5 見透かされた自分
「若葉ちゃんは、どんな小説を書いてるの?」
ランチを終えかけた頃、若菜がふと興味深そうに尋ねた。
若葉は少し照れたように笑ってから、箸を置いて言った。
「私は……日常の出来事とか、ちょっとした恋愛も入れてたりして。やっぱり、恋愛小説っていうのかなぁ〜」
それを聞いた黒川は、ふっと優しく微笑んで、うれしそうに頷いた。
「そうなんだ。じゃあ、私と似てるかも。私もね、大きなくくりで言えば恋愛小説なのよ」
「えっ、本当ですか?」
若葉の目が輝いた。自分の憧れの人と同じジャンルの作品を書いていると知って、胸の奥がじんわりと温かくなる。
そこから、2人の話は一気に加速していった。
好きな設定、書くときの悩み、夜中の執筆ルーティン……話せば話すほど、お互いの共通点が見つかり、まるで長年の友人同士のように夢中で語り合っていた。
その横で千尋は、頷きながら静かに2人の会話を聞いていた。
ときどき「へぇ〜」と相槌を打ちながらも、あまりに盛り上がる2人の世界には入り込めずに、少しだけ遠慮がちにお茶を飲んでいた。
そんな空気に気づいたのか、千尋がふいにおどけた口調で言った。
「……お二人様、そろそろでございます。間もなく13時を迎えますので、戻られたほうがよろしいかと存じます」
その声に、2人ははっとして顔を見合わせた。
「うそっ! もうそんな時間!?」
「やばっ、夢中になりすぎてたぁ〜〜〜!」
黒川が慌てて時計を確認しながら立ち上がり、急いでバッグを手に取る。
「若葉ちゃん、千尋ちゃん、本当にごめんね。話し込んじゃった。急いで戻ろう!」
「はい!」「は〜い!」と2人も慌てて立ち上がる。
こうして3人は、黒川にご馳走になったランチを終え、足早に会社へと戻っていった。
廊下を駆けるようにして歩きながらも、笑い声がぽんぽん弾んでいた。
それはまるで、ちょっとした青春のワンシーンのように、きらめいていた──。
ランチを終えてデスクに戻った若葉と千尋は、それぞれ席に腰を下ろしたものの、どこかまだ心が温まったままのようで、しばらくぼんやりと机の上を見つめていた。
「黒川さん、思ってたイメージとは全然違ったけど……なんか、すごく納得したっていうか…」
千尋がぽつりと呟くと、若葉もゆっくりと頷いた。
「うん……わたしも同じ趣味だったからかな。すごく、親しみやすく感じた」
千尋はしばらく黙っていたが、ふと目を細めながら言った。
「でもね、若葉。黒川さんが言ってた、あの言葉が、なんかずっと頭から離れないんだよね」
「え? どの言葉のこと?」
若葉が聞き返すと、千尋は少しだけ寂しそうな表情を浮かべて答えた。
「“隣に笑い合える人がいなかった”って、そう言ったじゃない? あの時……あの言葉、胸に残ってる」
若葉もそれを思い出し、しばらく黙った後、静かに呟くように言った。
「うん……でも、きっと大丈夫だよ。黒川さんは、きっとこれから変わっていく気がする」
「へぇ〜、なんでそんなに自信ありげなの? 若葉ぁ〜、なにその自信……」
千尋が少し驚いたように問い返す。
すると若葉は、ふふっと笑って言った。
「だって……黒川さん、小説を書いてる人だもん。書く人って、孤独を知ってるから、ちゃんと誰かの気持ちもわかる人なんだと思う」
千尋はその答えにすぐにはピンとこなかったようで、少し首をかしげながら、自分の前髪をくしゃっとかき上げた。
「うーん……わかったような、わかんないような……」
でもその姿を見て、若葉はまた優しく微笑んだ。
その表情には、今日、黒川若菜と、そして“ベルおねーちゃん”と過ごした、あたたかな夜の記憶が滲んでいた──。
午後の仕事を終える頃には、若葉の心はもう、ベルおねーちゃんのことでいっぱいだった。
「早く伝えたい……今日あった出来事、全部話したい……!」
そんな思いが抑えきれず、足取りは自然と早くなっていた。
会社を出てからの帰り道は、まるで夢を抱えて走るような気持ちだった。
電車の中でも、駅からの道でも、ずっと頭の中でおねーちゃんの事を思い浮かべていた。
「黒川さん、あんなに喜んでくれたなぁ……おねーちゃん、きっと嬉しく思ってくれるよね」
「なんて言ってくれるかなぁ〜」
そんなふうに想像するたびに、顔がふわりとほころぶ。
部屋のドアを開けたとたん、若葉はカバンもそこそこにパソコンの前に直行した。
飲み物も着替えも後回し。
今日だけは、何よりも先に伝えたい気持ちがあった。
電源を入れ、少しずつ立ち上がる画面を見つめながら、胸がトクトクと高鳴っていた。
いつものメッセージ画面を開いて、指先をそっと動かす。
「ただいま。今帰ってきたよ」
短いけれど、今の若葉の気持ちがぎゅっと詰まった一言。
メッセージを送信すると、思わず小さく息を吐いた。
──これで、やっと伝えられる。
今夜もきっと、あたたかい夜になる。そんな予感がしていた。
しかし──待ち望んでいたベルおねーちゃんからの返信は、なかなか届かなかった。
「ううん、きっと仕事が忙しいんだよね」
若葉はそう自分に言い聞かせて、気持ちを落ち着かせようとした。
けれど、どこか胸の奥がふわふわと落ち着かない。
パソコンの画面をちらりと見るたび、鼓動が一瞬だけ高鳴っては、すぐに静まり返る。
──新しい通知は、ない。
「よし、夕飯の支度しよう」
そう言って、若葉は無理やり立ち上がった。
冷蔵庫を開けて、湯気が立ちのぼる台所に立つけれど、どこか気がそぞろで、手元が何度か止まった。
食事を済ませても、どこか味気ない。
お風呂に入っても、心はあたたまらない。
それでも一縷の望みをかけて、パソコンの前に座る。
そっと電源ボタンを押して、画面がゆっくりと光りはじめるのを見つめる。
──通知は、やっぱり来ていなかった。
それは、ベルおねーちゃんと出会って以来、初めての“静かな夜”だった。
今までは、毎日のようにやり取りを交わし、笑っていた夜。
ほんの少しでも、その言葉に救われていたのだと、改めて思い知らされた。
若葉はそっと手を机の上に置いて、目を伏せた。
ほんの一瞬だけ、胸の奥にぽつんと穴が開いたような気がした。
温かかった時間の分だけ、静けさが冷たくしみていく。
──これが、孤独ってやつなのかな。
そう思ったその瞬間、若葉の頬を、小さくため息が伝っていった。
若葉は、そっと椅子に腰を下ろし、パソコンの前に向かった。
「続きを書こう──」
その言葉を、まるでおまじないのように心の中で唱えて、いつもの原稿ファイルを開く。
今連載している物語の続き。
小さな世界の、その先の物語。
キーを打ち始める指先は、どこかぎこちなく、それでも確かに物語の扉を開いていく。
──寂しさを、忘れるために。
──現実の静けさに、飲み込まれないために。
「大丈夫、私はここにいる」
若葉は、自分自身に言い聞かせるように、そっと目を閉じた。
そして心の奥にある、もう一人の自分──“渚”に語りかける。
「ねぇ、渚。今夜も一緒にいてくれるよね?」
画面の中には、まだ何も書かれていない真っ白なページ。
でも、若葉の中ではもう始まっていた。
誰にも見えない物語が、胸の奥からふわりと立ちのぼってくる。
いつもこうだった。
寂しさも、不安も、やりきれない気持ちも──
すべて、この世界の中に閉じ込めるようにして、言葉へと変えてきた。
小説を書いている間だけは、現実から少し離れられる。
心の中の“渚”と一緒にいられる。
そう思えることが、若葉を何度も救ってきた。
「だから大丈夫だよね。渚」
誰に聞かせるわけでもない、小さな声が、部屋の中にそっと溶けていった。
そして若葉は、静かにキーボードに指を添え、いつものように物語を綴り始めた。
──その時だった。
パソコンの画面の端に、小さな通知がふわりと浮かび上がる。
「ベルおねーちゃんから新着メッセージ」
その瞬間、若葉の指がピクリと動いた。
胸の奥で、何かがそっと弾けたような気がした。
「……っ!」
慌ててマウスを動かし、メールを開く。
『渚ちゃん、ごめんね。お仕事、ちょっと長引いちゃって……』
たった一文。
だけど、そこには確かな“存在”があった。
その言葉を目にした瞬間、若葉の目から、ぽたりと一粒の涙がこぼれ落ちた。
それは自分でも予想していなかったほど静かで、優しい涙だった。
画面の向こうにいる“誰か”が、自分のことを気にかけてくれている。
ただそれだけのことなのに、こんなにも胸が温かくなるなんて──
若葉は、もう一度画面を見つめた。
目の前にある言葉は、確かに“渚”宛てだったけれど、心の奥では“若葉”としても受け取っていた。
「ベルおねーちゃん……ありがとう……」
ぽつりとつぶやいた声が、部屋の静けさの中にやわらかく響いた。
寂しさも、不安も、少しの孤独も──
その一通のメッセージがすべてを包み込むように、若葉の心をそっと抱きしめてくれた。
ただ、繋がっている。
それだけで、こんなにも心強いんだ。
こんなにも、涙が出るほど嬉しいんだ──
若葉は、胸に広がるぬくもりを大切に抱きしめながら、涙ににじむ画面をそっと見つめ続けていた。
「ベルおねーちゃん、お疲れさまです。
今日はお仕事、大変じゃなかったですか?
あの……もし今、大丈夫なら──今日あった出来事を聞いてもらえたら嬉しいです」
少し緊張しながら、そんな文章を打ち込み、若葉──いや、渚はゆっくりと送信ボタンを押した。
すぐに返信が返ってきた。
『聞きたい、聞きたい!どうだったの?』
その文字を目にした瞬間、渚の頬がふわりと緩んだ。
「うん、聞いてもらえる……!」
心の奥にあった小さな不安が、ふっと溶けていくのを感じながら、自然と指がキーボードの上を走りはじめた。
──今日はね、あの人と少しだけちゃんとお話ができたの。
会社の中でも有名な人。
“黒川若菜さん”っていう女性で、すごくきれいで、頭も良くて、たぶん完璧な人って思われてる。
実際、私もそう思ってたんだ。
でも……今日、一緒にランチに行って、初めて気づいたの。
その人、本当はね──すごく優しくて、繊細で、あったかい人なんだよ。
渚の手は止まらなかった。
黒川がどれほどイラストを喜んでくれたか、
「狐の女の子、かわいい」って目を輝かせていたこと。
それだけでなく、趣味の話をしたら、まさかの“同じ小説好き”だったこと。
そして──
「ずっと仕事ばかりしてきて、ふと気づいたら、隣で笑い合える人がいなかったの」
そう語った黒川の言葉が、ずっと胸に残っていたこと。
『でもね、私は、黒川さんのそういうところが、すごく素敵だなって思ったんだ。
すごく頑張ってきたから、今少しだけ寂しさを感じてるのかもしれないけど、
きっとこれからは違う。
あの人、絶対に変わっていくって思う。
私は、そんな黒川さんのこと、すごく尊敬してるの。』
──そんな想いを、ひとつひとつ丁寧に、渚は言葉にしていった。
ただ出来事を“報告”しているんじゃない。
心から「知ってほしい」「伝えたい」と思ったからこそ、
渚の語る黒川若菜は、生き生きと、温かく、画面の向こうのベルおねーちゃんにも届いていくようだった。
送信したあとの渚は、少し照れながらも、満たされた気持ちでモニターを見つめていた。
彼女の中には確かに、黒川の優しさと、それを伝える喜びが、静かに息づいていた。
渚から届いたメールを読み終えたあと、若菜はそっとモニターに目を落としたまま、小さな声でぽつりとつぶやいた。
「……若葉ちゃんに、全部見透かされちゃった……」
その言葉は、どこか照れくさく、でも温かくて。
胸の奥にふいに灯された柔らかい光が、じわじわと広がっていくようだった。
画面に映る文章を、何度も、何度も、繰り返し読むたびに、若菜の瞳には涙がにじみ、やがてその涙は頬をつたって静かに落ちていった。
──言葉のひとつひとつが、こんなにも優しく、
こんなにもまっすぐに、心に届いてくるなんて──
胸がいっぱいで、すぐには言葉が出なかった。
だけど、伝えたい気持ちが、静かに、確かに溢れてくる。
若菜は深く息を整えると、ゆっくりと、キーボードに指を置いた。
『渚ちゃん──
すごく素敵な人と出会えたんだね。
本当に、よかった……。なんだか、私まで嬉しくなっちゃった。
その人と、これからももっと仲良くなっていってね。
黒川さんも、きっと渚ちゃんとお友達になれて、すごく喜んでると思うよ。
……なんかね、読んでてちょっと焼けちゃった。
でもね、それ以上に……すごく、嬉しいよ。』
涙が止まらないまま、少しだけ笑って、自分の想いをそのまま文章にのせていった。
“渚ちゃんの優しさが、こうして私の心をこんなにもあたためてくれるなんて”
──ありがとう。
そんな言葉を、胸の中で何度も繰り返しながら、
若菜は「送信」ボタンを押した。
その瞬間、小さな画面の向こうにいる“渚ちゃん”のことを、
愛おしいほどに、大切だと感じていた。