6 夢から現実
「……こんな気持ち、いったいどれくらいぶりだろう……」
画面を見つめたまま、若菜はぽつりとつぶやいた。
頬に残る涙の痕に、ふと指をあてながら、胸の奥からこみ上げてくる感情を静かに噛みしめていた。
心が、こんなにも温かくて、やさしいもので満たされるなんて。
もうずっと、忘れていたはずだった。
“こんな気持ちになれるなんて……渚ちゃんのおかげだよね”
自然とそう思えた。
若菜の頭の中に、これまでの日々が浮かんでくる。
どれだけ頑張っても、報われないと感じていた仕事。
誰かに弱さを見せる余裕もなくて、いつしか笑顔も仮面になっていた日常。
心の奥では誰かにそばにいてほしいと願いながら、そう思うことすら贅沢だと、諦めていた自分。
だからこそ、物語の中が心の逃げ場だった。
現実では言えない言葉も、物語の中なら伝えられた。
誰かの痛みを描きながら、自分を癒していた。
静かで孤独な日々のなか、小説だけが唯一、自分を肯定してくれる場所だった。
でも──
いま、目の前にいる“渚ちゃん”という存在が、そんな自分を少しずつ変えてくれている気がした。
遠くにいるのに、誰よりも近く感じられて、
そっと心の奥に触れてくれる。
言葉ひとつで、こんなにも温かくなれるなんて……
若菜は静かに、深く息を吐いた。
そして、小さく笑った。
「……今、わたし……ちょっとだけ、幸せかも……」
小説でもない、誰かの人生でもない、
これは紛れもなく、自分自身の“いま”の気持ちだった。
渚はベルおねーちゃんからの温かい返信を読み終えると、胸の奥がじんわりとあたたかくなっていくのを感じた。
(うん……今なら、ちゃんと伝えられるかもしれない)
そう思った渚は、両手をそっとキーボードに置き、静かに指を動かし始めた。
⸻
「うん……黒川さんとは、これからも仲良くしていきたいって思ってる。
今日いろんな話をして、もっとたくさん小説のこととか、一緒に話し合えたら楽しいだろうなって思ったんだ。
それにね……
ベルおねーちゃんのことも、黒川さんに知ってもらいたいって思ってるの。
おねーちゃんがどんなにやさしくて、あったかくて、素敵な人かを──私だけじゃなくて、黒川さんにも伝えたい。
だってきっと、黒川さんもおねーちゃんのこと、すぐに好きになっちゃうと思うんだ。
そうなったら、なんだか嬉しいなって……ふふ」
⸻
そんな気持ちを込めて、渚は一文一文、大切に書いていった。
「──送信」
送信ボタンを押したその瞬間、まるで手紙を空に放ったような、不思議な安心感が胸に広がっていった。
渚の中で、大切なふたりが少しずつ近づいていく未来を想像しながら──
今はまだ始まったばかりの、その小さな優しい輪を信じて、渚は静かに微笑んだ。
若菜は渚から届いたメールを開くと、自然と頬がゆるんだ。
「ふふっ……渚ちゃんったら、ほんとにかわいいなぁ」
心の中にじんわりと広がる温かさに、若菜はそっと深呼吸した。
そしてふと、前から気になっていた“あの時計”のことが頭をよぎる。
(そうだ……ずっと悩んでたけど、やっぱり買っちゃおうかな)
(渚ちゃんにも、相談してみようかな。どう思うかなぁ……)
そう思うと、指が自然にキーボードを打ち始めていた。
「渚ちゃん、ちょっと聞いてほしいことがあるの。
実はね、前から気になってる腕時計があって──BABYーGなんだけど、やっぱり欲しいなって思ってて。今、買っちゃおうかなぁって……どう思う? 渚ちゃん的にアリかな?」
そう書き添えて、迷いながらも選んだお気に入りの画像を一緒に添付した。
そして、「送信」のボタンを、ちょっとだけドキドキしながらクリックする。
渚にだけには、こういう小さなことも相談したくなる。
そんな今の自分の気持ちに、若菜はあらためて気づいていた。
ベルおねーちゃんからのメールが届いたと気づくと、渚はすぐにパソコンに向かい、わくわくしながら画面を開いた。
添付されていた画像に目をやった瞬間、思わず声がもれた。
「……かわいい……!」
ふんわりとした淡い色合いのGBABYーGの腕時計が、画面いっぱいに映し出されている。
シンプルだけど女の子らしいデザインに、渚の心は一気に踊り出した。
(こんなかわいい時計、ベルおねーちゃんにすごく似合いそう……!)
心の中でそんなことを思いながら、勢いのままにキーボードを叩き出す。
「あり、ありですっ!! 絶対かわいいもん!
ベルおねーちゃん、お願いがあるの……
渚もおそろいで買ってもいいかなぁ?
一緒につけられたら嬉しいなって思って……」
そんな想いを添えて、少し照れながらも心からの言葉を送信した。
画面の向こうでも、きっとベルおねーちゃんが微笑んでくれる。
そう信じながら、渚は頬をほんのり染めた。
少し時間が経ってから、渚からの返信が届いた。
パソコンの画面に新着メールの通知が表示されると、若菜は自然と手を止め、画面に目を向けた。
「かわいい、一緒に買っていい? 一緒につけられたらうれしいな。」
その短いメッセージの中に、渚の純粋な気持ちがぎゅっと詰まっていた。
読むなり、若菜の胸の奥にじんわりとした温かさが広がっていく。
(本当にかわいい子……)
そんな思いとともに、若菜の頬には穏やかな微笑みが浮かんでいた。
心に浮かんだ気持ちを、ひとつひとつ大切に確かめながら、キーボードを静かに打ち始める。
「お揃いにしよう。
渚ちゃんと私の“絆”の証ね。」
そう書いて、そっと送信キーを押した。
どこか照れくさいけれど、それ以上に嬉しい
そんな自分の素直な気持ちを、渚にもちゃんと伝えたかった。
画面の向こうには、自分と同じように笑ってくれている渚がいる。
それだけで、今日という日がもっと優しく思えた。
幸せな気持ちに包まれながら、若菜はディスプレイを見つめていた。
渚から届いた言葉が胸の奥にじんと沁みて、心がやさしく解けていくようだった。
(ほんと、こんな時間がずっと続けばいいのに……)
そう思っていた――その時だった。
突然、若菜のスマートフォンが震え、ディスプレイに会社からの通知が表示された。
その瞬間、若菜の胸の奥にひやりとした違和感が広がる。
「黒川さん、至急ご連絡ください。よろしくお願いします。」
ただそれだけの文面。
けれど、そこに込められた緊迫感は、痛いほど伝わってきた。
どこかで覚えのある“現実”の重さが、一気に肩へとのしかかってくる。
(……また、戻らなきゃいけないんだ)
せっかく心が軽くなったばかりだったのに、現実が容赦なく引き戻してくる。
でも、それが自分の立場なのだと、若菜は静かに受け入れた。
それでも、渚にだけは優しくいたくて――
若菜はキーボードに手を添え、ゆっくりとメッセージを綴った。
「渚ちゃん、ごめんね。急に会社から連絡が入っちゃって……今日はここまでにするね。また明日ね。おやすみ」
そして、そっと送信ボタンを押した。
ほんのひととき、渚との会話の中で夢を見ていた。
でも夢は、いつか目を覚まさなければいけない。
ディスプレイの光が、どこか遠く感じられた。
若菜は深く息を吐き、ゆっくりとスマートフォンを伏せた。
「ベルおねーちゃん、今からお仕事なんだぁ……」
パソコンの前で渚はぽつりとつぶやいた。
忙しそうな様子がメールから伝わってきて、ほんの少しだけ心配にもなる。
でもそのすぐあとに、渚の頬がふんわり緩んだ。
「でも……時計、一緒にできる」
小さく、でも確かな幸せが胸の奥にじんわりと広がっていく。
渚は画面に映る腕時計――ベルおねーちゃんが送ってくれたBABy-Gの画像に、そっと視線を落とした。
白を基調にしたシンプルだけどかわいらしいデザイン。
どこかベルおねーちゃんらしい、落ち着きと優しさを感じるその時計が、画面の中で優しく光って見えた。
「かわいいなぁ……」
思わずこぼれたその言葉は、心からのものだった。
同じものを身につけられる、それだけで嬉しくて仕方がない。
画面越しでもつながっている――そんな気持ちが、渚の心をふんわりと包み込んでいた。
渚はふと視線を落とし、口元に小さな笑みを浮かべた。
「……決めた。今、買っちゃおう」
そう呟くと、さっそくパソコンの前に向き直り、ベルおねーちゃんが送ってくれたBaby-Gを思い出しながら、人気の通販サイトで検索を始めた。
似たような時計はたくさん並んでいる。けれど、渚が探しているのは、白をベースにしたケースに、ピンクの花がふんわりと彩られた文字盤の、あの優しい雰囲気の一本。
「……あ、あった」
見つけた瞬間、胸がふわっと高鳴った。
渚はある事を思いついた。
それから、迷うことなく“カートに入れる”をクリックし、そのまま購入手続きへ。
無事に注文が完了すると、画面に「お届け予定:明後日午前中」の文字が表示された。
その一言を見たとき、渚の顔は自然と緩んでいた。
頬が少し火照るような、じんわり広がる嬉しさ。
「ふふ……楽しみだなぁ、早く来ないかなぁ」
ひとりごとのように小さくつぶやいた声が、部屋の中にふわりと響いた。
その瞬間から、渚の頭の中は、届くその日でいっぱいになっていた。
お揃いの時計をつけている自分とベルおねーちゃんの姿――それを想像するだけで、心がときめきで満たされていくのだった。