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3 約束


『それでね、ベルおねーちゃんにお願いがあるの。

今日、その人がね、ベルおねーちゃんからもらった絵のことを“かわいい”って言ってくれたの……。

それで、その人も狐の女の子が欲しいって言ってて……。

だから、もしよかったら――その人にも、プレゼントしてあげたいの。

ダメだったら全然大丈夫。でも、あげられたら嬉しいなって……。いいかなぁ?』


静かな夜。

パソコンの画面に浮かんだそのメッセージを読んだ若菜は、自然と口元がほころんだ。

声に出さなくても伝わってくる渚の気持ち――

誰かのために、純粋に何かを願うその姿勢が、まるで光を放っているように見えた。


「ほんとうに……優しい子だなぁ、渚ちゃんって」


思わず、そんな言葉がこぼれる。


自分のもらったものを、今度は誰かに分けてあげたい――

しかも、それが“自分にとって特別な人”だからこそ、大切に届けたいと願っている。

その素直さも、あたたかさも、まっすぐすぎて眩しいくらいだった。


若菜の胸の奥に、やわらかな温もりが広がっていく。

渚のような子に出会えたこと、今こうして言葉を交わせていること――

それが、なによりも嬉しくて、ありがたくて。


微笑みはなかなか消えなかった。

いや、消したくなかった。


渚ちゃん……あなたに、出会えてよかった。


心の中でそっとそうつぶやきながら、若菜は返事の言葉を静かに打ち始めた。



『渚ちゃん、いいよ。今から送るね。

渚ちゃんと同じものでいいかな?

それとも、何か違うのがいい?』


メッセージを送ったあと、ほんの少しだけ迷った。

けれどすぐに、もう一通打ち出す。


『同じものでいいなら、私があげるから。

代わりに、渚ちゃんは他の子を選んでくれる?』


その直後、すぐに返ってきた返事。


『もちろん!じゃあ……これにしようかな』


添えられていたのは、ふわりとした毛並みの、少し照れた表情の狐の女の子のイラストだった。

その姿を見た瞬間、渚の目が輝いた。


「かわいい……」

思わず、声に出してしまうほどの愛らしさだった。


すぐに、心を込めて返信を送る。


『ベルおねーちゃん、これ、私ももらってもいいですか?

すごく……かわいすぎますぅ』


その言葉を目にした若菜は、思わず手を口元に添えて、静かに笑みを浮かべた。

渚の反応が、可愛くてたまらなかった。

画面越しの言葉ひとつひとつが、まるで小さなプレゼントのように、胸の奥をあたためていく。


――こんなふうに、誰かと心を交わせる日がくるなんて。

思ってもみなかった。


渚ちゃんは私の顔も知らない。

けれど、気持ちだけは確かにつながっていた。


その夜、ふたりの部屋にはそれぞれのやさしい光が灯っていた。

柔らかいまなざしと、微笑みのまま交わされる静かなやりとり。

言葉のひとつひとつが、あたたかな毛布のように、心を包んでいく。


今夜は――渚にとっても、若菜にとっても、

心がふわりとほどけていくような、そんなやさしい夜だった。




朝の通勤ラッシュが落ち着いた頃、若葉が会社のエントランスを通り抜けてデスクに向かうと、すでに千尋が席で待ち構えていた。


「若葉〜!おはよぉ〜!」


満面の笑みで手を振る千尋のテンションは、朝からかなり高め。


「千尋ちゃん、おはよう」


若葉が穏やかな声で返すと、千尋は椅子ごとぐいっと前のめりになりながら、目を輝かせて言った。


「ねぇ若葉、今日……来ると思う〜〜!?」


「え?」

若葉は少し首をかしげながら、わざととぼけたように返した。


「誰が来るの?」


その瞬間、千尋は大げさに肩をすくめてのけぞった。


「えぇぇぇぇ!? 若葉ぁ〜〜!? 覚えてないの!? 昨日のことだよ!? 昨日の今日なのにぃ〜〜!?」


「なんだっけ〜?」

口元を押さえて笑いをこらえながら、若葉がさらりと返すと――


「ヒェェ〜〜ッ! 絶対ヤバいって!!!」

千尋は椅子から立ち上がる勢いで騒ぎ出す。


「うそ、うそ。わかってるってば。ちょっとふざけただけだよぉ〜」


若葉が悪戯っぽく笑うと、千尋はぷぅっと頬を膨らませて言った。


「もぉ〜〜! あんた、見かけによらず意外とひどいよね!」


その言葉に、若葉は肩をすくめながら笑った。

次の瞬間、2人は目を合わせ、吹き出すように笑い合った。


まるで、いつものリズムが自然と重なったみたいに。

朝の始まりにふさわしい、軽やかで心地よい空気がそこに流れていた。


朝の和やかなやり取りを終え、オフィスにはいつものように穏やかな時間が流れ始めていた。


若葉はパソコンに向かいながら、落ち着いた手つきで日々のルーティンをこなしていく。

いつもと変わらない仕事の流れ、いつもと変わらない景色――

のはずだったのに、隣から何やらそわそわとした気配が伝わってくる。


ふと視線を向けると、千尋が椅子に座ったまま落ち着かない様子で貧乏ゆすりをしていた。


「ねえ若葉、なんか今日……落ち着かないよねぇ」


そう小声で話しかけてきた千尋に、若葉はふっと微笑んで優しく返す。


「千尋ちゃん、集中、集中。お仕事中だよ〜」


その一言に、千尋はハッとした顔をして体を起こすと、少しだけ姿勢を正して言った。


「そ、そうだよね。ソワソワしてるとこ、黒川さんに見られたら……マイナスポイントかも!」


そう言った後、自分で自分を鼓舞するように軽く拳を握って呟いた。


「よし……がんばるぞっ!」


その声に少しだけ笑ってしまいそうになるのをこらえながら、若葉はまた静かに画面へと目を戻した。


それからの千尋は、昨日に引き続きいつも以上にテキパキと仕事をこなしていた。

時折ちらりと入り口の方を気にしながらも、しっかりと手を動かしている。

そんな千尋の姿を横目に、若葉は少しだけ口元をゆるめながら――どこか嬉しそうに、その背中を見守っていた。





午前十時を少し過ぎた頃――

それまで穏やかに流れていたフロアの空気が、突然ざわざわと騒がしくなり始めた。


最初は気づかなかった若葉も、隣からひそやかな声が聞こえてきて、ようやく顔を上げた。


「……きたぁ〜」


小さく呟いたのは千尋だった。まるでテレビの中のスターでも登場したかのような口調で、目を輝かせている。


若葉が顔を上げると、フロアの入り口付近に黒川若菜の姿があった。

黒いスーツに身を包み、きりりとした姿勢で隣を歩く部長と何やら真剣な話をしている。


その姿はどこか凛としていて、まるでこの部屋の空気さえも一瞬引き締まったかのようだった。


やがて、部長がふと若葉たちの方へ手を差し伸べ、何かを伝えるように指をさした。

黒川はその視線をたどるようにこちらを見た――そして、柔らかな微笑みを浮かべた。


「わ、若葉……黒川さん、こっち見てる……それに、笑ってる……どうしよう……」

千尋が小声で肩をすくめながら、ソワソワと椅子に座り直す。


けれど、そんな千尋の様子とは対照的に、若葉は思ったよりも落ち着いていた。

それはきっと――昨夜、ベルおねーちゃんと温かいやりとりを交わしたから。

あの夜のやさしい言葉が、まだ胸の奥に静かに残っていた。


その瞬間、黒川が一歩、そしてまた一歩と、こちらに向かって歩き始めた。

音もなく、けれど確かな存在感を持って、若葉たちのいるデスクへと近づいてくる。


周囲の視線が一斉にこちらへと集まり始め、ひそひそとした声があちこちから聞こえてくる。


「えっ、白川さんと……なんで……?」

「黒川さんが……あんな笑顔で……?」


驚きと好奇心が混ざった空気が、フロア全体をそっと包み込んでいく中で――

若葉だけは、背筋をまっすぐにして、静かにその足音を受け止めていた。




「若葉ちゃん、おはよう」


そう声をかけてきたのは、あの黒川若菜だった。

柔らかな声色に、ふわりとした微笑みを添えて――


若葉はすぐに反応し、少しだけ緊張しながらも丁寧に頭を下げた。


「お、おはようございます」


ふと目を合わせると、その笑顔は思いのほかやさしく、どこか安心感すらあった。


「今、お仕事中なのはわかってるんだけど……少しだけ、お時間いただけるかしら?」


黒川が優しく問いかけると、若葉は驚きながらもすぐに頷いた。


「はい、だいじょうぶです」


すると黒川は、隣で固まっていた千尋の方にも視線を向けて、同じように微笑みかけた。


「あなたも……ちょっとだけ、大丈夫かしら?」


その瞬間、千尋の肩がピクリと揺れた。


「はっ……は、はひっ!? だっ、大丈夫ですっっ!!」


まるで面接に臨む新入社員のように、背筋をビンと伸ばして答える千尋。

顔は真っ赤になり、手元のペンをポロリと落としかけて、慌てて拾いなおす。


「千尋ちゃん、緊張しすぎ〜!」

若葉は思わずクスッと笑って、やさしく千尋に声をかけた。


「大丈夫だよ。黒川さん、すごく優しい人だから」


そう言って微笑む若葉の言葉に、千尋は少しだけ肩の力を抜いたように小さく頷いた。

とはいえ、顔の赤みはまだ消えておらず、額には小さな汗がにじんでいた――


そんな千尋の様子に黒川もふんわりと笑いながら、「じゃあ、ちょっとだけね」と2人を廊下へと誘ったのだった。





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