(5)彼女の丑三つ時
その日も喜色満面で家を発ち、灰色の校舎が見えて来ると私の笑顔はリボンを紐解くようにするりと崩れました。
今日はちゃんと私の席はあるでしょうか。トイレはどのタイミングで行きましょう。この前は屋上で昼食をとっているところを見られてしまったので、今回は倉庫裏で食べることにしましょう。
今日一日の計画を綿密に立てた私が教室に入ると、室内にいたクラスメイトたちが一斉にこちらを振り向きました。彼らの眼差しは、新しい玩具を得たときの子どものそれと何ら変わらないような気がします。
私は彼らの好奇心を刺激しないよう、なるべく機敏に自席へと移動します。しかし速すぎてもいけません。彼らが興味をのぞかせるような振る舞いは極力避けねばならないので、その場その場に合わせた臨機応変な遅速が必要となります。
脚は綿雲を踏むように優しく、腕は前方の大気を切り裂くように猛々しく振るって席へと向かって歩き、ヤドカリのような謙虚さを見せながら着席します。私の挙措を追うクラスメイトの視線は、競技を評価しているかのような厳しさがあります。
さて、今日はどうでしょうか?
『可』ならこのままお咎めなく、『不可』ならば誰かが声をかけてくるはずです。
私は天にも祈る気持ちで目を瞑り、審判の時を待ちます。
時は刻々と経過します。今のところお声はかかっていません。そろそろ目を開けてもいいでしょうか?
恐る恐る瞳を開くと、私の目の前には見るも無残な顔がありました。
ぼさぼさ髪からのぞいたぎらぎら瞳。そして山脈のような吹き出物。
そうです、彼の顔です。
そのときの私の心境は、まさに吃驚仰天という言葉が当てはまるのでしょう。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった――という、誰もが知る有名な一節がありますが、それどころの騒ぎではありません。
教室で瞳を開けると化け物と会った、です。驚かないはずがありません。
幸い私は、それに近い突飛な出来事を幾つも受けてきたので大声を上げて転げまわるようなはしたない真似はしませんでした。目を見開いて両肩を僅かに上擦らせ、「ひっ」とそれは小さな悲鳴をこぼす程度の反応しか呈しませんでした。
それでも私は心臓を鷲掴みにされたかのように身動きがとれず、「知ってるか?」と出し抜けに喋り出した彼のガサガサに乾いた唇の動きを、まんじりと見つめていることしかできませんでした。
「同じような環境や境遇にいる者同士の感性はすごく似ていることが多いんだとさ」
恐らく彼の声を聞いたのは、転校初日のあの高慢な一言以来でした。破れ鐘のように耳障りな声でしたが、不思議と心地が良かったような気がします。
その後も彼は、のべつ幕なしに好き勝手なことを始業のチャイムが鳴るまで喋り続けました。
彼が自分の席に戻り、私が茫然自失状態から帰還すると、クラスメイトたちの視線がすべてこちらに向けられていることに気が付きました。
日頃の習性で私は身を構えましたが、すぐに彼らの瞳の奥にある色が平静とは似て非なるものであることを見抜きました。こちらを見つめるクラスメイトたちの瞳には、彼を見るときと同じ『畏怖』があったのです。
その瞬間、私は勝利を確信しました。
彼と親密になれば私は解放される、と。
好機というものは誘爆のような性質を持ったものなのかもしれません。
その日から、時間があると彼の方から私のもとへとやって来て、無益な会話をするようになりました。しかし、会話と言っても彼が一方的に話すだけなので、とても会話とはいえないのでしょう。
恐らく、彼にとって私は体の良い人形のような存在でしかないのです。事実、幾度か私が口を挟んだことがありましたが、そのすべてが無下に無視されるか、もしくは軽くあしらわれてしまうかのどちらかでした。
それでも私は構いませんでした。彼との親交を深めれば深めるほど、私は空に放たれる風船のように解放されていくのですから。
そのような日々が幾日か過ぎ去り、その間も彼との『会話』はずっと続いていましたが、私はふと思いました。
――どうして彼は私に話しかけたのでしょう?
彼の性格からして、私をイジメから助けようとしたわけでもなく、ましてや慰めるために話しかけに来ているわけではないでしょう。彼には何か真意があるはずです。
しばし頭を回転させ、私はハッとして頬を赤らめました。
いくらイジメられていようとも、私だって華の女子高校生です。彼が私に心酔していたとしても可笑しいことなどなにもありません。と、言い切ってしまうのは短絡的でしょうか? 短絡的なのでしょうね。そう。これはきっと、私の希望なのです。
――彼が私を好きであってほしい。
私は、胸の内に温かな火が灯り始めていることに気付きます。
彼が私に惚れているのではなく、私が彼にホの字なのです。
彼がどれほど不潔な風体であろうと、一度灯った心の炎には関係ありません。その火力は、彼との会話を燃料にしてメラメラと上昇していきます。
嗚呼、恋しや恋し、彼が恋いし。
彼が恋しや、恋いしや恋いし。
ぽっかりと夜空に浮かんだ満月を仰ぎながらそのような詩を吟じてしまったくらいです。
発覚してしまった以上、私はもう自分自身を押しとどめることができそうにありません。体育の授業をこっそりと抜け出して、無人の教室まで疾駆します。むしゃぶり付くようにして彼の机に抱きつき、横に掛かっている鞄を漁ります。
何か――何か、彼を片時も忘れることがないような、何時でも身近に感じられる物品はないだろうか。
一心不乱になって漁り続けていると、あるものが目に付きました。
それが彼の自宅の鍵だと知れた瞬間、私の炎は最大火力になりました。
燃えに燃えて燃え上がり、そして燃え尽き、それでも良識を燃やし、常識を燃やし、道徳を燃やして、私はその鍵を拳に握りしめ、そっと教室を後にしました。
閑寂な廊下に立ったことで、私の頭は少しばかり冷えました。
このまま何食わぬ顔で体育館に戻ったとして、その姿を誰かに見られて記憶されていたとしましょう。彼の鍵が紛失したことが発覚してしまった際、真っ先に嫌疑が掛けられるのは授業を抜け出していた私でしょう。
どうしましょう。体調が悪くなったことにして保健室へ行きましょうか。
いやいや、そうしても私が独りで行動ができる時間があった以上は、アリバイが成立しません。
仕方ないです。ここは奇策に打って出ましょう。
私は保健室へ向かい、保険医に体調が頗る悪いので早退したいと懇願します。月の日と勘違いした保険医が訳知り顔で早退を承諾すると、私はすぐさま教室へと取って返します。そしてそのまま、自分の荷物と彼の自宅の鍵を手にして学校を去ります。
素直に自宅へ帰宅するのではなく、私が向かうのは彼の家です。
家の所在は今までの交わした彼との会話のなかで幾度か登場していたので、何となくですが掴めています。学校から直線距離にして五キロメートルのところにある住宅地です。喜ばしいことに定期券内なので電車を利用することができます。
最寄り駅までの道中は全速力です。息が切れても、さらに切り刻みます。たとえ、血反吐を吐いたとしても止まりません。
呼吸が喘息のように途切れがちになったところで駅が見えて来ます。私は定期券を改札に叩き付け、プラットホームへと転び出ます。電光掲示板によると電車の到着にはまだ四分ほどあるようです。私は親指の爪を齧りながら電車が来るのを待ちます。
早く。早く。早く。早く、早く、早く、早く早く早く早くはやくはやくはやくはやくッ!
「――早く来いよッ!」
ホーム全体に響き渡るほどの大声で叫んでしまいましたが、折良く電車が来てくれたので私の絶叫をかき消してくれました。
下車する乗客を押し退けて車内へと這い入り、空いていた席に座ります。
噛んでいた爪が割れて流血を始めたのでもう片方の親指を噛むことにします。目的の駅まであと三駅。早く着け、と念じながら流れていく窓外の景色を乾燥した瞳で睨みつけます。
「着け早く着け早く着け早く着け早く着け早く着け早く着け早く着け早く」
焦る気持ちを抑えながら、私は駅に降りてからのルートを頭に描きます。しかし、車輪の軋む音が耳に付いてなかなか集中できません。乗客は私に気を利かせてくれたのか座席から離れて車両を移ってくれました。彼らの気遣いを無下にしてしまうのも忍びないので、私も頑張って彼の家までの最短ルートを模索します。
そうこうしている間に目的の駅に到着したようです。
顎まで垂れた涎を拭い、電車を降ります。ホームには多くの利用客がいるようでしたが、皆、私の走る道を開けてくれました。改札口を抜け、駅前にある地図で彼の家の正確な位置を確認します。
すべてが私を祝福しているようで、彼の家はここから五分もかからない場所にあるようです。駆け出して瞬きを一度しているうちに、私は彼の家にたどり着きました。
彼から聞いていた通り、彼の住まう二階建ての一軒家は物であふれ返っていました。
門柱から玄関先まで続くゴミ袋の双璧。脇に見える庭は、まるでゴミ捨て場の様相です。もしかしたら、そこが専用のゴミ捨て場という可能性もあります。二階の窓越しから赤い傘のようなものや青いビニールシートのようなものが見受けられ、物で混濁した家中の様子が容易に想像できます。
私は呼吸を整え、引き攣った頬っぺたを抓り上げ、これからが本番だと気合を入れ直します。ゴミ袋に出迎えられながら玄関先のインターホンを押し、ドアに耳を接着して澄ませます。
物音なし、人の気配なし。
私は周囲に視線をやり人気がないことを確認して、拝借してきた鍵を使って慎重に開錠し、再び全速力で駅まで引き返します。
改札を走り抜け、先ほどとは反対側のホームに行きます。ちょうど電車が滑り込んできて、私は車両に飛び込みます。行きと違って車内には多くの乗客がおり、飛び込んだ私に迷惑そうな眼差しを寄越してきました。けれど不思議です。今の私には彼らの視線などまったく気になりません。
駅に到着し、私は学校までまたもや全力疾走です。
息が切れたので根性で手足を稼動させます。呼気が血の味でしたが関係ありません。
学校に到着し、今度は警戒心を逆立てながら廊下を進み教室を目指します。急いだ甲斐があったようで、私が学校を走り出てからまだ授業は継続中のようです。けれど気を緩めてはいけません。途中で誰かに遭遇してしまうとすべてがご破算です。
歩哨のように神経を尖らせながら教室へと進みます。無事に誰とも出会うことなく教室へ着き、拝借していた鍵を彼の鞄に戻して再び彼の家を目指します。
二往復目となると、さすがに疲弊していて走ることができませんでしたが、今度は急ぐ必要はありません。お城へ向かうお姫様のように、ゆっくりと優雅に彼の家に舞い戻ることができました。彼の家はお姫様を迎える豪勢なものとは程遠いゴミの城ですが、今の私には煌びやかなお城に見え、玄関先まで続くゴミ袋は、私を出迎えたメイドたちの列に見えます。
私は、メイドたちに出迎えられながらしゃんなりと歩いて玄関へ着きます。もちろん、鍵は先ほど開錠したので開いています。私は安心して彼の家に転がり込み、内側から施錠します。
外観からの想像通り、家のなかは様々な物で雑然としています。玄関口から真っ直ぐに伸びる廊下は昼間なのに薄暗く、さらにゴミ袋が積み重なっているため視界はとても悪いです。これではまるで迷路です。
私は迷った末、履物を脱ぐことなく家に上がります。足元のビニール袋がカサッと鳴り、黒い虫がゴミ袋からゴミ袋へと移動しました。よくよく目を凝らしてみると、辺りのゴミ袋のなかにも黒い影が蠢いていました。さすがにこれ以上進む気にはなれなかった私は、彼の部屋を見つけ出すことを諦め、予定を変更することにします。
玄関脇に置かれていたダンボールの中身を取り出し、黒い虫がいなさそうな場所まで移動させてから、そのなかに身を隠します。彼が起居する家でこうして息を潜めていると、何だか彼に近づいたような気がします。とても心地良いです。
ダンボールというものは保温性に優れているようで、中にいるだけでホカホカとしてきて少しばかり汗ばんできます。額に浮いた汗をハンカチで拭き取り、今のうちに父と母に今日は友達の家に泊まるという旨のメールを入れておくことにします。現職の父はもちろんのこと、元教師である母も門限や予定の変更といったことについて何かとくちうるさいのです。
絵文字をふんだんに使った女子高生らしい文面を送信し終えると、体力の消耗と緊張の糸が切れたことによって、私は重い睡魔に襲われそのまま意識を落としました。
夢のなかに彼が出てきたような気がします。
彼は、吹き出物だらけの顔を恥ずかしそうに歪めて私に愛の告白をするのです。もちろん私は頷きます。そして二人は融けあってどろどろになって一つになるのです。




