不幸せな黒い猫
そのメスの黒猫は不幸であった。
彼女が人の前を通り過ぎるだけで
「不吉だ!不吉だ!」
と罵られ、他の可愛らしい猫とは違って人間に愛でられ美味しいご飯と暖かい住まいを手にすることもなくただ孤独に寒空の下雨の日も風の日も彼女はただ生き残るためにゴミの山から人間のたっぷり残した残飯を漁り、食い散らかすことでまた気味悪がられ、人間に離れられていったのだった。
不幸を運ぶといわれる彼女こそが誰よりも不幸なのである。
だから彼女は人間が嫌いであった。
この大地を支配する彼らにとって彼ら以外の動物の存在はいいように使われて、もてはやされて、飽きたら棄てられる。
自然を守ろうと訴える人間すら結局は自分達の利益と種族の延命のことしか考えていないのであろう。
そんな種族のために我々は迫害を受けなければならないと思うと彼女はこの先生きていて何の意味があるのだろうと疑問に思うのであった。
ある日、猫は夜道を歩いていた。
人間の住処が建ち並ぶその場所は、それでもまだ自然の息を残していて、機械的な街並みと比べると比較的静かな場所であった。
歩いているうちに彼女は空き地を見つけた。
彼女はそこに入ってそのまま真っ直ぐ進み、ちょうど真ん中ぐらいのあたりに立ち止まり、大あくびをしながら月の光を浴びていた。
そういえば近頃は月の光を浴びれる場所がめっきり少なくなってしまった。
これも人間たちの巨大な鉄の城がまるで空までをも支配するかのようにそびえ立っているせいであろう。
そうやっているうちにふと気が付くと、彼女は背後に人間の気配を感じた。
振り返り背後を確認すると、そこには黒の学生服に身を包んだ少年がいた。
少年はしばらく立ち止まったまま黒猫を見つめ、やがて彼女に近付いて行った。
彼女は全身の毛を逆立て、彼が近付く度に後退りをして警戒の意を示した。
しかし少年は歩みを止めず
「大丈夫だよ、恐がらないで」
と優しい笑顔とともに彼女に語りかけた。
彼女は後退りをするのをやめたが、警戒は解かずにもし何かしようものなら彼女のその爪で攻撃をしようと考えていた。
少年は彼女のいるすぐ横にあるがれきのブロックに座り込んだ。
「君は僕の言ってることがわかるかい?僕には君の思っていることが分かるよ」
笑顔のまま、少年はそう言う。
確かに言われてみれば彼女には人間の言葉など理解できない。
理解できないはずだが何故だかこの少年の言っていることだけは理解できる。
「生まれつきなんだ。僕、誰とでも会話を交わすことができるんだよ。
それは僕の言葉が通じるここ日本に住む人間はもちろん、他の国に住んでいる人、それに蛙や鳥、虫に魚に蛇、君のような猫にだってこうして語りかけることができる。
と言っても心の内がすべて読めるわけじゃなくてね、君が独り言のように物思いにふけっていたりや必死に意思を表示しようとしたりしているときには、まるで君が人の言葉をしゃべっているかのように、その声は僕の耳に届くんだよ。」
少年はそう言って彼女の頭に手をやる。
「苦しいんだろう?
黒猫が前を横切ると不幸になる、か。
一体だれがそんなことを言い出したんだろうね?
人の噂も七十五日とは言うけどきっと七十五日を過ぎてからは噂という物は真実味をもったものに変質するんだろうね。
そして真実味を持ちすぎた噂は都市伝説、伝説となる。
人は昔から伝説を恐れて、伝説が真実である可能性に期待するんだよ。」
彼女には少年の言っていることが分からない。でも解かる。
彼女には人間が何を話しているかは分からないが、人間が言葉によってありもしないことを広め、それが結果的に真実として伝わっているということは解かっている。
人間というのは自分に都合の悪い相手を敵視して、言葉が通じないが故に良いように相手をいたぶるものだ。
「確かに君の言う通りかもしれないね。
人間は昔から作り話が大好きなんだ。
その作り話の中にはたくさんの“敵”が登場するんだ。
だから噂話の中で人間とは別個の存在であり、それに夜の闇を象徴する君たち黒猫を“敵”として思うのは当然の心理なのかもしれないね。
でも物語に登場する“敵”というものは何も全員が悪というわけではないんだ。
中には物語から否定され続けながらも自分の目的や信念を貫く、かっこいいダークヒーローもいるんだよ」
そういって、少年は彼女の頭に乗せていた手で、そのまま彼女を頭から尻尾の付け根にかけて撫でてやる。
多少のくすぐったさがあったが、心地よくなった彼女は背筋を伸ばしてあくびをする。
このとき彼女は考えていた。
自分が物語の“敵”として扱われているなら、味方は誰だ?
基本猫という動物は仲間意識があったところでそれは結局自分の身を守るために簡単に破たんしてしまう。
我々は好きな時にご飯を食べて、好きな時にあそんで、好きな時に寝ていられればそれで満足なのだ。
「それは人間だって同じさ。
僕達の中にも簡単に裏切ってしまう人はいるしみんな本当は楽をして過ごしたいんだよ。
でも君たちの中にも、必ず助けてくれる存在はいるだろう?
人間だって何も皆が動物に冷たいわけじゃない。
人間の中にもきっと動物を助けてくれる人はいるよ。」
確かに、稀にとはいえ、嫌われ続けてきた彼女にも優しくしてくれる者人間はいた。
以前彼女は飢えて死にそうになっている時に人間に助けてもらったことがある。
その時彼女はもう自分は死ぬ運命なのだろうとたかをくくっていた。
どうせ死ぬなら自分の大好きなきれいで暖かい場所でと思い、彼女が死に場所として選んだのは広い花畑であった。
だがそこで、彼女の状況を察したのか、ピクニックをしている人間の一家の横を通り過ぎようとした時、幼い子供が彼女に自分の弁当の一部を分け与えたのであった。
そのおかげで彼女は生き延びることができたのだった。そのほかにも道端で意味もなく頭を撫でてくれた少女だったり、公園のベンチで言葉も通じないのに会話を交わした老婆だったりと、その一日一日の中での一時の出来事とは言え、彼女は数えきれないほど様々な人間から暖かさをもらってきた。
「僕の言いたいこと、わかってもらえたようだね。
それじゃあ僕はここで失礼させてもらうよ。
また、会えるといいね。」
そういって少年は立ち上がり、彼女に背を向けて歩き出した。
彼女は考えた。
猫においても本能のまま動く者もいれば仲間を助けに入る者もいる。
それならば人間にも悪い人間、良い人間、いて当然なのではないだろうか。
そう思えば、人間をそこまで嫌う必要も無いのではないだろうか。
むしろ彼女はそのように物語における“敵”すらも助ける人間のような、ダークヒーローに対する強い憧れを抱いていた。
そこで彼女は草むらに小冊子のようなものが落ちていることに気がついた。
先ほどの少年が落としたものであった。
彼女はそれを口にくわえ、少年を追いかけようと走った。が、このあたりの道は入り組んでいて、少年がどこに行ったかわからない。
いくら彼女の眼が夜闇すらも見渡せるからといって、壁越しに少年を発見することはできない。
それでも彼女は走った。
嫌われ者の自分に笑顔で優しく接し、嫌われ者の自分に優しい人間がいることをその存在をもってしらしめ、嫌われ者の自分の気持ちを理解してくれた。
そんな彼に、ダークヒーローなんかじゃない、自分にとっての立派なヒーローに恩返しがしたかったのだ。
そうして彼女はやっとの思いで彼を見つけた。
だがすでに遅かった。
彼は自宅と思われるマンションの自動ドアがいたときに、その中へ入っていってしまった。
そのマンションは5階建てというそこまで大規模なものではなかったが、猫の彼女にとっては随分と大きなものに見えた。
塀伝いに家の屋根に上るのとはわけが違う。
彼女は悔んだ。
もし自分が人間だったらこのマンションに入ることができるのに。
小冊子には少年の写真も載っているので此処にすむ誰かに話すことができればきっと少年の部屋までたどり着けるのに。
彼女は悔んだまま泣き続けた。
次の朝、彼女が目を覚ますと、マンションの目の前に倒れこんでいた。
彼女は起き上がって一瞬戸惑いを見せた。
だが、しばらくして決意を決めた。
ちょうどその時、少年がマンションから出てきた。
「あの――」
その黒髪の少女は幸せであった。