(1)エピローグ
去年の夏くらいに投稿したものですが、諸事情により一度削除したものを再投稿です。
「昨夜さ、急に目が覚めたんだよ」
教室に到着したなり自席に着いていた彼女のもとまで駆け寄ってきた彼は開口一番にそう言って、言うが早いか彼女が嘴を挟む猶予も与えず話を続けた。
「そういうのってあるじゃん。親に起こされたわけでもなくて、金縛りに遭ったわけでもなくて、なんか、こう……あ、いま起きなきゃって感じ。まぁ、昨夜のは、ただ単に尿意で目が覚めただけなんだけどさ」
彼はクシャッと顔を丸めて人によっては愛嬌を感じる笑みを浮かべ、起き抜けで登校して来たのだろう、使い古した箒のように無造作になった頭髪を豪快に掻き毟る。脂ぎった黒髪の一体どこから現れたのか分からないが、蛍光灯を鈍く照り返した彼の黒髪から白い粉が魔法のようにパラパラとこぼれ、彼女の机に点々と散布された。当事者の彼女は机に撒かれた魔法の粉をちらりと一瞥しただけでこれといった行動を示さず、それどころか不快な顔一つしないで彼の話に耳を傾けていた。
「そんでさ、いま何時だよって思ってさ、時計を見たわけよ。そしたら何時だったと思う?」
両手に納まるほどの白い箱を目の前に突き出され、この中にはなにが入っているでしょう? と矢庭に訊ねられたかのような傍若無人な彼の問い掛けに、彼女は気の利いた返答しようと、しばし頭を悩ませた。
時間の流れの体感が人それぞれで異なるように、彼女の思考時間は彼の待機時間よりも遥かに長かったようで、彼は彼女が口を開くのを待ちきれず礫のような唾を飛散させながら手振り身振りを交えて大袈裟に語り出した。
「午前二時! そう、草木も眠る丑三つ時だったんだよ!」
「草木が眠っている時刻に、あなたは目を覚ましたのですね」
話すことに夢中になっていた彼は、ようやく言葉を口にできた彼女のことなどまるで目に入っていないようだった。動作をさらに誇張させ、小躍りでもするかのように全身で臨場感を表現しだす。
「おおこれが巷で噂の丑三つ時か! って、催した尿意も忘れて妙に感激しちまってさ」
彼女は、朝っぱらから自分勝手に話題を進展させる彼のことをちっとも疎ましいと思わなかった。顔中に唾を浴びようとも机にフケを撒き散らかされようとも、幼少期から厳しく躾けられた品行方正な淑女のように動じない。それどころか彼を見つめる瞳に慈愛を充溢させている彼女は、幻想的な白昼夢に陶酔しているようでもあった。
「いやぁ、すぐに尿意のことは思い出したんだけど、俺、今までそんな時間に起きたことなかったからさ、すんげぇ感動したんだよ、尿意も忘れて!」
やたらと尿意を強調する下品な話しぶりに、周囲にいる女生徒たちが露骨に不快感を示して彼のことを睥睨した。無論、一緒にいる彼女も同類と見なされたようで、冷たく鋭い視線を四方八方からさんざと浴びせかけられた彼女は、さすがに肩を竦めて面伏せになった。しかし、あらゆることに無頓着な彼にとって世間の衆目など地を行く蟻と同等に意識するに値しないものだった。
これから佳境に入ると言わんばかりに肩を怒らせ、頭から生産する白粉の量を増やし、口角から多量の泡を射出した。その飛沫が萎縮していた彼女の頬に数粒かかる。すると、視線を気にして萎んでいた彼女から見る見るうちに羞恥が蒸発した。空を目指す大輪のように背筋を伸ばし、瞳に厚い情愛の膜を張って彼を見つめ返した。
「そのまま丑三つ時を満喫したかったんだけど、なんにしても、このはち切れんばかりの尿意をどうにかしようと思って、俺は寝床から起き上がったんだよ」
日頃の不摂生が祟ったのだろう、ぶくぶくと肥った蛭のような舌先で彼は乾燥した唇をぺろりと舐めた。
「便所に向かうときに居間を通り抜けるんだけどさ、俺んち掃除とか片付けとか何もしてねぇからすげー汚くて狭いだろ。だから両親は居間で布団敷いて寝てるんだよ。だもんで、電灯を点けて親を起しちまうのも忍びなかったからよ、俺は、こう、暗闇のなかを手探りで進んで行ったんだよ」
首を亀のように引っ込めて、彼は目の前にある藪を掻き分けているかのような身振りをする。
「そんで、汚ったねぇ居間をやっとの思いで抜けると、今度はビルとビルの合間にある狭路っていうの? ポリバケツのゴミ箱がどんと置かれててさ、そこからあふれた生ごみが散らかってて異臭がするような感じ、それとほとんど変わらないような短い廊下があるんだ。そこがまた、馬鹿みてぇに狭くてよ、家族とすれ違うときはお互いに体を斜めにしなきゃ通り抜けられねぇんだ、これが」
蛭の粘液によってぬらっとした口唇を嬲るように上下させ、彼は続ける。
「といっても、生まれてからずっとこの家に住んでいるわけだし、住めば都ともいうじゃん? 狭かろうが汚かろうが暗かろうが慣れたもんでさ、俺はいまにも暴発しそうな股間を押さえて前かがみになりながら、薄暗い廊下を進んで行ったのよ。そしたら、さ――」
教室に来て以来、人懐っこい笑みを浮かべていた彼の面相に初めて緊張が奔った。
「廊下の奥に、誰かいるんだよ」
彼の息継ぎを見逃さなかった彼女は透かさず、「それはご家族ではないの?」と有体な指摘をしようとしたが、その機先を制するようにして彼はギラギラとした目を見張り、僅かに抑揚を失った語調で再び話し出す。
「長くもない廊下なのにさ、どうしてかそいつの顔には影がかかってて、はっきりとしないんだよ。直感で俺は、ヤべぇと思ったんだ。ああ、ヤべぇ、こんな夜中にこんな場所で、しかも相手の顔もみえなくて……んで、なによりもヤべぇと思ったのはさ、前かがみの姿勢のままじゃ、この狭い廊下をすれ違えないってことだったんだ。そうして立ち止まっている間にも、俺の膀胱には体中の水分が集まってくるわけよ。『我ら、悪しき膀胱の箍から今解き放たれん』って感じにさ、こう、ずん、ずんって突端を目指して進軍して来てるんだよ、尿意の軍隊がさ。俺はもう二の足を踏んでいる時間なんてないって思ってさ、廊下の先にある便所に向かって進んでいったんだ。もちろん、前かがみで、だぜ。もしそのとき、背筋を伸ばしたら、恐らく奴らは進行を続け望み通り外界に放たれて、廊下に膨大な水溜まりをこしらえたんだろうな」
彼は実際に放尿しているかのようにブルブルと全身を震わせた。
「俺は急いだ。顔のみえないそいつは、まだ廊下の先で突っ立ってるだけだが、もしこちらに向かって歩き出してきたら、すれ違うために俺は直立しなきゃならなくなる。そうなりゃ、辺りは水浸しだ。それだけは回避したい一心で俺は急いで進んだんだ。幸い、そいつはその場に立ちっぱのままだったから、廊下の途中ですれ違わずにすんで事なきを得たんだ」
そこまで捲くし立てるように喋り続けた彼は、口先が疲れたのか、ふぅ、と息を吐いた。ようやく隙を衝くことのできた彼女は、上目で彼を見つめながら訊ねる。
「それから二人はどうなったのですか?」
彼は、話しかけていた人物が彼女であることを今初めて知ったかのように小さな驚嘆を瞳に宿し、それを共有するようにして幾許か彼女と見つめ合う。やがてその行為の面映ゆさに赤面した彼は、突き放すようにそっぽを向いて、虫の羽音のように小さな呟きを残して自席へと向かっていった。
残された彼女が机に散乱した彼の白い粉を手で掃いてティッシュに包んでいると、正面の席の女生徒がやって来て彼女を見下し、押し殺した声でこう言った。
「……あんたたち、気持ち悪い」
今日も世界は順調に彼らを排斥するようだが、彼らはもう寂しくはなかった。




