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(6)丑三つ時

 あいつとの初会合は上々だったと思うぜ。

 自己採点すると九十八点――いや、満点だな。

 始業のチャイムが鳴り悠々と席に戻った俺は、会話の内容を思い返してそう自己評価をくだした。

 とくに最初の一言。俺はテキトーにあのセリフを口走ったわけじゃねーんだぜ?

 あれは、俺のない頭を一晩フル回転させた末に生み出したセリフだ。

 他人との仲を深めるのに必要なことは、共感を生むこと。

 これが俺の導き出した、いち早く他人と仲良くなる方法だ。

 友達のいなかった俺が、んなこと言っても説得力がねぇとは言わせないね。俺だって自分が他人と仲良くなれないことを分析したことくらいあるって。

 結局のところ、俺は他人に共感できねーからずっと独りなわけだ。つーことはよ、その逆だよ逆。嘘でも他人に共感してる風に装っときゃ、相手もこっちに好感を抱くってわけだ。

 ってことはだよ。俺も一応はイジメられてたわけで、あいつは進行形でイジメられてるわけで、気に食わねーんだけど俺とあいつはすでにその共感できる部分を持ってるってことになる。その俺がこのセリフを言うとどうなる。

『同じような環境や境遇にいる者同士の感性はすごく似ていることが多いんだとさ』

 俺には、どー考えたって傷の舐め合いをせがんでるようにしか思えないね。

 もし俺がこのセリフを言われたら間違いなく相手の口元目掛けて唾を吐きかけて激怒するんだが、あいつの場合は功を奏したようだったな。

 好感触を手に俺は次の日も、その次の日も、そのその次の日も、折に触れてはあいつと話すようにした。その度に俺とあいつの関係が近付いてるって思うとゾっとするんだが、ここは我慢だと自分に言い聞かせた。

 そんな忍耐の日が続いたある日、それは体育の授業中だった。

 その日の種目はバスケで、やる気のない俺は体育教師に指示されて適当なチームに入れられた。そのチームからは非難轟々だったけど、知らん顔をした。試合も適度に距離を置きながら参加しているように振る舞った。俺がいることでメンバー全員の士気が下がったのかそのチームは早々に敗退して、授業の後半は審判や得点係りとかに回された。俺はもちろん何もせず、舞台の上でぼけーと試合を観てた。

 やがて試合観戦にも飽きてきた俺は、体育館の片面にいる女子の観察に精を出した。

 女子側の種目はバレーボールみたいで、俺はサーブやトスの度にたゆたゆと揺れる乳房をぐっと目を凝らして見物してた。最初のうちはそれだけで妄想が拡がって興奮できたけど、やがてそれにも飽きが来て、俺はあいつがどこにいるか探してみることにした。

 試合中の女子のなかにその姿は見つけられなかった。壁際で談笑している女子たちのなかにもいなかった。そして何故か俺は不安になった。その感情を打ち消すように俺は、頬に出来ていた吹き出物に爪を立てて、潰した。

 溶岩のような膿がどろりとあふれ、俺はその液体を体操着の裾で拭った。

 一連の作業が終わると、また胸に不安がやってきた。今度のは不安は不安でも憂いが含まれてて、俺はまたその感情から目を逸らすために吹き出物を潰して体操着で拭った。そしたらまたやって来た。今度はそこに甘酸っぱさがあった。

 俺はまた吹き出物潰しの作業を繰り返した。頬から膿を取り出すたびに、心の中に潜ませていた本音が現れてくるようで、ついに俺はその手を止めた。

 止めて、爪先に付着した淡黄色の液体をじっと眺めた。

 離れたとこからひそひそと話声が聞こえた。どうせ俺についてのことだろうと思ったけど、俺はいつも以上にその話声が気にならなかった。ただずっと、爪の先の膿を見つめ、見つめ、見つめている俺は、どうしようもないほど、あいつのことが気になっているんだってことに気付かされてしまった。

 動揺した。

 果てしなく動揺して動転して、世界が引っくり返って、海が空にあって空が海になって、俺は逆さまになって爪に付いた膿を眺めて、海にある太陽は冷たく俺の四肢を切り裂いて、バラバラになって地面に散らばった俺の体は、獣に食われて消化されて糞になって、また地面に撒き散らかされて、今度は微生物に分解されて、そのときはもう俺は俺ではなくて、厖大な奔流に包まれた多数のうちの一つでしかなくなってた。

 それでも俺の頭からあいつは消えなかった。

 その日はもう何も考えられなかった。

 俺はホームルームが終わる前に教室から抜け出して、家へ急いだ。

 家に着いた俺は自室に籠り、ズボンを脱ぎ、布団に潜る。もちろんティッシュ箱も忘れない。

 布団内部にできた暗闇で、俺は激しく手淫する。

 擦っても擦っても減るのはティッシュの枚数だけで、ついにそれも尽きたとき、俺は厚い布団を払って外界に出た。

 布団のなかで凝縮していた臭いが一斉にあふれ出して、俺は思わずむせ返る。

 まだ夕方くらいかと思っていたけど、どうやらそれは違っていて、窓の外はベトベトするくらい真っ暗な夜だった。

 一先ず俺は布団のなかで山のようになっているティッシュの塊を部屋の一角に放り捨てて、さすがに臭いが鼻に付いたから、窓を開けて換気することにした。

 新鮮な夜の空気が室内に溜まった臭いと入れ替わり、発情中の猫の鳴き声が窓の外から聞こえてくる。皺嗄れていて、とても欲情するような気になれない甘えた声。

 けれど情欲を止めることができなかった俺は、トイレへと向かった。


               ◇


 目を覚ましたとき、家内には人の気配がありましたが、どうやらそれは寝息のようでした。私はブレザーのポケットから携帯電話を取り出して時間を確認します。

 発光する画面に映った時刻は二時五分。

 草木も眠る丑三つ時です。

 私は寝ぼけ眼でダンボール箱から抜け出して、濃縮した帳が張り巡った樹海に降り立ちます。

 そうだ。

 ピクニックバスケットを忘れてしまいました。これでは首を括れません。

 いえ、その必要はありません。

 だって私には――。

 だって私には彼がいるのですから。

 ここで待っていれば、彼が私を迎えに来てくれるのですから。


               ◇


 樹海のように雑駁とした居間を忍び足で抜け、その先にある廊下に出て俺は足を止めた。

 廊下の先に誰かが立っている。

 俺はゆっくりと目を凝らす。月光に照らされたそのシルエットは、俺がいま最も求めている人の像を結んでいた。

 その瞬間、俺の下腹部の怒張は最高潮になった。

 俺は前傾してそれを抑え込み、陰に向かって歩んでいく。

 一歩、二歩、三歩と進んでいくたびに、その陰の全貌が明らかになっていく。

 弱弱しく月光を跳ね返した黒髪。

 厚ぼったい一重まぶたの奥にある点のような瞳。

 膝下十センチのスカートの丈、白いソックス。

 決して美しくなくて、ましてや見苦しいくらいのその姿。

 でも俺は、こいつのことを好きになってしまったんだ。




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