8 さみしい別れ
朝のエントランスは、いつものように出勤ラッシュの波に飲まれていた。
社員たちが次々と会社に入り、忙しそうに行き交う中――
千尋はその喧騒の中に、たった一人で立ち尽くしていた。
(もう来てるかもしれない……)
(違う入り口から入ったのかも……)
何度も自分に言い聞かせるように、そう思い直してはいたけれど、
心のどこかでは、たったひとつのことがぐるぐると渦巻いていた。
(……黒川さん、もし今日、来なかったら……)
その考えが、どうしようもなく胸に広がっていく。
不安と焦りと、何かを失ってしまいそうな怖さ――
それが込み上げてきて、気づけば、千尋の瞳からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。
(やっぱり……こんなこと、無理だったのかな)
(言えるはず、なかったのかも……)
俯いたまま立ち尽くす千尋の肩を、冷たい朝の空気がすり抜けていく。
そのときだった。
ポケットの中で、携帯が震えた。
びくりと肩を震わせながら、慌てて画面を見ると――
そこには「若葉」の名前が表示されていた。
(若葉……)
その名前を見た瞬間、張り詰めていた何かがふっと緩んで、
千尋の目からはさらに大粒の涙が落ちた。
――私は、ちゃんと話したいだけなんだよ。
――ちゃんと「ありがとう」って言いたいだけなのに……
そう思えば思うほど、黒川の姿が見えない現実が、胸に突き刺さる。
千尋の手元のスマートフォンが再び震えた。
震える指先で画面を開くと、そこには若葉からのメッセージが届いていた。
「千尋ちゃん、ちょっと遅れます。
どうしてもやらなきゃいけないことがあるから……
済んだら急いで行くからね。絶対に行くからね。」
その文章を読んだ瞬間、千尋の心に張りつめていた感情の糸が、ぷつんと音を立てて切れた。
(……そんなの、わかってるよ)
(若葉がちゃんとした理由があって遅れることなんて、わかってる。
でも――今だけは、今この時だけは、そんな理屈じゃどうにもならないの……)
涙が再びあふれ、頬を濡らしながら、千尋は震える手で返信を打ち始めた。
「若葉……こんな時に何してるの?
黒川さん、いなくなっちゃうかもしれないんだよ。
もう、会えないかもしれないのに……!
いいから、お願いだから早く来て。
私、怖いの。どうしたらいいか、わかんないの。
若葉がいないと、不安でどうしようもないの……」
送信ボタンを押したあとも、しばらく手が震えて止まらなかった。
胸の奥がぎゅっと締めつけられて、息をするのも苦しくなる。
(黒川さんが、行っちゃう。
何も言えないまま、何もできないまま、あの人がいなくなってしまう……)
ただの上司だと、自分に言い聞かせていた。
でも違う。そうじゃない。
この気持ちは、もっとずっと大切で、どうしようもなく切実なものだ。
――だからお願い、若葉。
どうか早く来て。
一緒にいて。
この気持ちを、どうか支えて――
千尋の心は、今にも崩れてしまいそうだった。
「ピンポーン」
インターホンが鳴った瞬間、若葉は跳ね起きるように玄関へと駆け寄った。
ずっと心待ちにしていたその音。
ようやく来た――その確信が胸の奥に走った。
勢いよく扉を開けると、配達員が立っていた。
「お届け物です。ハンコは結構です、そのままどうぞ」
そう言って、若葉の手に荷物がそっと渡された。
「ありがとうございますっ!」
若葉はぺこりと頭を下げると、すぐにドアを閉めた。
中身を確かめる間もなく、でも間違いなくあの“約束の品”だとわかっていた。
封を切り、ちらりと中をのぞいて確信すると、それをそっとカバンの奥にしまい込んだ。
「よし……!」
若葉は深く息を吸ってから、勢いよく玄関を飛び出した。
靴の音がコツコツと響くアスファルトの道を、まっすぐに、風を切るように走っていく。
(お願い、神様……間に合いますように……!)
その祈りは、走るたびに胸の奥で何度も繰り返されていた。
“今この時だけは、どうか――間に合って”と。
若葉の頬に朝の風が触れた。
けれどそれすらも、彼女の心の熱を冷ますことはなかった。
若葉は肩で息をしながら、ようやく駅の前にたどり着いた。
胸が苦しいほどに鼓動を打ち、汗が額をつたう。
けれど、立ち止まってはいられなかった。
改札を抜けたその瞬間、ホームの向こう側から電車が滑り込んでくる音が聞こえた。
(来た……!)
思わず喉の奥が詰まりそうになるほど焦りが込み上げた。
若葉は全身の力を振り絞って階段へと駆け上がる。
足がもつれそうになりながらも、手すりを掴んで懸命に駆け上がり――
到着したホームの端で、閉まりかけのドアに滑り込むように飛び乗った。
「……はぁ……はぁ……っ」
扉が閉まる音が背中で響いた。
車内に立ち尽くしながら、若葉は思わずその場で膝に手をついた。
間に合った――その安心と同時に、今度は次の不安が押し寄せてきた。
すぐにカバンからスマホを取り出し、千尋にメッセージを打つ。
⸻
今、電車に乗ったよ。
もう少しでそっちに着くからね。
絶対に間に合うようにするから――待ってて。
⸻
その手がほんの少し震えているのに気づきながらも、若葉は強く願っていた。
どうか、最後にもう一度、黒川さんに会えますように――。
電車の揺れに身を任せながら、彼女は祈るようにスマホを胸に抱えた。
廊下の扉が静かに開いた。
そこから姿を見せたのは、キャリーバッグを片手に持った黒川若菜だった。
振り返って一礼し、静かに歩き出すその姿は、どこか凛とした強さを感じさせた。
けれど、その背中には、どこか寂しさが滲んでいた。
(……本当に、行くんだな……)
彼女は誰に言うでもなく心の中でそう呟くと、廊下の角を曲がった。
その先には、かつて何度も一緒に笑い合った若葉と千尋の部署がある。
ふと立ち止まり、つい……というように、横目でブラインド越しにそっと覗き込んだ。
しかし、そこに2人の姿はなかった。
席には誰もおらず、パソコンのモニターがぼんやりと青白い光を放っているだけだった。
「……そっか、席外してるんだ」
ぽつりと、ひとりごとのように呟いた。
(そうだよね。みんな、仕事中だもん。私だけが、特別な時間を望んでたのかも)
笑ってごまかすように、唇の端を上げてみたけれど――
その胸の内には、どうしようもないぽっかりとした空白が広がっていた。
「最後に……ちゃんと挨拶、したかったな……」
声にならないその思いが、心の奥でふわりと浮かんでは、静かに沈んでいった。
再び足を動かし、ゆっくりとエレベーターに向かう。
エレベーターに乗り込むと、ため息をひとつついて、迷うことなく「1階」のボタンを押した。
下りのボタンの灯りが静かに光る中、ふと彼女は思った。
(……ねぇ、若葉ちゃん。千尋ちゃん。……私、本当はすごく、寂しいんだよ)
心の中で小さく呟いたその言葉は、どこか空へ吸い込まれるように消えていった。
扉が静かに閉まっていく。
音もなく降りていくエレベーターの中で、若菜は誰にも見せない表情のまま、静かに立っていた――。
エントランスの一角に、ひとりぽつんと佇む影があった。
千尋は扉の方をじっと見つめたまま、何分も動けずにいた。
「……黒川さん、来なかった」
ぽつりと、か細い声でつぶやく。
その言葉と同時に、張りつめていた心がぷつりと切れた。
「うぅっ……」
目元からつーっと一筋の涙がこぼれたかと思うと、次の瞬間にはもう、声をあげて泣いていた。
「黒川さん……成田に直行しちゃったの……? 会社に来なかったの? なんで……」
今にも崩れ落ちそうな不安と寂しさ。
それを抱えきれなくなった千尋は、ついにその場にしゃがみ込んでしまった。
両手で顔を覆い、こらえきれず肩を震わせながら、涙を流し続けていた。
その時だった――
「チィーン……」
エレベーターの扉が静かに開いた。
スーツケースを引き、静かに足を踏み出した黒川若菜。
1階ロビーに出てすぐ、視線の先に小さな影が目に留まった。
「……え?」
廊下の片隅で、しゃがみ込んで泣いている女の子がいた。
「……もしかして……千尋ちゃん……?」
思わず息をのんだ。
さっきまでずっと、会えなかった寂しさと虚しさを抱えていた若菜。
「仕方ないよね、これが私の人生だもん」って、自分に言い聞かせたばかりだった。
だけど今、その目の前には――
ずっと会いたいと思っていた人がいた。
思わず胸がぎゅっと締めつけられる。
(嘘……こんな事ってあるんだ……)
心の奥が、静かに、けれど確かにあたたかくなるのを感じた。
若菜はスーツケースをそっと手放すと、そばに駆け寄り、しゃがみ込んで千尋の背中に手を添えた。
「千尋ちゃん……来てくれてたんだね……」
その声に、千尋がゆっくり顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃになった目が、驚きに見開かれる。
「く……黒川さん……?」
「ごめんね、遅くなっちゃって。……でも、来たよ。ちゃんと、お別れ言いに」
その言葉が千尋の耳に届いた瞬間、彼女の中で何かが音を立てて崩れた。
「ぐ……ぅっ……く、くろかわさん……!」
その場にしゃがみ込んだまま、子供のように顔をくしゃくしゃにして、千尋はわんわんと泣き出した。
感情のダムが決壊したように、嗚咽が次々とこみ上げてくる。
「うわぁあああああああんっ……!よかったぁぁぁ……!黒川さんに、会えたぁぁぁ……!」
まるで迷子の子どもが親を見つけた時のように――千尋は全身で涙をこぼし、鼻をすすり、涙もよだれも気にせず、感情のままに泣き崩れた。
そんな千尋の姿を目の前で見ていた若菜の瞳にも、自然と涙がにじみはじめる。
「もう……バカだなぁ、ほんとに……」
そう呟きながら、若菜も静かに膝をついてしゃがみ込み、千尋の背中にそっと手を当てた。
その手が温かかった。
「ほんとに……会えてよかった……」
今度は若菜も涙がぽろりとこぼれた。
2人は言葉にならない思いを抱えたまま、ただ静かに、そしてぐしゃぐしゃに泣きながら、エントランスの真ん中で、言葉にできない思いをそっと分け合っていた。
「千尋ちゃん……本当にありがとうね」
若菜は静かに、そして心からの思いを込めてそう言った。
「私のために、こんなふうに泣いてくれる人がいたなんて……。それだけで、もう……嬉しくて、胸がいっぱい」
千尋はその言葉に思わず鼻をすすりながら、涙声でうなずいた。
若菜は千尋の瞳を真っ直ぐ見て、優しく微笑むと、ふと口を開いた。
「ねぇ、千尋ちゃん…… これからも、友達でいてくれますか?こんな私ですけど……」
すると千尋は、大きくうなずいた。
「もちろんです!喜んで。……だって…だって黒川さんは、私の大切なお友達だもん……えぇぇぇぇぇ〜〜ん」
その言葉が口からこぼれた瞬間、千尋はまた感情がこみ上げて、両手で顔を覆いながら再び涙をあふれさせた。
「よしよし、千尋ちゃんはかわいいね」
若菜は、まるで年下の妹をなだめるように、千尋の肩をそっと撫でながら笑った。
ふと若菜は辺りを見回しながら尋ねた。
「そういえば、若葉ちゃんは?」
千尋は涙を拭きながら答える。
「大切な用事があって……今日は少し遅れてくるって……」
「そっかぁ、じゃあ仕方ないね。会いたかったけど……」
「若葉は来ます。絶対に来ます。……あの子、約束を守る子なんです。どんなことがあっても……」
千尋のその言葉に、若菜は目は、心から嬉しそうに微笑んだ。
「……会えるといいな。ほんとに…」
少しの間、沈黙が流れたあと、若菜がふと思いついたように言った。
「ねぇ千尋ちゃん、よかったら……今度ニューヨークに遊びに来ない?うちに泊まればいいし、若葉ちゃんと一緒に」
千尋の目がパッと輝いた。
「行きたい!……行きたい、絶対行く!絶対、絶対、絶対!」
「ふふっ、よかった」
若菜はその勢いに笑いながら、でも少しだけ声を落として言った。
「もし……もしよかったら、千尋ちゃん、私の部下になってニューヨークに来る?……ただし条件があるの。
これから1年間、日本でしっかり頑張ること。……そうしたら、私が必ず、千尋ちゃんを呼ぶから」
千尋は真剣な眼差しで、しっかりとうなずいた。
「はい……頑張ります。絶対、絶対、行きます!」
2人はお互いの目を見つめ合い、そして静かに微笑み合った。
涙が乾いたその先に、確かな信頼と、少しだけ未来への光が差し込んでいた。