと、僕はやり直しても同じ事をする。君のいない日常を“当たり前”だと言い聞かせ、また僕は落ちぶれる。ただそれだけなのだ。
オンボロの自転車が、一漕ぎするたびに不快な音を撒き散らす。顔を歪めながら、過去の事故の事を振り切るように加速してゆく。
そして、あの時みたく渡りきる寸前のところまで辿り着いてしまった。
今日もいつもと変わらない。僕はこの横断歩道を渡り切り、君のいない日常を辿る。それが世界の理で、必然で、どんなに泣き叫んだって変わらない結果で───
「本当にそれでいいのかい?」
凛とした、しかしそれに反する筈の甘さを孕んだ声。瞬間、世界が色を失う。有象無象が活動を止め、漫画のような白黒の世界が顔を覗かせる。
だけど、有象無象であるはずの僕は止まっていない。今現在も活動を続けている。
「そこを渡りきってもいいのかい?自堕落な、平凡以下の日常に戻ってもいいのかい?」
その声が、世界中に響き渡る。同時に、色を失った白黒の有象無象が消え、真っ白な世界に姿を変える。そこには“もの”という具象は存在せず、それを許されたのは僕と声の主だけだ。
「こっちだよ、こっち。」
声のほうを振り向くと、そこには僕よりも小柄な、ピエロの格好をした少女の姿があった。笑い泣きを表すピエロの仮面の横から、可愛らしいゴムで結ばれたツインテールがはみ出している。服装はともかく、身体つきさ普通の少女だ。ただ、少女は誰とも比較にならない、圧倒的な存在感を放っていた。例えるならば、真っ白な半紙に落とされた墨汁というところだろう。その例えが「決して消す事のできない過去」という意味を持つ気がして、僕の気分が悪くなる。視界がグルグルと回り、平衡感覚が失われてゆく。
「君は本当にそれでいいのかい?有象無象に戻るのかい?あの子のいない、日常にさ。」
千鳥足のまま、目の前にいるの少女に手を伸ばす。が、その手は虚空を掴む。たった数十センチの距離が、少しも縮まらない。そのピエロの姿をした少女に、僕の手は届かない。
「ふふふ、必死だね。」
目の前の少女が消え、真後ろから声が聞こえてくる。振り向き手を伸ばすが、やはり僕の手は何も掴めない。
喉から声を振り絞るが、それは音にはならず、消え去る。
「じゃあ、チャレンジ精神の強い飢えた君の心意気に免じて、一つチャンスをあげよう。」
僕の身体が全ての力を失う。その場にバタンと倒れ込み、二度と立てなくなる。脳が蕩けるように熱くなり、何も考えられなくなる。
「あの子を助けたいんだろう?」
真っ白な頭の中に妖艶で魅力的な声が、獲物を捕らえた蛇如く絡みつく。自分の意志では動かない筈の身体が動き出し、その場でこくんと頷いてしまう。
「なら、取引をしよう。君が左目をボクにくれるのなら、代わりにあの子を助ける手伝いをしてあげよう。」
流れ込む少女の誘惑、脳裏に映る君の笑顔。熱く煮え滾る何かが僕の中で蠢き、僕自身を支配する。声にならない叫びが、真っ白な世界を支配する。
「分かった分かった、落ち着きなよ。ふふふ。」
触れられなかった筈の少女は、当たり前のように僕の手を握る。そこには確かな温もりがあった。そこには確かな感触があった。その温もりが全身を駆け巡り、やがて左目に触れる。
「じゃあ、取引成立だ。君の大事な人を助けておいで。」
優しい声で、少女は僕に語りかける。少女は仮面の先を軽く握り、その口元を露わにする。
三日月の形を成す口は、酷く笑っているように見えた。
それを最後に、僕の意識はフェードアウトするり
「‥‥‥また会おうね。ボクの大事なヒト。」
その蠱惑的な声が誰に向かって放たれたのか。
知る者はいない。