カモミールの湯船と温かな食卓
「良い感じにまとまったね。もう遅いし、今日は解散しようか」
辺境伯のお屋敷での話し合いを終え、私は家族と一緒に家まで歩いて帰った。
モンス男爵家では当たり前の徒歩帰宅だが、初めて見た方々には衝撃的だったようだ。私たちが帰宅する様子を見て固まっていた。ちなみに神殿の往復に使った馬は、辺境伯からの借り物である。
モンス男爵家の徒歩帰宅は、まず父が母を横抱きにし、兄が私をおんぶすることから始まる。ベントスお父さんは目を見開いた。次に、父と兄は足に強化魔法をかける。イグニスお母さんが口笛を吹いている。最後に「それではまた」と父が挨拶をし終えたら、父兄は全力でその場を離脱する。ソロご夫婦は小さく手を振っていた。
全速力で走る兄。背負われた私は強い風を受けて、涙と涎で顔がグチャグチャになる。父も相当なスピードで走るが、風魔法で身体の周りの気流を操るため、母の顔は美しいままだ。
前世の子ども時代には当たり前の光景だったが、魔法の修練を積んだ過去を経た今の私には分かる。父は天才だ。
全力疾走しながら強化魔法と風魔法、索敵魔法を同時に操るには、潤沢な魔力、魔法を構成する知識、魔法を維持する集中力、あと純粋な体力が必要だ。生まれ持った魔力と積み上げた知識、たゆまぬ訓練。どれが欠けても成立しない、ある種の神業なのだ。
それを日常的に平然とやってのけ、道中で母へ愛を囁いている。父は天才だ。
「ほら、着いたぞ。さっさと降りろ」
私が兄の背中に貼り付いて考え事をしている間に、家に着いたようだ。我がモンス男爵家の屋敷は森の傍らにある。ちなみに、私が徒歩で行ける範囲に隣家はない。陸の孤島だ。
「ダリス兄さま、ありがとう」
生け垣の切れ目で立ち止まった兄が背中を左右に大きく揺らすので、私は渋々ながら降りて玄関まで歩いた。私が玄関扉に辿り着く前に、扉は内側から開いた。
「おかえり、マーナ。大変だったみたいだね」
母譲りの茶色の巻き毛を揺らし、温和な笑顔で次兄が迎えてくれた。
「ただいま、レクス兄さま!」
私は助走をつけて地面を蹴り、レクス兄に跳び付いた。
「寄宿舎から戻ってきてくださったのですね!」
レクス兄さまは危なげなく私を受け止めて抱きしめてくれる。
「マーナの大人への一歩のお祝いだからね」
レクス兄さまは私の頭を撫でながら屋敷へ入っていき、浴室の前で私を下ろしてくれた。
「マーナ、体を温めておいで。お湯にカモミールを浮かべておいたよ」
「嬉しい! ありがとう、兄さま!」
カモミールは去年の初夏に母と摘んで、乾燥させておいたものだ。量があまりないので、特別な日にだけ使う。私はたっぷりの泡で全身を洗い、優しく香る湯船にゆっくり浸かった。
ほかほかと湯気を上げた私が食堂に入ると、食卓には母の手料理が並んでいた。
「年始の魔力測定会のお祝いよ。大人への一歩、おめでとう、マーナ」
母は私をぎゅっと抱きしめてくれる。母が腕を放すと、父が抱き上げてくれた。
「おめでとう、マーナ。素敵な魔法をたくさん覚えていこうな」
父は子どもたちが座るベンチまで運んで、兄たちの間に下ろしてくれる。
「「おめでとう、マーナ」」
両側から兄たちが頭を撫でてくれた。両親も食卓に着き、七歳まで私を見守り育んでくれたことへの感謝をクレール神へ伝える。
「さぁ、マーナ、たくさん食べてね」
食前の祈りを終えると、母はにっこり笑う。父、母とダリス兄さまはワイン。レクス兄さまと私はぶどうジュースで乾杯した。
改めて食卓を見渡すと、私の好物ばかりだった。ひき肉のトマト炒め、カボチャのポタージュ、鶏肉の香草パン粉焼き、チーズの入ったパン、デザートには木苺のタルト。普段は甘めな子どもっぽい味付けの食事を嫌がる兄たちも、今日は何も言わずに食べてくれる。
温かい食卓でお腹も心も満たされた私は、早々に子ども部屋へ引き上げることにした。
「父さま、母さま、ダリス兄さま、おやすみなさい」
三人の頬へキスをして、キスを返してもらう。レクス兄さまと手を繋いで子ども部屋へ戻った。
一つきりの子ども部屋を歳の離れた三きょうだいで使っている。部屋が狭くなるので家具は最小限だ。机と本棚はダリス兄さまのものだけ。寝台も二つだけ。今はレクス兄さまがリュグム魔法騎士学校の寄宿舎へ入られているので不便はない。
私はすぐさま寝台へ飛び込むと、枕に顔をすりつける。すると、母が枕の中に入れてくれるラベンダーのポプリがふんわりと香った。私が寝台で枕を抱きしめていると、寝台に腰掛けたレクス兄さまが頭を撫でてくれる。
「今日は、マーナの寝台にお邪魔させてね」
「もちろんよ」
私は枕を抱えたまま壁際に寄った。
「これで眠れる?」
「十分だよ」
レクス兄さまは私の横に寝転がると、肘を枕にして私の方を向いた。レクス兄さまは器用に両手両足を使い、足元に畳んであった水鳥の羽がたっぷり入った布団を二人の上に掛けた。
「兄さま、ぎゅうってして」
甘えてみると、レクス兄さまは私を引き寄せてくれた。私は胸に耳を当て、レクス兄さまの規則正しい心音を聞く。兄さまは私の頭を撫でながら語り掛けた。
「大丈夫。怖いことは何も起こらない。俺と、父上、ダリス兄上で、お前一人、十分に守れる」
優しい声に、自然と涙が出てきた。私が涙ごと顔を胸に押し付けると、レクス兄さまは何も言わずに片手を回して背中を撫で始めた。
前世でも私さえ冷静であれば、温かな守りの中で生きていけたのだろうか。
今日一日、家族の優しさに触れるたびに、どうしようもなく後悔が降り積もっていく。
冷静でさえあれば、前世の私は、魔力測定の会場から連れ去られ、王都へ移されることもなかったのだろう。
家族と引き離されて、何も分からないままに、周りの大人に従い、流されるだけの存在にならなかったかもしれない。
その晩は、レクス兄さまにしがみ付いている間に眠ってしまった。
モンス男爵家の徒歩帰宅の起源について所説あり。
ダリスは、父が馬とその餌代をケチっている説を推し、レクスは、母が「情が移ると動物との別れがつらい」と馬を飼うのに難色を示した説を推している。




