2 「人それぞれの光」
お昼休み。
若葉と千尋は、いつものように社内の休憩スペースで向かい合ってランチを広げていた。
けれど、今日の話題は食事どころではない。
ふたりの頭の中は、すっかり“今朝の出来事”でいっぱいだった。
「ねえ若葉〜、黒川さんのこと……どう思った?」
箸を持ったまま、千尋がニヤリと笑って身を乗り出してくる。
若葉は少し考えるように目を泳がせながら、ぽつりと答えた。
「どう思うって……うーん、やっぱりすごい人だなぁって」
「それだけっ!?」
千尋がややしらけ気味に反応すると、若葉は少し肩をすくめて小さく笑った。
「だって、本当にすごい人なんだもん。
でも……狐の女の子、かわいいって言ってくれたから……いい人なんだなって思った」
「そこぉ〜!? そこに食いつく!?」
千尋は思わず声を上げ、両手で軽くテーブルを叩く。
「若葉、あの黒川さんが、私たちみたいな一般社員に話しかけてくれたんだよ!?
もっと感動するとこあるでしょ!」
「うーん……携帯拾ってくれて、優しいなって思ったよ?」
若葉はのんびりと答えながら、お弁当の卵焼きを口に運ぶ。
「……だめだこりゃ……」
千尋は呆れたように言いながらも、どこか楽しそうだった。
「え? どうして? 優しいじゃん、黒川さん」
若葉のその素直な言葉に、千尋は思わず吹き出しそうになりながらも、微笑んだ。
ふたりのランチタイムは、今日ばかりは食事よりも会話の方が熱を帯びていた。
若葉は、少し考えるように視線を落としながら、ぽつりと呟いた。
「でもね……私、みんなが言ってる黒川さんとは、ちょっと違う気がしたんだ。
本当は……すごく繊細で、優しい女の人なんじゃないかなぁって」
その言葉を聞いた千尋は、思わず口をぽかんと開けたまま固まった。
「わ、若葉の発言にしては……なんか、すごく深いんですけど!? 驚きぃ〜!」
若葉はむくれたように千尋を睨みつつ、口を尖らせる。
「な、なんで〜! そんな言い方ひどいよ〜。
私だってたまには、ちゃんといいこと浮かぶんだからっ」
「ごめんごめん! でも、ほんと意外だったからさ」
千尋は笑いながら手をひらひらと振って謝ると、ふっと表情を緩めて空を見上げた。
「でもさぁ……やっぱり黒川さん、憧れるよねぇ。
あんな人が上司だったら、きっと私、もっと頑張れると思うんだよねぇ〜」
その言葉に、若葉はにっこり笑って首を横に振った。
「ううん、それは違うよ、千尋ちゃん。
今の部署でちゃんと頑張ってたら、いつか黒川さんが気づいてくれるかもしれないし……もしかしたら、認めてくれて、引っ張ってくれるかもしれないよ?」
千尋はその言葉に少し驚いたように真剣な表情で大きくうなずいた。
「……確かに! 午後から気合い入れてやるわ!」
「うん。私も頑張るからね」
そう言い合いながら、ふたりはお弁当の残りを口に運んだ。
いつものランチタイムが、今日は少しだけ心強くて、少しだけ温かかった。
ランチを終えた午後、社内にはゆるやかに眠気の漂う時間が流れていた。
けれどその中で、ひときわ活気に満ちていたのが千尋だった。
「はいはい、書類ここね!」「この確認、あとで回すからお願い〜!」
そんな軽快な声が、デスク周りにテンポよく響いていた。
――理由は明白だった。
「黒川さんが、もしかしたら来るかもしれない」
その可能性に胸を躍らせた千尋は、午後からずっと“いつも以上の千尋”だった。
書類の整頓ひとつ取ってもいつになく几帳面で、メールの返信スピードもやたらと早い。
それどころか、デスクの上の文具の位置まで気にして、小さな鏡で前髪を直す姿まで見られた。
そんな千尋の変化に、周囲の同僚たちも思わず目を丸くしていた。
「今日の麻生さん、やけに気合い入ってるよね……」
そんなささやき声が聞こえるたびに、千尋はわざとらしく咳払いをして平静を装おうとしていたけれど、耳まで赤く染まっていた。
若葉はそんな千尋の姿を横目で見ながら、そっと笑みを浮かべた。
いつもはおしゃべりでちょっとお調子者の千尋が、一生懸命になっている姿が、どこか可愛らしくて。
――まるで、ちょっと背伸びした妹を見守っているような、そんな気持ちだった。
「あぁ〜、終わったぁ〜!」
夕方の空気に解放されるように、千尋が声を上げた。
肩を大きく回しながら、少し誇らしげにデスクから立ち上がる。
「若葉ぁ〜、帰ろっ!」
「うん、いいよぉ」
若葉もゆっくりと立ち上がり、鞄にそっと書類をしまう。
ふたりは並んでロッカーへ向かい、身支度を整えると会社の出口へと歩き出した。
ビルの自動ドアが音を立てて開き、外の夕暮れの風がふたりの髪を揺らす。
オレンジ色の空の下で、千尋がぽつりと口を開いた。
「ねえ若葉、私……今日すっごく頑張ったと思わない?」
その問いに、若葉は迷いのない声で答える。
「うん、ほんとに頑張ってたよ。午後からずっと気合い入ってたもん」
「でしょ!?」
千尋は嬉しそうに笑って、軽く腕を振る。
「やっぱさ、一生懸命やると……なんて言うの? 充実感? うん、それそれ。
気持ちがスカッとして、なんか、いいよね!」
そんな千尋のはしゃぐ姿に、若葉はふっと笑みを浮かべる。
無邪気でまっすぐなこの友達が、ちょっと眩しく思えた。
「千尋ちゃんって、ほんと単純だよね。
でも……そこが面白いんだよね」
若葉の言葉に、千尋が「えーっ!ひどい〜!」とふくれっ面をする。
「若葉ぁ〜!それ、褒めてないからね〜!」
けれどその表情がまた可笑しくて、若葉は思わず笑ってしまう。
そして千尋もつられて、ふたりは顔を見合わせて、笑い声を夜風に溶かしていった。
通い慣れた帰り道。
何気ない会話の中に、ふたりだけの温かい絆が、確かに息づいていた。
部屋のドアを開けた瞬間、若葉の肩からふっと力が抜けた。
会社での顔が少しずつほどけていく。
玄関で靴を脱ぎ、鞄をそっと置いて、冷蔵庫を開ける。
お気に入りのマグカップに冷たいお茶を注ぎながら、自然と口元が緩んだ。
「ただいま、渚」
心の中でそう呟いた。
それは誰かに言う挨拶じゃなく、自分自身に向けた静かなスイッチの切り替えだった。
もう一人の自分――茅ヶ崎渚。
小説を書く時だけに現れる、素直で、少しだけおしゃべりで、心の奥をさらけ出せるもうひとりの“わたし”。
飲み物を手に、机の前の椅子に座る。
パソコンの電源を入れると、馴染みのある光が画面いっぱいに広がった。
タイピングの準備をしながら、自然と心がやわらいでいく。
――ベルおねーちゃん、今夜もどこかで執筆してるかな。
そう思っただけで、胸の奥にあたたかい灯りが灯る。
ネットの世界では一番近くにいる、大切な人。
渚はゆっくりと指を動かし始めた。
もう一人の自分として過ごす、やさしくて自由な夜が、静かに始まっていた。
パソコンが立ち上がると同時に、いつものブログページを開いた。
コメントや閲覧数を何となく確認しようとした時、右下の小さな通知に気がつく。
「……メール?」
画面に表示された送り主の名前を見た瞬間、渚の胸がきゅんと高鳴った。
そこには、あの名前があった。
――『結衣と姉 希望の王』
「あぁ……ベルおねーちゃんからだ……」
思わず声に出してしまった。
それは小さなつぶやきだったけれど、渚の頬はすでにふわりと紅く染まり、指先にはそわそわとした熱が宿っていた。
クリックする手が、ほんの少しだけ震える。
ワクワクと緊張が入り混じった気持ちでメッセージを開くと、優しい言葉が画面に広がった。
『渚ちゃん、お仕事お疲れさま。
今夜、小説書く?
もしよかったら、少しお話ししませんか?』
その一文を読んだ瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。
まるで、自分だけの特別な場所に招かれたような気持ち。
声をかけてもらえること、名前を呼ばれること――
それだけでこんなにもうれしくなるなんて。
渚は思わず笑みをこぼして、画面に向かって小さくつぶやいた。
「……ベルおねーちゃん……」
その言葉は、まるで魔法のように部屋の空気をやさしく変えていく。
心がそっと、あたたかな灯に包まれていくようだった。
「ベルおねーちゃん、今帰ってきました。
渚も、ベルおねーちゃんとお話ししたいです。」
そう打ち込んで、渚は深呼吸ひとつ。
送信ボタンを押すと、ほんの数秒で通知が鳴った。
――返信が来た。
『渚ちゃん、お疲れさまでした。
今日もお仕事、頑張ったんだね。忙しくなかった? 疲れてない?』
その文字を見つめるだけで、胸の奥がふわっとあたたかくなる。
スクリーンの向こうにいるのに、まるで隣に寄り添ってくれているような、やさしい言葉。
ベルおねーちゃんの気遣いが、言葉のひとつひとつからまっすぐ伝わってくる。
渚はそっと微笑んで、ゆっくりとキーボードを打ち始めた。
『全然大丈夫です。仕事はいつも通りでしたけど……
でも、今日は事件が起きたんです。
すごい人が、私に話しかけてくれたんです』
そこまで打ち終えると、思わず指が止まる。
もう一度文章を見直して、画面の中の小さな「送信」ボタンにそっと指を添えた。
――送信。
ほんの短いやりとり。
だけど、心はたしかに、誰かと繋がっていた。
『会社の上の人なんです。
その人、女性で美人で仕事もすごくできる人なんです。
私とは全く違うタイプで……本当にカッコよくて、憧れの女性です』
画面に浮かび上がったそのメッセージを見た瞬間、若菜はふっと微笑んだ。
その微笑みはどこか嬉しさと切なさが混ざったような、やわらかい表情だった。
――やっぱり、渚ちゃんって……若葉ちゃんだったんだね。
小さな違和感が、少しずつ繋がっていく。
今朝、自販機の前でふいに落とした彼女のスマホ。
そこに映っていた待ち受け画像。
それは、自分がかつて“狐の女の子”として作った、渚にだけ贈ったキャラクターだった。
偶然にしては、できすぎていた。
あのとき、ふと見えた画面に心が引っかかった。
そして、自分でも驚くほど自然な口調で「可愛い待ち受けだね」と声をかけていた。
――気づいていたのに、知らないふりをして近づいたのは、どうしてだったんだろう。
若菜は静かに目を伏せながら、自分の中の“何か”に問いかける。
興味? 好奇心? それとも……。
“あの子が、渚だったらいいな”
気づいた瞬間、心のどこかでそう願っていた自分がいた。
だから、あえて待ち受けのことを話題に出して、彼女の反応を見た。
どこかで繋がっていたいと、そう思ったから。
若菜の胸の奥に、ふわりと灯る想い。
それはまだ、名前のない気持ちだった。
『その女性の上司、怖そうなの?
渚ちゃんはどう思うの?』
送信ボタンを押した直後、若菜はふっと指先を見つめた。
なんで……こんなこと聞いてしまったんだろう。
まるで自分をどう思っているかを確かめているようで、恥ずかしくなった。
胸の奥が、少しだけチクリとする。
渚の口から「怖い人」とか「苦手な人」とか、そんな言葉が返ってきたら――
自分でも気づかぬうちに、それを怖がっていた。
もしかして、私は…彼女にどう思われているかを気にしてる?
気がついたときには、胸の奥にじんわりと不安が広がっていた。
その不安をごまかすように、若菜はパソコンの前でそっと息を吸った。
もう、気になって仕方がない。
すぐに再読込をしてメッセージを確認した。
画面に現れた返信は、やさしい言葉だった。
『今日、初めて顔を合わせて、ほんの少しだけ話しただけだけど――
その人、すごく優しい人だと渚は思うの。
会社の人たちが言ってるのって、きっと表面だけなんじゃないかなって思うんだぁ』
その一文を見た瞬間、若菜の胸にふわりと温かいものが広がった。
言葉にこそ出せないけれど、渚のまっすぐな眼差しが、まるで目の前にあるように感じられて。
そっと息を吐いて、若菜は小さく微笑んだ。
渚ちゃん……やっぱり、やさしい子なんだなぁ
そのやわらかな想いが、若菜の中の不安を、静かに溶かしていった。