プロローグ 路地裏の美幼女
――おかしい。
舗装された通りを駆け抜けながら、彼女の心中はそんな言葉で埋め尽くされていた。
桃色の髪をサイドテールに纏めた、年端もいかない幼気な少女。
薄手のワンピースに隠された脚や脇腹には、無数の裂傷や擦過傷が刻まれている。
全体的に痩身な体躯をしているが、ふくらはぎや太ももは同年代の少女と比較して若干太く逞しい。
十歳にも満たないその幼い身体を、毎日酷使して今日まで生き繋いできたのだ。
少女は兵士に追われている。
兵士だけではない。街中が少女の敵だった。
少女は孤独だった。
身寄りもない財力もない薄汚い少女など、誰も助けてはくれない。
はぁはぁと息を弾ませながら、入り組んだ路地や裏道を選んで躍り込む。
幼い体躯は物陰に隠れてしまえば、誰にも見つけられることはない。
今までこのような目に遭った時は、そうして追っ手を撒いていた。
だが今回は違う。
逃げても逃げても、迷うことなく少女を追いかけてくる者が二人いる。
――おかしい、おかしい、おかしい!
細い脚を酷使して、少女は裏道を駆け巡る。
住む家もない養う者もいない少女にとって、昼夜を共にするこの路地裏はもはや庭のような場所だ。
どこを抜ければどの道に出て、どう行けば元の道に戻れるか、全てを知り尽くしている。
仲良くなった浮浪者たちも、少女ほどは裏道に詳しくは無かった。
たとえ気配を察知しているのだとしても、迷わずに少女だけを追いかけることなど出来るはずがない。
ゴミ箱を飛び越え、壁を蹴り、入り組んだ裏通りを駆け抜ける。
一定間隔を保ったままだった気配は消失し、少女は安堵の溜息を吐く。
振り返って後方を確認するが、人の影はおろか足音さえ聞こえない。
やっと、あのお人好しは自分のことを諦めてくれた。
「……やっと、撒けたかな」
「残念だけど、そうはならなかったみたいだね」
優しげな声が前方から奏でられ、少女ははっと顔を向けた。
ねずみ色のローブに身を包んだ黒髪の少年が、菖蒲色の書物を片手に少女のことを見下ろしていた。
少女が気を抜いた一瞬の隙に、彼は土魔法で造られた石壁を生み出し、少女の逃げ道を完全に封鎖する。
「さすがは賢者様です。建物に使われている石材から体外魔力を吸い上げて、そんな高等な魔法を使ってしまうなんて、すごいです!」
少年の背後に佇む銀髪の女性は、ほわーんとした顔で指を絡めていた。
うっとりと頬を染め、少年の横顔を見つめている。
女性の言葉に応えるより先に、少年は困ったような顔で笑いかけてから少女に手を差し出した。
彼が少女に手を差し伸べるのは、今回が初めてのことではない。
「もう逃げなくて良い。俺たちは、お前を助けに来た」
心強い言葉を紡ぎながら、彼――カザミ・アヤメは、桃色髪の少女を抱きしめた。