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(3)彼と彼女の丑三つ時


 俺の神経が綱引きの綱のように図太いっていう印象を抱いちまってるかもしんねーけど、俺だってそれなりに繊細なんだぜ?

 自分の机がなけりゃ「うわー」って思うし、ションベンしに行ってる間にペンが折られてりゃ「ひえー」って思うし、便器に突っ込まれて濡れちまった靴を履けば「べちゃべちゃして歩きにきー」って思うし、机のなかに給食の残飯が敷き詰められてあったら「もったいねー」って思うし、体操服が盗まれてたら「早く返せよー」って思うし、脅迫状みたいな手紙を受け取ったら「こえー」って思うぜ。

 ま。寝ちまえばすべて忘れるから、そう思われちまうのも仕方ねぇのかもな。

 つってもだ。今でこそ軽くあしらえるようになったけど、初めて自分が迫害されてるって気付いたときはそれなりに傷ついたぜー。たしか小学二年生かな。帰ろうと思ったら靴がなくてよ、そのときは誰かが隠しただなんて思いもつかなかったから、すっ呆けたクラスメイトが間違って履いていったと思ってかなりムカついた。掃除用具入れを思いっきり蹴とばしたけど、あんまスッキリはしなかった。

 物に八つ当たりしても仕方ねぇから、とりあえず俺は、ユミコ先生に報告してスリッパ貸してもらってそれで家に帰ったんだけど、次の日、俺の靴が砂場から発見されたってのをユミコ先生に聞かされてさ、そのとき先生がすげー心配そうな顔して「大丈夫?」って聞いて来たんだよ。

 そこで初めて俺は察したね。

 あれ? 俺って心配されてる? もしかして俺ってイジメられてるのか?

 ってね。

 何かやきもきしながら教室に戻るとクラスメイト全員の目が笑ってるんだよ。

 結構仲良しだと思ってたヤツもどこか余所余所しく感じて、でもよく思い返してみると、出会った当初からこんな反応だったなって。そういや俺、クラスメイトとあんま話したことねぇーやって。それに気付いてから見ている景色は一変したな。

 話しかけても反応がなかったのは、聞こえていないんじゃなくて無視されてるんだって。教室の隅の方でこそこそと話してる女子たちは、女の子だけの秘密の話をしているんじゃなくて俺の悪口を言ってるんだなって。物がよく無くなるのは、俺が私物に無頓着だからじゃなくて盗まれてるんだなって。俺だけ給食の分配が少ないのも勘違いじゃなかったんだなって。

 その事実にまず俺は吃驚して、その次に悲しくなって、最後にはちょっとだけ泣いたね。自分なりに周囲と上手くやってると思ってたんだけど、俺の基準は世間とは大分ズレてるんだなって。明日から学校どうしよう、ちゃんと行けるかな、ってそう思った。

 でも、寝たら全部どうでもよくなった。

 いつも通りに朝飯を食って、いつも通りに登校して、いつも通りに授業中寝て、いつも通りに少ない給食を食って、いつも通りに独りで下校して、いつも通りに裏山へ遊びに行って、いつも通りそこで虫取りして、いつも通り家に帰って寝た。

 結局さ、イジメられてることに気付いちゃっただけで、俺にとってはこれが『普通』だったんだよ。

 何も変わらなかったし、変える気もなかった。

 俺はそのまま迫害されながら中学生になって、そこでも排除されながら卒業して高校生になった。さすがに高校生なったときには、免疫っつーの? それが付いてちょっとやそっとのことでは狼狽えなくなったね。

 でもよ、高校生にもなれば筋肉が付いて体も大きくなってるから、物を隠すとかじゃ済まなくて暴力に走ろうとするヤツらもいるんだよ。

 ある日、体育館裏に呼び出されてさ、行ってみりゃクラスメイトとか上級生とか他校の生徒が十人くらいで徒党を組んで俺を待ってんだ。

 それを物陰からこそこそうかがってた俺は、このまま手ぶらで行って袋叩きに遭うのも癪だったし、逃げるなんて考えもなかったからよ、体育館の屋根に上って、そこからそいつら目掛けてションベンを振りまいてやったんだ。

 壮観だったぜー。

 ラグビー選手みたいな屈強な体格をしたやつらが、女みてぇな悲鳴を上げながらションベンのシャワーから逃げ惑ってんだぜ?

 俺さ、自慢じゃないけど膀胱の大きさだけには自信があんだよ。限界まで尿を溜めりゃ五分間は出し続けられると思うんだ。それに噴射力にも自信あんだ。たぶん全力を出せば便器にヒビくらいは入れられると思うぜ、やったことはねぇけど。

 んで、俺は渾身の全力噴射をキッカシ五分間、そいつら全員にお見舞いしてやったんだよ。そいつらの制服は豪雨に打たれたみてーにずぶ濡れ、アンモニア臭で歪んだその顔にも、俺は容赦なくションベンをブッ掛けてやったね。

 その体育館裏小便散布事件以来、あいつに関わると熱々の尿をかけられるっつって、ちょっかいを出してくるヤツはいなくなった。実は内心で報復されんじゃねーかってビビってたから、ほっとしたもんだ。

 その代わり、俺は完全に無視されるようになった。

 油性マジックで机に落書きされるようなこともなくなったし、体操着や上履きを便器に突っ込まれることもなくなった。つっても俺は、机が落書きだらけだろうが、私物が紛失してようが大して気にしてなかったから、いつも通りっつーことには変わりなかったんだがな。

 そして、それからも『普通』の日々が続くと思ってた俺に、ある出来事が起きた。

 俺を忌避するような生徒たちの素振りをみて、『ミユ』っていうクラス委員の女生徒が変な義侠心に駆られたのか頻りに話しかけて来るようになったんだ。「おはよう!」とか「元気?」とか「今日の宿題やった?」とか、まるで仲の良い友人と交わす些細な日常会話みてぇによ。

 クラス委員をやるような子だったからよ、他人の救済が生き甲斐なのか、はたまた先生に唆されて嫌々だったのかは知らねぇが、事あるごとに俺に関わりを持とうとしてきた。

 その子がまた、ちょっと吃驚するくらい目鼻立ちが整ってたからよ、俺も悪い気はしなかったんだ。興味なさそうに曖昧な返事をしながらも、陽だまりみてぇにころころと笑って話しかけてくるミユの身体を、俺は毎日舐めるように観察してたんだ。

 え? 何のために、だって?

 そんなもん言わなくても分かるだろーが、馬鹿じゃあるまいし。

 ミユの存在は、味気のない俺の生活の良い香辛料になったんだが、香辛料とて使いすぎると害をなすっつーか、気付いたら俺はミユにベタ惚れだった。

 俺は毎晩、ミユのことを考えながら自涜に耽った。

 日に日に布団の周りには使用済みティッシュが山のように築かれていって、俺の部屋は栗の木林にいるみてーな生臭さが漂ってた。

 その臭いが体に滲みついちまったのか、じっとりと這うような視線を感じ取ったのか、そのどっちかだと思うが、時が経つにつれて話しかけるミユの笑顔が少しずつ引き攣っていった。話しかけられる回数も段々減っていった。それでも俺はそれらの行為を止めなかった。止められなかった。止めたら気が狂いそうだった。それくらいミユのことが好きになってた。いつでも視界に置いておきたかった。会えないときは頭に刻み付けた陽だまりの笑顔を見て満足するしかなかった。次第にそれでだけでは満足できなくなった。

 だから俺はミユの家の鍵を盗んだ。


               ◇


 彼は月に一度しか入浴をしません。

 彼は一週間に一度、それも気が向いたときにしか歯を磨きません。

 この噂が真実であるのかどうか私には分かりませんが、彼はこれらをすべて裏付けるかのような風采をしていました。

 彼が身に着けているカッターシャツは、皺とシミと汗とフケが濃厚に混じり合って薄茶色に変色し、四六時中、鼻を覆いたくなるほどの悪臭を放っています。

 髪はいつも強風が当てられているかのように乱れた蓬髪で、鼻先にまで垂れた前髪の隙間から、思春期の欲望を漲らせた瞳をぎらぎらとのぞかせています。

 下膨れた顔には火山のような吹き出物が連峰を築き、その最も際立った個所にある唇は、乾燥によって皮膚が割け血を滴らせています。彼には唇からあふれた血液を舐めとる嗜癖があるため、彼が口を開く度、歯垢だらけで黄ばんだ歯列に、桜草のような血の滲みが張り付いているのが見られます。


「お前らと口を利く気はないから」


 それが転校初日、自己紹介のために教壇に立たされた彼が、高慢な顔つきで言い放った科白でした。彼の容貌とその一言によって茫然自失の状態に追い込まれた教室を、彼は挑発的な目付きで一瞥し、見付けた空席へとずかずかと向かって行きました。

 自失から復帰した私がまず初めに思ったことはこうでした。

 ――これで私は解放される。

 ――彼が標的になり、私は解放される。

 そう思ってしまった私を浅ましいと糾弾することができる人がいるのなら、今すぐ私の目の前に連れてきてください。全力で謝罪します。私は自己の救済のみを渇望し、希求することしかできない汚らしい人間です。だから許してください。不潔で不遜な彼を見たとき、そう思ってしまった私を許してください。

 さて、許してもらえたでしょうか? 続けましょう。

 その後、担任教師が彼の名前、取って付けたかのようなプロフィール、転校前の高校を慌てて述べてホームルームは終了しました。

 彼の転校前の高校が、こことそれほど距離のない場所にあることを疑問にも思いましたが、そのようなことよりも、今日で開放されるという事実が何よりも私の心を占有していましたので、些末な疑問は蝉の一生のようにたちまち消え去っていきました。

 葉身を潤す朝露が葉脈を流れて末端部へと向かい、重力に引かれて地表へと落涙するかのような当然さで、不潔で不遜な彼はクラスメイトに目を付けられました。

 そして、地表に落ちた水分が地中へと浸透し吸収され、やがて蒸発して大空へと帰着する自然摂理のような超然さで、彼はクラスメイトから受ける種々の『行為』をことごとく無視しました。

 朝学校に来てあるべきはずの自分の机がなければ、彼はその何もない空間で平然と胡坐をかいて授業を受けました。小用に立っている合間に筆入れのなかに文房具が破壊されていても頓着せずに授業を受けました。靴が裏庭のドブ池から発見されても気にすることなくそれを履き、机のなかに給食の残飯が敷き詰められてあっても放置しました。体操服が盗まれていても制服のまま体育に出席し、人権という言葉を辞書で引き直そうかと悩むくらいの暴言が書き連ねられた手紙を受け取っても、一読してゴミ箱にシュートしました。

 彼がまったくの無反応であっても、最初のうちはクラスメイトたちも楽しんでいるようでしたが、それが一週間、半月、一ヵ月続いていくと彼らも興味を失ったのか構うことがなくなり、それどころか、吐き気を催すほど不潔な風体を維持する彼を忌避するようになり、それすらも気に止めていない彼に恐怖を抱くようになりました。

 彼が教室に入ると水を打ったかのような静寂に包まれ、廊下を歩けば歓談していた生徒たちは引き潮のように左右へと分かれました。

 勝者は間違いなく彼であり、敗者は自分たちであることをクラスメイトたちは忸怩たる思いを抱えて悟りました。

 そして、観戦者であった私は、試合終了とともに発表された次戦のカードを見て戦慄しました。

 私VSクラスメイト。

 そうです、再戦です。

 彼への攻撃が意味をなさないと知ったクラスメイトたちは、再び私をイジメの対象としました。

 朝学校に来てあるべきはずの私の机がなければ、ホームルームが始まる前までに空き教室へと走り、代用の机と椅子を運んできます。お花を摘みに行っている合間に筆入れのなかにあるお気に入りの薄桃のシャペーペンが真っ二つに折られ、マリーゴールドの香りがする消しゴムがカッターナイフによってズタズタに切り裂かれていたら、隣席の生徒に土下座をして小指ほどの鉛筆と消しゴムのカスを借りて急場をしのぎます。靴を裏庭のドブ池から発見するとその日は素足で家路に着きます。机のなかに使用済みの避妊具や生理用品が敷き詰められているのが分かると、人目を忍んでトイレへと流しに行きます。ゴミ箱に捨てるだけでは、再び入れられる恐れがあるからです。体操服が男子トイレに捨て去られていると、さすがにそれを使う気にはなれないので新しいものを注文します。そのため、品物が届くまでしばらくの間は体育の授業は欠席せざるを得ません。目を覆いたくなるような罵詈雑言が書き連ねられたお手紙を頂戴した場合は、それが私の評価なのだと真摯に受け止めます。

 クラスメイトから受ける様々な行為は決して教師らに知られてはなりません。露呈してしまうとすぐさま両親に連絡がいってしまうからです。もしそうなってしまうと、過保護な両親は私をすぐにでも転校させようとするでしょう。

 先ほど、私のイジメ観などと称して夢見がちで非合理な観念を長々と講じた手前、こうもあっさり真相を述べてしまうのも如何なものかと思うのですが、煩わしいので言っちゃいます。

 私は、自分自身の矜持を守るためだけに、イジメに遭っていることをひたすら隠しているのです。

 教職者である父と元教職者である母は、毎日笑顔で学校に向かい、笑顔で帰宅し、学校の出来事を笑顔で話している娘が、実はイジメに遭っているなど思ってもないでしょう。幼少期から珠のように可愛がって育ててきた娘が、イジメなんて卑俗なもの、しかもその中枢にいるとは夢にも思っていないでしょう。

 その両親を幻滅させたくない。というのもありますが、それより何より、私自身がイジメに遭っているという現実を認めたくないのです。イジメなんて下らないものに煩わされているなんて思いたくもないですし、思われたくもないので、私は毎日隠蔽工作に勤しんで現実を虚妄に包んでいるのです。

 それでもやはり、どうにもならない夜は、枕に顔を埋めて自殺計画を練り続けるのです。

 飛び降り自殺をするならばどこがいいでしょう。やはり学校でしょうか? それはあまりにも『普通』な気がしてどうも私にはしっくりきません。

 特急電車に飛び込むのはどうでしょうか? いえいえ、他人に迷惑をかけてしまうのも、どうも違う気がします。自殺を図るならばなるべく独りでひっそり死ぬべきです。

 そうだ!

 と私は布団のなかで手を打ちます。

 樹海で首を吊りましょう。

 輪を作った太いロープをピクニックバスケットに入れ、気軽に樹海へ向かいましょう。首を吊るのにピッタリな樹木を見付けたら、ささっと首を吊りましょう。そうすれば、この世とお別れです。

 それではみなさん、さようなら。

 そのような妄想に耽っている間に夜は明けて、私は笑顔で玄関先に立ち、

「行ってきます!」

 と元気良く母に言うのです。

 母も笑顔で、

「行ってらっしゃい」

 と言って、娘を地獄へ送り出すのです。




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