マーガレット 〜一輪の花から始まった両片思い〜
◇
「本日もスターフライツをご利用いただき、ありがとうございました。皆様のまたのご搭乗を、心よりお待ちしております」
夜の帳が下りた空港。客室乗務員の杏は、いつも通り完璧な微笑みを顔に張り付かせ、最後のお客様を機内から見送った。カチリとドアが閉まり、今日のフライトが完全に終了する。
フライトログをまとめ、制服のシワを伸ばして一息ついたところで、給湯室のカーテンが開く。
「お疲れ、あんず。今日もノーエラーだな」
入ってきたのは、お揃いの紺色の制服に身を包んだ、副操縦士の航だった。肩の金色の三本線が、機内のライトを反射して眩しく光る。同期の中で最も早く機長昇格へ王手をかけている、自慢の、そして――杏が数年間ずっと片思いをしている相手だった。
「お疲れ様、航。そっちこそ、今日の着陸、今までで一番滑らかだったんじゃない?」
「まあな。お前がギャレーでコーヒーこぼさないように、いつもより丁寧に接地してやったよ」
「何それ、嫌味? 私がトレイをひっくり返したのなんて、新人の頃の1回きりなんですけど!」
ぷっと膨れる杏を見て、航は「くくっ」と意地悪そうに、でもどこか愛おしそうに目を細めて笑う。この遠慮のない距離感。何でも言い合える「最高の同期」。
だからこそ、杏はこの居心地のいい特等席を失うわけにはいかないのだ。
フライトの片付けを終え、2人で空港のロビーを歩く。私服に着替えた杏は、いつものように小さくため息をついて見せた。
「あーあ。今日も素敵な出会いはゼロ。ねえ航、誰かいい人紹介してよ。私、今度こそ本気で彼氏欲しいんだけど」
これは杏の免罪符だ。航を好きだという気持ちを悟られないために、あえて「彼氏募集中」の看板を掲げてカモフラージュしている。
航はポケットに両手を突っ込んだまま、呆れたように鼻で笑った。
「また始まった。お前、口を開けば彼氏欲しいって言う割に、いざ紹介しようとすると『あー、なんか違う』ってすぐ断るじゃん。理想高すぎなんだよ」
「高くないってば! 普通に仕事ができて、一緒にいて楽しくて、話が合う人。それだけよ!」
「それが高いって言ってんの。……大体、お前の理想に合う男なんてそうそういないぞ?」
「はいはい〜」
杏はわざとらしく肩をすくめて歩調を速める。
(いるわけないじゃん。私の理想のハードル、目の前を歩いてるあんたのせいで、とっくに限界まで上がってるのよ!)
そんな時だった。
夜遅くまで開いている空港内のフローリストの前を通りかかったとき、杏の足が、自然と止まった。店先のライトに照らされて、白く可憐な花が揺れている。
「……あ」
「ん? どうした」
航が足を止め、杏の視線を追う。
「私、この花が一番好きなんだよね」
「へえ、なんで?」
「……花言葉が素敵だから。絶対に教えないけどね」
杏は振り返り、航に向かって悪戯っぽく、少しだけ切なく微笑んでみせた。
(教えられるわけがない。『心に秘めた恋』――それが、このマーガレットの花言葉。)
(航。あんたを一生、好きでいるよ)
そう言って笑う杏を見つめる航の瞳が、わずかに揺れた。
視線が絡み合う。静まり返った空港の片隅で、マーガレットの甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐった瞬間、2人の脳裏には同時に、数年前の「あの日」の記憶が鮮やかによみがえっていた。
それは、まだ2人が入社2年目。
「これ、なんの花?」
という、杏の一言から始まった日だった――。
◇
それは、まだ2人が入社して2年目の、春の終わりのことだった。
当時の杏は、今のような「完璧なCA」には程遠く、覚えることの多さとプレッシャーに毎日必死に食らいついていた。仕事だけでなく、プライベートでも少し落ち込むことが重なり、心身ともに限界を迎えていたある日のフライト後。
すべての乗客が降りた夜の空港ロビー。誰もいないベンチの隅で、杏はついに堪えきれなくなって涙をこぼしていた。
情けない。同期のみんなはどんどん一人前になっていくのに、自分だけが取り残されているような気がして、一度溢れた涙は止まらなかった。
「……おい」
不意に上から降ってきたぶっきらぼうな声に、杏はビクッと肩を揺らした。慌てて涙を拭って見上げると、そこには同じくまだ制服を着慣れていない、同期の航が立っていた。手には、なぜか空港の片隅にある小さな花屋のビニール袋を握っている。
「航……。なんで、まだいるの」
「忘れ物して戻ってきただけ。……お前、何泣いてんだよ。ブサイクな顔がさらにひどいことになってんぞ」
「うるさいな……。今、放っておいてよ」
いつも通りの口の悪さに、杏は顔を背けた。こんな情けない姿、一番負けたくない良きライバルである航に見られたくなかった。
しかし、航は立ち去るどころか、フッと小さくため息をつくと、杏の隣にドサリと腰を下ろした。そして、手元にあったビニール袋から、1輪の白い花をガサゴソと取り出す。
「ほらよ」
差し出されたのは、細長い茎の先に、白い花びらを綺麗に広げた、素朴で可憐な1輪の花だった。
「え……?」
杏は涙で濡れた目を丸くした。差し出された花と、航の顔を何度も見比べる。
「……ありがと。ねえ、これ何の花?」
「さあ? 花屋のオヤジに『今の季節のオススメ』って言われただけ。なんかお前、元気ないからさ。これでも見てシャキっとしろ」
航は耳の付け根を少し赤くしながら、ぷいっと気まずそうに反対側を向き、「女に花贈るとか、ガラじゃないんだけど」と小声でブツブツ文句を言っている。
でも、その不器用な優しさが、冷え切っていた杏の心をじわじわと温めていく。自分のために、あのぶっきらぼうな航が、慣れない花屋に1人で入って花を選んでくれた。その事実が、たまらなく愛おしかった。
ドクン、と胸の奥が大きく跳ねる。
(あ、私、航のことが好きだ……)
ただの同期だと思っていた男の子が、一瞬にして「1人の男性」に変わった、恋に落ちた瞬間だった。
その夜。
杏は航からもらった1輪の花を、部屋の机の1番目立つ場所に大切に飾った。
そして、スマートフォンの検索画面に「白い花 春」と打ち込む。画面に表示されたその花の名前は――『マーガレット』。
何気なくスクロールした画面に、その花言葉が目に入った瞬間、杏はベッドの上で息を呑んだ。
『マーガレット:花言葉――心に秘めた恋』
画面を見つめたまま、杏の胸に甘酸っぱくて、少しだけ痛い感情が込み上げる。
航はきっと、花言葉なんて何も知らずに、ただ「今のオススメ」と言われて買ってきただけ。
「……ぴったりじゃん」
杏はベッドにゴロンと寝転がり、天井を見つめた。
航とはこれからも、同じ航空会社で一緒に上を目指していく仲間だ。もしこの気持ちを伝えて、気まずくなって、今の距離にいられなくなったら耐えられない。
(同期のままでいたいから。こう、あんたへのこの気持ちは……この花言葉通り、一生秘密ね)
こうして、杏の長い長い「心に秘めた恋」が、1輪のマーガレットと共に静かに幕を開けたのだった。
◇
―航視点―
「……おい、杏。置いてくぞ」
前から降ってきた航の声に、杏はハッと我に返った。
空港の花屋の前。マーガレットを見つめながら数年前のあの日へトリップしていた杏は、慌てて歩調を速める。
「ちょっと、航、歩くの早すぎ!」
「お前が急に立ち止まるからだろ」
杏が航に追いつき、再び二人は並んで歩き出す。杏は平静を装いながら、心の中で小さくため息をついた。あの1輪のマーガレットから、もう何年が経っただろう。今や2人は社内でも一目置かれる一人前のペアだ。
しかし、杏が知らない航の「裏の顔」があった。
航は数年前、杏があの1輪の花をまるで世界一の宝物かのように嬉しそうに抱えて帰ったあの日から、彼女のことがずっと好きだった。
杏が同期の気安さで「あー、彼氏欲しい!」と口にするたびに、航は内心では生きた心地がしていなかった。 これまで杏に男の影が見えようものなら、徹底的に対処してきたのだった。
半年前、他部署のイケメン整備士が杏をデートに誘おうとしていたときは、さりげなくその整備士に近づき、缶コーヒーを握らせながら吹き込んだ。
『杏? あいつ仕事に関してはマジでストイックだから、中途半端な覚悟の男は一瞬で冷めるよ。付き合うのはさすがに無理だと思うなぁ』
また数ヶ月前、グランドスタッフの男が杏に連絡先を渡そうとしていたときも、パイロットの威圧感で、男が声をかける前に諦めさせた。
杏の理想のハードルが高すぎると風潮し誰にも付け入る隙を与えないために。
そんな航の牽制を知る由もない杏は、改札の手前でぽつりと愚痴をこぼした。
「それにしても、私って本当に男運ないのかなぁ。この前もいい感じになりそうだった整備士の人、急に態度がよそよそしくなっちゃったし……私に魅力がないのかな」
「さあな。お前の見る目がないだけだろ」
航はポケットの中で小さくガッツポーズをしながら、平然とした顔で言い放つ。
――しかし、そんな航の余裕も、この数日で一気に崩れ去ることになる。
一つは、航の「海外拠点への長期赴任、および次期機長昇格訓練生への選出」が決まったこと。期間は数年。もう杏のそばで防衛戦を張ることはできなくなる。
そしてもう一つ。
まさにあの夜、空港の花屋の前で杏に「花言葉が素敵だから。絶対に教えないけどね」と言われた、その直後のことだ。
家に帰った航は、どうしても杏の笑顔が頭から離れず、自室のベッドでスマホを握りしめ、生まれて初めて「マーガレット 花言葉」と検索した。
画面に表示された文字は――『心に秘めた恋』。
航はスマホを持ったまま絶句した。
(あいつ、誰かに『恋』をしてるのか……? だから、俺がどれだけ男を追い払っても、誰とも付き合わなかったのか?)
まさか、その相手が自分だとは夢にも思わない航は、激しい焦燥感に駆られる。
そんな中で迎える、人事の発令。杏は目の前にくると「完璧な同期」としての満面の笑顔で言った。
「航! 聞いたよ、すごいじゃん! エリート機長様の誕生だね、おめでとう!」
寂しそうな色を一切見せない杏の態度に、航の胸には、決定的な痛みが広がる。
(やっぱり、あいつの『秘めた恋』の相手は、俺じゃない。俺がいなくなっても、あいつはこんなに平気な顔をして笑ってる。……でも、だったら、海外に行く前に、ちゃんと玉砕して諦めをつけよう)
航は、ある決意を固める。
すれ違ったまま、二人の関係に強制的なタイムリミットが刻一刻と迫っていく。
◇
航の海外赴任を目前に控えた、2人のラストフライト。
皮肉なことに、その日のフライトはこれまでにないほど完璧だった。杏が機内の状況を完璧にコントロールし、航がそれに応えるように一点の狂いもない滑らかなランディングを決める。コックピットと客室、離れた場所にいても、お互いが次にどう動くかが呼吸のように分かった。
(……あぁ、本当にこれで最後)
無事に成田へ着陸し、乗客を見送ったあと、給湯室の片隅で一瞬だけ目が合った。いつもなら軽口を叩き合うはずの2人だったが、今日ばかりは、どちらからともなく小さく頷くだけに留まった。寂しさを言葉にしてしまえば、プロとしての仮面が剥がれ落ちてしまいそうだったからだ。
すべての業務を終え、私服に着替えて誰もいなくなった夜のオフィス。
「あんず」
静まり返ったオフィスに、低く通る声が響いた。
振り返ると、私服のジャケットを羽織った航が立っていた。その手には――あの夜、空港の花屋で見つめていたものとは比べ物にならないほど大きな、見事なマーガレットの花が抱えられていた。
「航……? 何、その花」
杏が呆然と呟くと、航は少し決まずそうに視線を泳がせながらも、まっすぐに杏の元へ歩み寄り、その白い花束を差し出した。
「これ、今までのお礼。お前が一番好きだって言ってたろ」
腕の中に収まった、ずっしりとしたマーガレットの重み。清楚な白い花びらが視界を埋め尽くし、あの甘い香りがオフィスいっぱいに広がる。
数年前、自分が恋に落ちたあの日、航が不器用に手渡してくれた一輪の花。それが、こんなに大きな花束になって自分の元へ帰ってきた。
杏の胸の奥から、せき止められていた感情が涙となって溢れそうになる。でも、杏は必死にそれを堪え、消え入りそうな声で、だけど最高の笑顔を作って微笑んだ。
「……ありがとう。すごく嬉しい」
航の目を見つめる。これが、同期としての最後の会話だ。
「ねえ、航。あの夜も言ったけど……私、この花言葉は、やっぱりあんたに教えないまま見送るね。海外に行っても、身体に気をつけて、世界一かっこいい機長になってね。頑張って」
それが、杏なりの最大の決別だった。
彼を困らせたくない。彼の輝かしい未来の邪魔になりたくない。だから、この恋は綺麗な『秘密』のまま、心の中に永遠に鍵をかけて仕舞い込む。
「じゃあね、こう。今までありがとう」
杏は、航が何かを言いかける前に、くるりと背を向けた。
これ以上ここにいたら、泣き崩れて「行かないで」とすがってしまいそうだったから。
ヒールの音を響かせながら、誰もいないオフィスの出口へと、杏は早足で歩き出す。
心の中で、何度も『さようなら』を繰り返しながら――。
(――でも、本当は全然平気なんかじゃない)
寂しさと切なさで胸が張り裂けそうな杏は、そのまま真っ直ぐ帰る気になれず、大きな花束を抱えたまま、夜の空港の最上階にある展望デッキへと足を運んでいた。
夜風が吹き抜けるデッキには、もう人影はほとんどない。
目の前に広がるのは、漆黒の闇の中に、宝石を散りばめたようにきらめく滑走路の誘導灯。そして、遠くへ飛び立っていく飛行機の光。
「……うそつき。世界一かっこいい機長になってね、なんて、よくあんな嘘言えたな、私……」
1人きりになった瞬間、張り詰めていた糸が切れ、杏の目からポロポロと涙が溢れ出す。花束に顔を埋め、声を押し殺して泣いていると、背後から激しい足音が近づいてきて――。
「――杏!」
夜風を切り裂くように、息を切らした航の声が響いた。
驚いて振り返った杏の手首を、航の強い手がガシッと掴む。
「航……っ!? なんでここに、」
「お前が、オフィスであまりにもあっさり引き下がるから……っ!」
航は肩で息をしながら、杏の手首を掴んだまま一歩も引かない。
「お前がこの前、花屋の前で『花言葉が素敵だから教えない』って言ったあの夜、俺がどんな気持ちだったか分かってんのか? 気になって気になって、家に帰って速攻で調べたんだよ」
「……え?」
「『心に秘めた恋』だろ」
夜風に消えそうな、でも確かな航の声に、杏は目を見開いた。
「調べて絶望した。お前が何年も『彼氏欲しい』って言いながら誰とも付き合わなかったのは、誰かに、死ぬほど一途に片思いしてるからなんだってな。あいつの胸の奥には、俺の入れない場所があるんだって、気が狂いそうだった。お前が『彼氏欲しい』って言うたびに、その“秘めた相手”に先を越されたくなくて、どれだけ俺が裏で必死に対処してたか知らねえだろ!」
「対処って……何それ……」
滑走路の光に照らされながら、航は白旗を上げるようにすべてを白状した。
「半年前の整備士も、数ヶ月前のグランドスタッフも、全部俺が裏で牽制して諦めさせたんだよ! お前の理想のハードルを上げ続けて、誰も付け入る隙をなくしてたつもりだったのに……。結局、お前は俺のことなんてこれっぽっちも見ちゃいない。だから、海外に行く前に、せめてちゃんと振られて、このクソみたいな片思いに踏ん切りをつけようと思ってその花買ったんだよ!」
航の、あまりにも不器用で、愛おしすぎる独占欲の全貌。
きらめく誘導灯を背景に、杏は涙を流しながらも、耐えかねたように泣き笑いの声を漏らした。
「……最低。こう、あんた本当に最低……っ」
「あぁ、最低で結構だよ。笑うなよ、こっちは命がけで――」
「バカじゃないの!? 私の理想のハードルがバグり散らかしてるのはね、数年前から、あんたのせいでしょ!!」
夜の展望デッキに、杏の叫びが響く。
「気づくの遅すぎ! 鈍感! 私の『心に秘めた恋』の相手は、数年前に何の花かも知らずにマーガレットを押し付けてきた、目の前のバカ男のことに決まってるじゃん……!」
「……え? 俺? お前が好きなの、俺なのか?」
「そうだよ……っ! ずっと、ずっと大好きだった。同期だから、離れたくなくて、ずっと隠してたのに……!」
杏が両手で顔を覆って泣きじゃくると、航は手元の花束をベンチに優しく置き、杏の身体をその大きな腕で、壊れそうなほど強く、強く抱きしめた。
滑走路のきらめきが、2人の涙を優しく照らす。
「あんず。数年、待ってろ。絶対、機長になって戻ってくる。……だから、もう『彼氏募集』とか、他の男の前で言うなよ」
「言わない。……もう、必要ないんだもんね?」
数年前、不器用な一輪の花から始まった、2人の「心に秘めた恋」。
それは今、夜の滑走路を見下ろす美しい展望デッキで、誰にも隠せない、嘘偽りのない『真実の愛』へと変わった。
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