7 突然の知らせ
「……わかりました。明日の午後から支度を始めて、明後日には準備を整えます。大丈夫です」
電話の向こうから上司の声がまだ続いている。
「はい……はい……了解いたしました。では、明日の朝……はい、失礼します」
短く一礼するように、電話を切った。
切れた瞬間、若菜は深く息を吐き出し、全身の力が抜けたようにソファへと身を預けた。
ふと、ぼんやりと天井を見つめながら、呟く。
「……いつも、こうなんだよなぁ」
唇に、苦笑のようなものが浮かぶ。
渚と心が通じ合った、あの柔らかな時間――それが一瞬で遠のいてしまった。
この現実が、まるで別の世界のように感じる。
時計に目をやると、もう1時間以上も上司と打ち合わせをしていたことに気づいた。
たったさっきまで、渚ちゃんと“Baby-G”の話で笑っていた自分がいた。
おそろいにしようって、あの子が目を輝かせてくれていた。
あの瞬間が、まるで夢だったかのように思えてくる。
もう、いまからでは間に合わない……
若菜は、天井のまっすぐな白を見つめながら、自分に問いかけるように心の中で言葉をつぶやいた。
「……私、何をしているんだろう」
頑張ってきた。
人より多くの責任を背負い、人より長く働き、人より少し強くあろうとしてきた。
それが当たり前になって、誰かと笑い合う時間よりも、こなすべき仕事が優先される人生を送ってきた。
「これで……いいの? 若菜ぁ……」
静かに目を閉じる。
若葉の笑顔がまぶたの裏に浮かぶ。あたたかな言葉、やさしい気遣い、そして“一緒に”という響き――それが今も胸の中で残っている。
本当は、もっとそばにいたかった。
もっとあの子と話していたかった。
なのに、自分はまた「仕事」に戻っている。
それを選んだのは、自分自身なのに――どうしようもなく、寂しい。
ソファに深く沈み込んだまま、若菜はひとり、音のない夜の静けさに包まれて、自分の胸の中の声と、静かに向き合っていた。
渚は目を開けた瞬間、ふんわりとした嬉しさが胸の中で弾けた。
まだ外は少し薄暗く、カーテンの隙間からやわらかい朝の光が差し込んでいる。
布団の中で、そっと小さく笑った。
「うん。やっぱり……内緒にしておこう」
誰にも言ってない。もちろん、ベルおねーちゃんにも。若菜さんにも。
これは、渚だけの“ひみつ”。
思い出すだけで、顔がにやけてしまいそうになる。
心の中でだけ、何度もシミュレーションをしてみた。
その人の笑った顔、その人の驚いた顔。
ちゃんと伝わるかな。
どうか、ちゃんと、届きますように──。
渚は布団を跳ねのけると、軽やかにベッドから飛び起きた。
鏡の前で髪を整える手にも、つい、力が入る。
「今日はなんだか、いつもよりいい日になる気がする」
そんなふうに思う朝は久しぶりだった。
朝ごはんを簡単に済ませると、いつものリュックを肩にかけて玄関へ。
ドアノブに手をかける前、渚はふと立ち止まり、小さく呟いた。
「秘密、ちゃんと守れるかなぁ……ふふっ、ダメだ、顔に出ちゃうかも」
そして、スニーカーのつま先でトントンと軽くリズムを取ってから、勢いよくドアを開けた。
眩しい朝の光の中へ、
渚の“誰にも言えないサプライズ”をひとつ、胸にしまって──
今日が、始まった。
会社に着くと、やっぱり千尋が待っていた。
若葉のデスクの前で、腕を組んで立っている。
「若葉、遅い〜ぃっ!」
開口一番、膨れたように言う千尋に、若葉は苦笑いしながら応じた。
「ごめんごめん。でも、遅刻はしてないよ?」
「でもさ〜! 話したかったのに! 仕事始まっちゃったら、もうしゃべれないじゃん!」
「……それは、確かにね」
そう言いながら、2人は自然と自販機の前へと移動する。
いつもの“朝のガールズトーク”の場所だ。
缶コーヒーを手にした千尋が、ふと目を伏せて小さく呟いた。
「……ねぇ、若葉ぁ。あたし、やっぱり……黒川さんのこと、大好きかも」
「……え?」
突然の“告白”に、若葉はコーヒーを口に運ぶ手を止めた。
「千尋ちゃん……熱ある? 大丈夫?」
「ちがーーーうっ!!」
千尋はぷくっと頬を膨らませて叫んだ。
「若葉のバカ! 私はマジで言ってるんだからねっ!」
「えっ……ほんとに……?」
「ほんっとにっっ!」
千尋は両手を握りしめ、目をキラキラさせながら力強く宣言した。
「マジで黒川ファンクラブ立ち上げちゃうからね! あたしの夢、もう決まってるの!」
「……夢?」
「うん。黒川さんの! し・も・べ・になるの!」
「ぶふっ……!」
若葉は思わず吹き出し、そのまま大笑い。
「千尋ちゃん、大袈裟すぎだって〜〜っ!」
「ちがうもん、ほんとだもん! 若葉、怒るよ? 私ね、ガチの黒川推しなんだよ?
昨日のランチのときから、完全に落ちたんだから。あの人、素敵すぎ!」
「はいはい、わかりましたわかりました〜」
若葉はニコニコしながら、相槌を打つ。
その“適当っぷり”に、千尋はふくれ顔。
「若葉ってさぁ、そういうところ、すっごい軽いよね。
もっとちゃんと感動してよ〜〜!」
「うーん、でも千尋ちゃんが面白すぎるんだもん」
2人はそんなやりとりを交わしながら、自販機の前で笑い合っていた。
朝のフロアには、ふわりとした優しい空気が流れていた。
朝のオフィスに続く廊下の先から、足音が聞こえてきた。
千尋と若葉が自販機の前で話していると、その足音の主――黒川若菜が、ゆっくりと現れた。
けれどその様子は、いつもの颯爽とした彼女とはまるで違っていた。
口元は引き結ばれ、目はどこか遠くを見つめている。
明らかに何かを抱えていて、声をかけるのもためらわれるような張り詰めた空気をまとっていた。
千尋は一瞬、言葉を失ったまま黙って黒川を目で追った。
憧れの彼女の、あまりに違う表情に戸惑いながらも、何もできずにただ立ち尽くしていた。
その沈黙を、ふわりと優しくほどいたのは若葉だった。
「黒川さん、おはようございます」
若葉は、ふっと微笑みながらまっすぐ彼女に声をかけた。
「なんか、今朝は大変そうですね。でも……黒川さんは、笑ってる顔のほうが絶対に可愛いですよ。だから、できれば……笑ってください」
その言葉に、黒川はふと立ち止まり、ゆっくりと若葉の顔を見た。
次の瞬間、それまで張り詰めていた表情がふわっと和らいでいく。
眉が下がり、唇の端がほころび、黒川若菜はようやく“彼女らしい”穏やかな笑顔を見せた。
「うん……そうだね」
黒川は、まるで自分に言い聞かせるようにうなずいた。
「怖い顔してたら、いいことも逃げちゃうもんね。若葉ちゃん……それに、千尋ちゃんも。ありがとう」
そう言って、2人に向かってにこりと微笑むと、黒川は一歩、また一歩と歩き出した。
背筋は真っ直ぐで、顔にはいつもの凛とした表情が戻っていた。
その背中を見送る2人。
「……よしっ」
若葉が小さくガッツポーズを作ると、千尋も頷いて同じように拳を上げる。
「さっすが若葉。……やっぱ、黒川さんにとって、若葉って特別なんじゃないの?」
「えぇ〜、そんなことないよぉ〜」
「あるってば〜〜!」
2人は小声で言い合いながらも、顔には笑みが戻っていた。
それは、黒川の笑顔が戻ったことで、自然と自分たちの心にも光が差し込んだような、そんな朝だった。
打ち合わせを終え、ひと息つきながら部屋を出た若菜は、無意識のうちに歩みを緩めていた。
そしてふと、自分の所属するフロアのすぐ先、若葉と千尋の部屋の前で立ち止まる。
「若葉ちゃん、今頃どうしてるかなぁ……」
何気ない思いつきのように思われたその言葉は、実は心の奥から漏れた、ほんの少しだけ切ない願いだった。
誰にも気づかれないように、そっと窓際に近づき、薄く開いたブラインドの隙間から部屋を覗く。
視線の先に見えたのは――
真剣なまなざしでパソコンのモニターと向き合う若葉の横顔。
そして、その周りを忙しなく動き回る千尋の姿だった。
いつもと変わらない2人。
淡々と仕事をこなしながらも、どこか楽しそうで、あたたかい空気に包まれているその空間。
それを見た瞬間、若菜は思った。
――ああ、やっぱり……言えないな。
この胸の奥にあるざらついた思いも、たった今受けた、重くのしかかる責任のことも、
今さら取り出して見せるようなものじゃない。
「いつもこうだから……いつも通りで、いいよね」
そう、自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。
楽しくないわけじゃない。
むしろ、最近はずっと心が満たされていた。
若葉や千尋、そして渚との繋がりに、何度も救われてきた。
けれど――
どうしてなんだろう。
いつもこうして、少しだけ幸せに手が届きそうになった時、
まるでそれを試すように、現実が重たくのしかかってくる。
ほんの少し踏み出すだけで、もっと近づける気がしていたのに。
またここで止まってしまう自分が、どうしようもなく悔しかった。
「大丈夫、大丈夫。何もなかったことにすればいい……また、そうすればいいだけだから……」
ぽつりと呟いたその声には、どこか諦めにも似た響きがあった。
若菜はブラインドからそっと目を離し、振り返ることなくその場を離れた。
後ろに残したのは、あたたかく、でも今はまだ自分には触れられない場所――
そして彼女は、ひとり会社を後にした。
ランチタイムの社内は、どこかほっとした空気に包まれていた。
渚はいつものように、自分のデスクにランチを広げて、穏やかな笑みを浮かべながら一口目を口に運んでいた。
ちょうどその時だった。
まるで嵐のように、息を切らしながら誰かが近づいてくる足音がした。
そして、次の瞬間――
「若葉〜ぁっ!!」
大きな声とともに現れたのは千尋だった。髪は少し乱れ、目にはうっすら涙まで浮かんでいる。
「千尋ちゃん!?どうしたの?落ち着いてよ」
渚は慌てて手を止め、驚いた表情で千尋を見上げた。
「そんなこと言ってられないよぉ〜!」
半ば叫ぶように言いながら、千尋は渚の前にどさっと腰を落とした。
その顔には明らかに“ただ事ではない”という色がにじんでいる。
「なに? どうしたの?何があったの?」
渚は動揺を押し殺して、静かに問いかけた。
千尋はしばらく言葉が出せず、唇をわなわなと震わせたまま、
「う、うん……ヒック……ヒィク……」と、喉をつまらせながら、ついに目の前で泣き出してしまった。
「千尋ちゃん、お願いだから、ちゃんと話して。わたし、何もわからないよ……」
そう言って千尋の肩にそっと手を添えた渚の声にも、不安がにじみ始めていた。
ようやく、千尋は震える声で言葉を絞り出した。
「く、黒川さんが……明日、移動で……」
「……海外に行っちゃうんだってぇええ〜〜〜〜!!!」
千尋はとうとう声をあげて号泣し始めた。
その声はフロア中に響くほどで、周囲の人が思わず振り返るほどだった。
「せっかく仲良くなれそうだったのにぃ……。やっと私たちと心を開いてくれたばっかりなのにぃ……えぇ〜〜ん!!」
渚は言葉を失った。
一瞬、耳を疑った。
千尋の言っていることが本当だとしたら――
昨日まで一緒に笑っていた黒川若菜が、突然会社を離れてしまうということになる。
「……そんな、明日……?」
渚は小さく呟いたが、千尋は気づかず、涙と鼻をすする音ばかりが響いていた。
「わたしね……黒川さんのこと……ほんとに、ほんとに大好きだったのにぃ〜〜〜! まだ、もっといろんな話したかったのにぃ〜〜!」
子どものように泣きじゃくる千尋の姿に、渚は胸が締めつけられる思いだった。
――私も、同じ気持ち。
まだたくさん伝えたいことがあった。もっと知ってほしかった。もっと知りたかった。
なのに、どうしてこんな急に……。
「黒川さん、行っちゃうの……?」
渚の手は、握りしめたお箸をそっとテーブルに置いていた。
その目は、今にも泣き出しそうに潤んでいた。
午後からの仕事は、まるで誰かに決められたルールに従って“こなすだけ”の時間だった。
手は動いているのに、心はどこにもなかった。
千尋も、そして渚も、それは同じだった。
夕方。
ようやく業務が終わり、2人は黙って連れ立って会社を出た。
でも、その足取りはいつもの軽やかさとは違っていた。
会話は少なかった。
だけど、無理に言葉を交わさなくても、互いの胸に広がる重たさは、自然と伝わっていた。
会社の正面を出て、駅に向かって歩く道。
心なしか風が冷たく感じる。
やがて、いつもの分かれ道に差しかかると、千尋が小さな声で呟いた。
「……じゃあ、また明日ね」
渚も同じように、そっと返した。
「うん、またね……」
どちらの声にも、元気の欠片もなかった。
バイバイ、と手を軽く振り合いながら、背中を向けた瞬間、2人の表情から笑みは消えていた。
渚は、家に着くなりすぐにパソコンの前に座った。
頼りたかったのだ。
このモヤモヤした気持ちを、誰かに、いや――“ベルおねーちゃん”に聞いてほしかった。
「……おねーちゃん、どうしたらいい?」
そう思いながら、モニターの明かりに目を凝らし、メッセージが届いていないかを確認した。
でも、今夜に限って、おねーちゃんからの返信はなかった。
「……きっと、仕事で忙しいんだよね」
そう自分に言い聞かせながらも、心の中では不安がじわじわと広がっていくのを止められなかった。
――黒川さんが、明日には会社を離れる。
この現実に、どう向き合えばいいのか。
心のどこかで、“何かできる方法があったかもしれない”と考えてしまう。
でも、わかっている。
今回の件は、個人の想いや感情だけでは変えられない。
会社の決定、組織の方針。
そんな重たくて冷たい“現実”の前では、自分はあまりにも小さくて無力だった。
「黒川さん……本当にこれで、いいの……?」
ポツリとつぶやいたその声が、自分でも驚くほど、弱々しく揺れていた。
渚は再び画面を見つめた。
けれど、そこに“ベルおねーちゃん”からの返信はない。
大丈夫。そう、自分に言い聞かせるしかなかった。
でも――
どこかで“繋がり”を失ったような気がして、胸の奥が急に冷たくなる。
その夜、渚はひとりだった。
言葉を交わせる人がいない、心の声を聞いてもらえない、
そんな“静かな孤独”が、部屋の隅々にまで染みわたっていた。
――明日、会社……遅れて行こう。
渚は心の中で、そっとそう決めた。
でもそれは、甘えでも、わがままでもなかった。
むしろ、決意だった。必死な、自分自身を守るための決意。
「そうしないと、絶対に……絶対に後悔する」
言葉に出さずに、胸の奥で何度も呟いた。
何時になるかわからない。
何ができるかも、まだ決まっていない。
でも、それでも。
今、行動を起こさなければ――
きっと、自分はこの先、ずっと後悔してしまう。
後悔が心に残って、どんなに楽しいことがあっても、その影が付きまとう気がした。
あのとき、行動しなかった自分を、ずっと責め続ける気がした。
だから。
「これだけは、しなきゃいけない」
誰かに言われたわけでもない。
自分の中の“渚”が、渚自身に、静かに、でも強く訴えていた。
今だけは、自分の気持ちを信じて動こう。
逃げないで、立ち向かおう。
じゃないと、もう一度、あの“孤独の淵”に落ちてしまう気がした。
――若菜さんがいなくなる前に。
――ちゃんと伝えたい。
――“渚”としてではなく、“わたし”として。
渚は、震える指先をそっと握りしめながら、もう一度自分に誓った。
「明日は、遅れてでも……行く」
それが、今の自分にできる、精一杯の勇気だった。
朝、目を覚ました瞬間――
若葉の胸に真っ先に浮かんだのは、やはり黒川さんのことだった。
「……本当に、今日しかないんだよなぁ」
出勤の準備をしながらも、心はずっと落ち着かない。
“その時”が来るまで、ただ待つしかないという事実が、焦りと不安をかき立てていた。
一方その頃、すでに千尋は会社に到着していた。
いつもよりもずっと早い時間に、誰よりも先に――。
「黒川さんに、ちゃんと挨拶したい……」
その一心で、千尋は誰もいないエントランスに立っていた。
エレベーターのドアが開く音に、いちいち心臓が跳ね上がる。
落ち着こうとしても、どうしても心が騒いでしまう。
(黒川さんに会えたとして……ちゃんと話せるかな)
(きっとパニックになっちゃって、何も言えなくなるんじゃないかな……)
そんな自分を情けなく思いながらも、千尋はそこを離れなかった。
でも――
「言わなきゃ、絶対に後悔する」
この想いを胸にしまったままじゃダメだ。
自分でも驚くくらい、黒川さんの存在は千尋の中で大きくなっていた。
ただの“憧れ”じゃない。
「この人をもっと知りたい」
「この人の力になりたい」
心からそう思えるようになっていた。
たった一言でもいい。
「ありがとうございました」って――
笑って伝えられたら、それでいい。
震える指先をぎゅっと握りしめながら、千尋は真っ直ぐにエントランスの扉を見つめ続けた。
この想いが届きますようにと、願いながら。