4 あっという間の時間
廊下に出た三人は、周囲に人の気配がないことを確認して立ち止まった。
黒川は一瞬だけきょろきょろと視線を走らせ、それからふわりと優しく微笑んだ。
「若葉ちゃん……狐娘、どうだった?」
その声は、いつもの凛とした上司の声とは違い、どこか親しげで、可愛らしい響きを持っていた。
その一言に、若葉の目がぱっと輝く。
「はいっ! 無事にもらえました! しかも、ベルおねーちゃんが新作のイラストまで添えてくれて……本当に感激でした!」
その言葉を聞いた黒川は、まるで少女のような表情で目を細めた。
「本当に〜? よかったぁ……若葉ちゃん、ありがとう!」
その嬉しそうな声色に、思わず若葉も笑みを返す。
――しかし。
その様子を横で見ていた千尋はというと、まるで現実を受け止めきれないようにポカンと口を開けたままだった。
目を何度も瞬かせ、見間違いじゃないかと黒川を見つめ直す。
「……う、うそ……⁈ あの黒川さんが……“狐娘”……って……?」
声にならないほどの衝撃を受けた千尋は、ついに持っていたノートブックをぽとりと落としてしまった。
その様子に、若葉はおかしくなって小さく吹き出す。
黒川はそんな千尋に気づくと、またふわりと微笑みながら一言。
「ふふっ。2人とも内緒よ?」
その瞬間、千尋はますます混乱し、顔を真っ赤にしながら何度もうなずいた。
「若葉ちゃん、ありがとう」
黒川若菜はにっこりと微笑んでから、ふと思い出したように言った。
「お礼に今日、ランチご馳走するね。……千尋ちゃんで、合ってる?」
いきなり名前を呼ばれた千尋は、びくりと肩を揺らした。
目をまんまるにして黒川を見つめ、口元を小刻みに震わせながら
「は、はいっ……!」
と、明らかにいつもの明るく軽やかな千尋とは違う、ぎこちない声を絞り出した。
その様子を見ていた若葉は、もう我慢できずに吹き出した。
「あはははっ!」と声を上げて笑いながら、黒川に説明する。
「黒川さん、千尋ちゃん、黒川さんの大ファンなんです。
だから今、めちゃくちゃ緊張してるだけなんです。
ほんとはもっと普通に話せる子なんですよ、変に思わないであげてくださいね」
若葉がそうフォローすると、黒川はふんわりと優しく笑った。
「大丈夫、大丈夫。わかってるよ。
……千尋ちゃんも、ランチ一緒に来られるかな?」
その言葉に、千尋は一瞬で背筋をピンと伸ばし、両手を前で揃えるようにして深くお辞儀をした。
「は、はいっ! 行かせていただきますので、よろしくお願いいたしますっ!」
その真面目すぎる返答に、今度は黒川も若葉も思わず笑い出してしまった。
まるで援護射撃のように、若葉が横から千尋の肩を軽く叩く。
「千尋ちゃん、大丈夫だってば。黒川さん、すっごく優しい人だから。
そんなにカッチカチにならないで、ね?」
千尋は顔を真っ赤にしながらも、うんうんとうなずき、ようやく少しだけ表情がほぐれていった。
若葉はそっと、ベルおねーちゃんからもらった大切なイラストを黒川に差し出した。
「これ……昨日、描いてもらったんです」
狐耳の女の子が微笑んでいる可愛らしいイラストに、黒川は目を細めて見入った。
「……うん、すごくかわいい。色も線も優しくて、すごく丁寧に描かれてる」
そう言って頷くその顔は、まるで本当に感動しているように見えた。
2人は携帯を繋いでイラストを若菜に送った
若菜は本当にうれしそうな顔をしている。
だがその裏で、黒川若菜の胸の内には、別の思いが静かに波立っていた。
(……渚ちゃんに、私が“ベルおねーちゃん”だって、言うべきかな)
(でも、どうなんだろう……夢の中で会ってるような、あのやりとりを壊すことになるのかもしれない)
(渚ちゃんが見てる“ベルおねーちゃん”って、本当に優しくて、理想の誰か……)
ふと不安になった。
現実の自分は、渚ちゃんの想像通りの“ベルおねーちゃん”ではないかもしれないと。
そんな思いを押し隠すように、若菜はそっと笑った。
目の前で嬉しそうにイラストを語る若葉と、それに相槌を打つ千尋――
その穏やかで可愛らしい光景を見ているだけで、心が少し温かくなる。
「じゃあ、お昼にまた来るからね」
黒川はそう言って、2人に軽く手を振り、自分の部署へとゆっくりと歩いて戻っていった。
その背中にはどこか、言葉にしきれない思いが滲んでいた。
「若葉あ~~~っ!どうするの!? ランチだって!!」
千尋が目をまん丸にして、廊下で叫ぶように声を上げた。
「想定外!緊張しすぎて、もうお腹痛いかもぉ……!」
あまりの勢いに、若葉は思わず吹き出しながらも、ふんわりと笑って言った。
「だいじょうぶだよぉ。黒川さん、きっとすっごく優しい人だもん」
「そうなんだけどさぁ~、でも突然すぎない!? こっち、何にも準備してないんだよぉ!?」
「準備って……じゃあ、行かないの?」
若葉が首をかしげると、千尋は即答で、
「行く行く!行くに決まってんじゃん!」
「じゃあ、いいじゃん。気にしなくても」
「それそれぇ〜!若葉ってさ、こういう時だけ妙に腹くくってるっていうか、普段と全然違うとこで落ち着いてるんだよねぇ〜」
「そんなことないもん。普通だよ」
「いや、絶対普通じゃないっ!」
2人はそんな他愛もない言い合いを続けながら、笑い合い、肩を並べてデスクに戻っていった。
心のどこかで、楽しみな気持ちを少しずつ膨らませながら──。
ランチの時間。
黒川若菜がふたたび2人の前に現れ、「行こっか」と穏やかに声をかけた。若葉と千尋は緊張しつつもそのあとに続き、3人は並んでエントランスを歩いていると
歩きながら、千尋がそっと若葉の耳元で囁く。
「若葉……なんか、みんな私たちのこと見てない?」
「気にしすぎだよぉ〜、千尋ちゃん。前だけ見てればへーき」
若葉は小声で笑いながら答える。だけど千尋は、視線を感じてソワソワと落ち着かない様子だった。
「だってさぁ〜、こんなに注目されたことないんだよぉ〜。心臓バクバクしてる……」
「私だってそうだよ。だけど大丈夫。黒川さんがついてるんだから」
そんな2人のやりとりを横から聞いていた若菜は、思わず吹き出してしまった。
「ふふっ……2人、本当に仲良しなんだね。なんだか羨ましいなぁ〜」
その言葉に、若葉が少しだけ不思議そうな顔をして尋ねた。
「えっ?どうしてですか? 黒川さんって、会社中の憧れの存在じゃないですか。仕事が出来て、綺麗で、すごく素敵な人なのに……」
若菜は少し歩みを緩めて、空を仰ぎながらぽつりと語った。
「憧れられてるかどうかなんて、私にはよくわからないの。ただね……私は、ただ目の前の仕事を一生懸命やってきただけなのよ。でも、気づいたらね──隣で他愛ないことで笑い合えるような、そんな関係の人が誰もいなくなってたの」
その言葉を聞いた瞬間、千尋の瞳がじわりと潤んでいった。
「え、えぇぇ〜〜ん……黒川さん……かわいそすぎます〜〜うえぇぇん……」
突然の号泣に、若菜も驚き、慌ててバッグの中からハンカチを取り出して千尋に手渡した。
「ちょ、ちょっと……泣かないで? 千尋ちゃん、ね?」
優しく声をかけながら、黒川はそっと千尋の肩に手を添えて、なだめるように撫でた。
その様子を見ていた若葉が、苦笑しながら言った。
「すみません、黒川さん……千尋ちゃん、泣き上戸なんです。すぐ泣いちゃうけど、こうすれば大丈夫なんで」
そう言って若葉は千尋をそっと自分の腕の中に引き寄せて、背中を優しくぽんぽんと撫でた。
「よしよし、もう大丈夫だよ。頑張った千尋ちゃん、えらいえらい」
千尋は若葉に身を預けながら、鼻をすすり、やがて小さく「ふん、ふん……」と頷いた。
泣き止んだ千尋の頭を撫でながら、若葉がそっと微笑む。
その微笑みを見て、今度は若菜がふわりと優しく微笑んだ。
風のようにあたたかくて、ちょっぴり泣けてくる──そんな瞬間だった。
3人はカフェのテーブルに並んで座り、温かいランチを囲みながら、自然と趣味の話題になった。
「若葉ちゃんと千尋ちゃんの趣味って、何?」
黒川若菜が微笑みながら尋ねた。
千尋が一番に答えた。
「私はどっちかっていうと体を動かす方が好きだから、スポーツ全般かな〜。見るのもやるのも好き!」
「へぇ〜!それは健康的でいいね」と若菜が感心すると、今度は若葉に視線を向けた。
「若葉ちゃんは?」
若葉は少しだけ迷うように俯いて、それから意を決したように顔を上げた。
「……あの、本当は内緒にしておきたかったんですけど……でも、黒川さんと千尋ちゃんには話してもいいかなって思って。私、小説を書いてるんです」
その瞬間、千尋が手に持っていたフォークを“カチャッ”と落としそうになりながら目を丸くした。
「えぇぇーーーーっっ!!?? なにそれ若葉!? 嘘でしょ!? うっそーーー!? 聞いてないよ!? 聞いたことないよ!? 若葉が!? 小説ぅ!? 書いてたのぉーーーっ!???」
千尋の声があまりにも大きかったので、周りのテーブルから一瞬こちらを見る人もいて、若葉は慌てて小声で答えた。
「ちょっ、ちょっと千尋ちゃん! 声、大きいってばぁ……」
「だってだって、そんなの初耳だしっ! え、マジで!? どんなジャンル? どこで読めるの!? あ、まさか賞とか取ってたりして!? 名前は!? ペンネーム!? あーもぉ頭追いつかないよ〜〜〜〜〜っ!」
千尋はテンションMAXで、ひとりで質問を連発しながらジタバタと両手を動かしていた。
そんな千尋の大騒ぎぶりに、若葉は少し困りながらも苦笑いを浮かべて、「だって……内緒だったんだもん」と、ぽつりと答えた。
若菜はそんな2人のやりとりを微笑ましく見守りながら、ふわっと優しく笑っていた。
若葉は、少し照れくさそうにしながら、それでもどこか誇らしげに言葉を続けた。
「それで……その小説を通じて出会った方がいるんです。私に絵をプレゼントしてくれた人で、『ベルおねーちゃん』って呼んでるんです。すごく優しくて、いろんなことをそっと教えてくれる人で……私にとって、本当に憧れの人なんです」
若葉の語る言葉ひとつひとつが、まるでキラキラと輝いているようで、千尋も黒川も静かに耳を傾けていた。
「その方も小説を書いてるの?」と黒川が優しく問いかけると、若葉は即座に頷いた。
「はい。ベルおねーちゃん、本当にすごいんです。絵も上手だし、文章もサラサラっと書けちゃって……しかも、今度本も出版されるそうです」
「へぇ〜……それは本当にすごい方なのね」
黒川はふんわりとした微笑みを浮かべながら、感心したように何度も頷いた。
その様子を見ていた若葉が、ふと尋ねた。
「黒川さんは……趣味、ありますか?」
思いがけない質問に、黒川は少しだけ肩をすくめて、頬を染めながら恥ずかしそうに答えた。
「……実はね、私も、小説……書いてるの」
その瞬間――。
「えぇぇーーーーっっっ!!??」
今度は千尋の大声が、カフェの中に響き渡った。
椅子から転げ落ちそうになるほど体を仰け反らせ、目をまんまるに見開いて、
「く、黒川さんも!? 小説ぅ!? ほんっとに!? えええ!? 想像もしてなかったぁ〜っ!」
若葉は苦笑いしながら、またやっちゃった……といった表情で千尋を見ていた。
黒川は少し驚きながらも笑って、
「ふふっ、驚かせちゃった?」と、まるで少女のように小さく首をかしげた。
「だ、だって……なんか、かっこよすぎて……もう……想像の域、超えてますぅ〜〜〜!」
千尋は両手で顔をおさえてバタバタしながら、嬉しそうに叫んでいた。
そんな千尋を見て、若葉も黒川も、つられるように笑い声をあげた。
まるで、長い間ずっと一緒にいたかのような、自然なひとときだった。