(4)彼の丑三つ時
そこまでは順調だったんだよなーって、他人事のように俺は思うんだよ。
学校を休んでミユの家に忍び込んで、ミユの部屋っぽい一室を物色しているときにミユの母親に出くわしちまったんだよ。
ったく。あんな時間に家にいるんじゃねーよ。仕事しろよ仕事。スーパーでレジ打ちでもしてろよ。俺の母親ですら三日に一度はパートに行ってるぞ。
んで、その後は警察呼ばれて学校に連絡いって親呼ばれて。学校側がなるべく大事にしないで穏便に済ませたいってことでミユの家族を宥めて。
結局、俺は親と一緒に頭下げて転校してもう二度と娘に近寄らないって誓約書みてーなもの書かされて終了。納得できなかったけどね。だって好きなんだから仕方ねーじゃん。ミユだって俺のことそんなに嫌いじゃないと思うぜ? だってミユから話しかけて来たんだぜ? 多少なりとも俺に関心がないとそんなことしないだろ?
あの頃の俺は、必死に必死に、そう思い込みたかったんだ。
初めて俺に笑いかけてくれた人だったから、俺はそれに縋りたかったんだと思う。
転校する前に学校に置いてある荷物を取りに行かなくちゃならなくなった。
面倒くせーから放っておいてもよかったんだけど、先生がうるさいから仕方なく俺は学校に行った。どこから洩れたのか俺の噂は学校中に知れ渡っているらしくて、一応先生たちも配慮してくれて教室にあった荷物は職員室に運んでおいてくれたらしい。ダンボール箱にまとめて入れられた荷物を受け取った俺は、そのまま学校を立ち去ろうとはしなかった。最後に一度だけミユを見ておきたかったからだ。
ちょうどそのときは授業中で廊下に人影はなかった。俺は見咎められることなく教室に到着して、廊下に面した窓からこっそりと教室をうかがった。
着席しているミユの顔は、あの日光が自然と集まってくるような表情じゃなかった。
白玉のようにくりくりしていた瞳には、赤い亀裂が幾筋も奔ってて、目の下には打ち身のような青黒い隈が出来てて、まるで殺人狂と対面しているかのように怯えてた。
そのミユの顔を見た俺に、初めて自分が迫害されてるって気付いたときよりも大きな衝撃が襲ってきた。
俺さ、他人からどう思われていようと気にしない性質だと思ってたんだけど、そのときはさすがに堪えた。それほどまでに、俺にとってミユは大切な存在だったんだ、って柄にもなく思っちまった。
その夜は、また明日になれば全部が初発点に戻ってることを切願しながら眠った。
布団の中で、ちょっとだけ泣いた。
いや嘘だ。
死ぬほど泣いた。
俺の家はあんなんだからそう簡単に引っ越しも出来なくて、俺は住居を移すことなく、五駅くらい離れたとこにある別の高校に転校することになった。そのことを知ったミユの父親は不満ありげだったらしいけど、一刻も早く俺をミユから遠ざけたかったのか渋々了承したようだった。
ま、俺ももうミユに会う気はなかったけどな。あんな悲しそうな顔、もう見たくないし。もうミユには近付いちゃいけないんだってことも自分なりに納得してた。
それでも俺は、胸のなかに鉄塊を詰め込まれたかのようにムカムカしてた。だから転校先の高校で心機一転新たな人生を歩もうなんてことも思わないで、前と変わらず誰とも関わらないスタンスでいこうと思った。つっても、俺みたいなヤツに関わりたいヤツはそもそもいねーと思ったけど。
んで、転校先の高校でも案の定っつーか、必然的っつーか、俺は迫害された。
俺に取っちゃそれが日常だから別段困ることはなかったな。最初のうちはいろんな生徒が好奇な視線を向けてちょっかいを出してきたけど、結局それも一ヵ月ぐらいでなくなったし。
そして、それからも『普通』の日々が続くと思ってたんだが、ある出来事が起きた。
俺を迫害することを諦めた生徒たちが他の生徒の迫害を始めたんだ。
最初、俺も無関心を装ってたけど、イジメを客観的に見る機会なんて今までなったから、やっぱ気になっちゃって観察することにした。
イジメの対象はどう世辞を取り繕っても美人とは言えない女生徒だった。
艶のない黒髪を質素なヘアゴムで結わえた色気のないポニーテールが特徴。厚ぼったい一重まぶたの奥には申し訳程度に光を発した瞳。当然の如く制服を着崩すことはなくて、スカートの丈はいつの日も膝下十センチを維持していて、その下にはガキみてーな白いソックスがぴっちりと張り付いていた。装飾品の類いも一切身に着けてなくて、まるで品行方正な生徒の規範であるかのような野暮ったい風貌だった。その癖、令嬢のように楚々とした振る舞いをしているのが、イジメられる原因だと思った。
あいつは俺と違って周囲に無頓着でないことは、イジメられてるその様子を見てれば分かった。机を隠されれば担任が来る前にどっかから新しいのを運んできたり、イジメをほのめかすような証拠もすぐに処分したり。とにかくあいつは、イジメられていることを死ぬほど恥ずかしがってて、大人たちにバレることを頑なに拒んでいるように見えた。俺は、ああこいつはプライドが高いんだな、って思った。んで、そのプライドがあいつの支えなんだなって思った。
それからしばらく、あいつの観察が俺の日課になってて、気付いたら俺は、視界に収めるだけでも性欲が失せるようなあいつと、愛くるしい笑顔を振りまくミユを比較していた。見た目もそうだし、名前だって逆向きの二人を見比べて、小鳥や小動物が自然と集まってくる『陽だまり』をミユとするなら、迫害されてるあいつは、害虫たちの温床になってる『影だまり』だと思った。
そして次に俺は、ミユとあいつを並べてしまったことに無性に腹立たしさを覚えた。
月とスッポンならぬ太陽とゲロ袋くらいの差がある二人。決して見比べてはならない二人を、俺は一時的にではあるが並べてしまった。
ふざけんな。
消えろブス。
気持ち悪ぃんだよ。
と、その日も机がなくておろおろしてるあいつに、心の中で立て続けに痛罵を浴びせた。それでも怒りは一向に収まることを知らなくて、本当は比べちまった俺自身がいけないのに、傲慢な俺はそれを認めたくなくて、止めどなくあふれ出る怒りの矛先を理不尽にもあいつに向けた。あいつさえいなければ、世界中が陽だまりで満ちて幸せであふれる、ってイタイ妄想をしたほどだ。
それからというもの、俺の頭はあいつへの怒りで占められてた。
毎日毎日毎日、膿のように溜まっていく怒りをどうにかして吐き出したかった俺は、クラスメイトに交じってあいつをいたぶる想像を一日中して過ごしていた。
想像だけではあるんだけど、俺は他人を迫害する快感を知った。自分より弱いものをつくることで、自分のすべてが肯定されてるような気になった。自分のすべてが正しいような気にさせられた。
ついには想像だけじゃ満足できなくなった俺は、実際にあいつを迫害することを思い付いた。だからと言ってクラスメイトに交じるわけにもいかないから、俺は俺なりのやり方であいつを迫害しなきゃいけないわけだった。
少しだけ頭を悩ませてたら、枝豆がサヤから飛び出すようにするりと良いアイデアが出てきた。
それは途轍もなく簡単で、あいつの支えになってるプライドを叩き折ってやろうって計画だった。
そのためには、あいつが最も嫌がっていること、イジメられているってことを教師や親たちに知らせてやるのが一番手っ取り早いと思った――が、ふと頭に過ぎった考えが逸る気持ちを止めた。
どうせやるなら徹底的にやってやろうと俺は思った。
目を閉じればまぶたの裏に映る、思い出しただけでも胸がびりびりになりそうな、あの場面。傷もないのに痛み始めた胸を搔き毟りたくなった。眼球を露出させてその痛みに耐える。耐えて、思い返す。
密閉された個室の中央に置かれた無機質な机。その長辺の片側にあるパイプ椅子には俺がいて、横には俺の両親がぼんやりと立ってる。目の前に警察官、右斜めに担任。その後ろにミユの両親。そして、その陰に怯えた顔でいる――
好きだった。
ミユのことが、好きで好きで好きで好きだった。
俺は、俺はね。俺は胸の底からあふれてくるこの気持ちをどうにかしたかっただけだったんだ。俺は自分の気持ちに素直なだけだったんだ。素直なことはいいことだろ? 学校でもずっとそう言われ続けてきただろ? だから、どう考えたって正しいのは俺だった。誰が何と言おうと、俺の世界では何よりも俺が正しいはずなのに、現実ってやつはそんなことも分からないクソ野郎で、そのクソ野郎に何も疑問を感じていないヤツらも総じてクソなんだ。
俺は隠れているミユの姿を見ようと思って椅子から勢いよく立ち上がった。
パイプ椅子が激しく床を打って物凄い音がした。そこにいる全てのクソ野郎が目を見開いて驚いたけど、ミユの元へ駆け寄ろうとした俺の意図を察してすぐに取り押さえた。俺は奥歯を噛み締めて、叫んだ。
必死に、死ぬ気で。届くと思って、ミユのことを呼んだ。
けど、あのときミユは、部屋の隅で父親と母親に抱かれていたミユは、俺のことを。
少しでも近づこうと手を伸ばした俺のことを、見てもくれなかった。
――俺と同じような目に遭わせてやろう。
あのときの俺の気持ちを、あいつにも味あわせてやろう。
その想像だけで俺の全身がさざめき立った。ずっと胸で止まってた鉄塊がすっと胃の腑に落ちたような気がした。
俺は、その情景を何としてもこの目で見たいと思った。
まずそのためには、あいつとの接点をもつ必要があった。
その夜は、あいつを陥れる計画に没頭している間に白んでいた。




