45話 村人の距離感 村人たちはエミリアに対し一線を画して接する。
エルデン村に足を踏み入れて数日。朝の空気は穏やかで、鳥のさえずりが空に響く。けれどエミリアは、村人の視線にいつも微かな温度差を感じ取っていた。
「おはようございます」
宿の前で声をかけると、隣家の老婦は一瞬ぎょっとしたように目を見開き、すぐに小さく会釈して通り過ぎる。礼儀を欠いてはいないが、親しさは漂わない。その奥には「よそ者をどう扱うべきか」という戸惑いが色濃く見える。
パン職人ノルの店では、妻のマルタが焼きたてのパンを並べながら、気を遣うように声をかけた。
「……旅のお方、村の暮らしに慣れましたか?」
「ええ、少しずつ。思った以上に静かで、落ち着く場所ですね」
「それは良かった……。ただまあ、ここでは便利な品は少なくて。どうか気を悪くなさらないでくださいね」
その声音は柔らかいが、距離が埋まったわけではなかった。微笑の奥に、警戒と“間合い”が息づいている。
村の共同井戸。人々が集まり、桶を下ろして水を汲む。その輪に加わろうとしたとき、若い農婦が小さく息を呑むのが聞こえた。
「あの人……。やっぱり魔法使いなんでしょうか」
「そうらしいよ。誰かがそう言ってた」
「火を呼べるって……ほんと?」
「けど、この前薬草を見分けてくれたんだ。便利といえば便利だよな」
エミリアは水桶を引き上げつつ、わざと平然を装った。聞こえる囁きはあからさまな陰口ではない。ただ「役に立つかもしれない」と「危ないかもしれない」という相反する声が同時に混じっている。
井戸から戻る途中、農夫タカシが勇気を振りしぼり声をかける。
「……あの、もしよければ、畑で虫除けに効く草を教えていただけませんか?」
思わずエミリアは目を細め、微笑を返す。
「ヨモギを煎じて畝にまけば虫は寄らないわ。乾かした葉を焼いてもいい。子供の熱にも使えるわね」
「おお……やっぱり物知りだ!」
農夫の感嘆と同時に、周りの村人たちの表情がわずかに揺れる。「やっぱり役に立つ人かもしれない」と。だがその裏に、「それでも魔法使い」という畏怖は残っていた。
夕暮れ時。畦道を歩いていると、子供たちが三人、草陰から彼女を覗いていた。
「見ろよ、大人たちが言ってた人、あの人だ」
「火を出せるんだって」
「でもこの前、リアナお姉ちゃんの薬草にいいって草を教えてくれたんだってさ」
「本当に魔女なのかな?」
「本人に聞けばいいじゃん」
エミリアは足を止め、少しだけ振り返った。子供たちは怯えながらも逃げずに視線を交わす。その好奇心に、彼女の胸はくすぐったい温もりで満たされた。
「あなたたち、そんなに私を見てどうするの?」
思い切って声をかけると、最年少の少女が意を決して訊いた。
「……火を出せるの?」
しばらく沈黙したあと、エミリアは掌にほんのわずかな温かな火花をともした。決して熱さをまとわず、蛍のように消える小さな炎。
子供たちは目を輝かせた。「すごーい!」と歓声があがり、すぐに「でも、ちょっと怖いね」と囁き合う。
「怖いと思えるのは大事よ。火は人を助けもするし、傷つけもするから」
その一言は、長い宮廷生活で身に染みた真理の吐露だった。
数日が経ち、エミリアの存在は少しずつ村の輪に混じり始めていた。
ある夕暮れ、農婦が腕をおさえて困っていると、エミリアは声をかける。
「どうしたの?」
「薪割りで少し切ってしまって……」
エミリアは野の薬草から作った軟膏を取り出し、患部にそっと塗る。
「これで数日は楽になるはず。傷跡も残りにくい」
「……ありがとう。ほんとに助かりました」
その場にいた他の村人が小さく呟く。「やっぱり便利なんだな……」
しかし同時に、「下手に怒らせたら怖いんじゃないか」という目も混じっていた。
鍛冶屋のグレンの小屋を訪れたとき、彼も軽く顎を引いたように彼女を見た。
「……村じゃ魔法は好かれちゃいねぇが、あんたは上手くやってるみたいだな」
「そう見える?」
「子供らがあんたに目を輝かせてる。それだけで、この村にゃ意味がある」
その言葉は、エミリア自身も気づかぬほど心を和らげた。彼女はずっと“監視者”として人を遮断してきた。だが今は、炎の扱い方や薬草の知識で、「誰かを助けてしまう」ことが日常に溶け込んでいく。
宴のあと、村人の小さな輪の中で、おずおずと声が上がった。
「エミリアさん……これからも村にいてくれますか?」
「ええ……私を必要とするなら」
その答えに場の空気は少し柔らかくなり、しかし完全に解けたわけではない。村人たちはまだ彼女に一線を引いていた。
けれどその線は日ごとに細く曖昧になり、やがて「境界の内側」に足を踏み入れる予感を孕んでいた。
ある日の夕刻。村の広場で子供たちが火種を落として小さな布を焦がしてしまった。瞬時に慌てふためくが、そこにエミリアが歩み寄る。
「慌てないで。火は“味方”にも“敵”にもなるものよ」
彼女は掌をかざし、柔らかな魔力で炎を吸い込むように消した。周りの村人たちはどよめく。
「やっぱり……怖いもんだな」
「でも、助かったじゃないか」
エミリアは村人たちに視線を向ける。「火は恐ろしい。でも、正しく扱えば料理にも暖にもなる。ただ、怖がる気持ちは忘れないでください」
その落ち着きある言葉は、村人たちの胸に複雑な波を立てる。畏怖と感謝が同居する。
子供たちは、不安げに彼女を見つめながらも「ありがとう、お姉ちゃん!」と口々に叫んだ。
ある農夫が、病気の子牛の世話に困っていた。獣医も遠く、どうしようもなく途方に暮れていたとき、エミリアは声をかけた。
「乾いた咳なら、この草を煎じて飲ませてやるといいわ」
「えっ、そんなことできるのかい?」
「魔法じゃない。ただの草の効能。魔法よりも頼りになることもあるのよ」
半信半疑の農夫が言われた通りにすると、数日で子牛は元気を取り戻した。村人たちの中に柔らかい噂が広がる。
「あの人、ただの魔女じゃないな」「薬草にも詳しいらしい」
「もしや監視者じゃなく……ただの旅の人なんだろうか?」
エミリアは笑みを見せず、ただ黙って応えていた。だが村人の眼差しは、以前ほど冷たさを持たなくなっていた。
秋祭りの準備。村人たちは櫓の組み立てや料理の支度に忙しい。エミリアは表立って手を出さなかったが、誰かが怪我をすれば傷を癒し、子供が迷子になれば探し出した。
「……便利な人だな……」
「でも近すぎると、やっぱり怖いんだ」
そんな囁きも聞こえる。だが気づけば、祭りの囲炉裏の火起こしを頼まれているのは彼女であり、薬湯を分かち合う輪の中に彼女の席もあった。
「エミリアさん、座って」
「ありがとう……でも私は、まだ外の人でしょう?」
「外でも中でも……役に立ってくれるなら、それで十分だ」
村人たちなりの不器用な受け入れ方だったが、エミリアの胸には初めて安らぎが広がった。
ある夜、リアナがぽつりと口にした。
「……ねえ、エミリアさん。みんなあなたを少し怖がってる。でも、心のどこかで“いてほしい”って思ってるの」
「矛盾しているでしょう?」
「人間なんてそんなものよ。怖いものほど、心のどこかで頼ってしまう」
エミリアは黙って頷いた。宮廷でも何度も目にした光景。だがそれは支配でも強制でもなく、生活の中で芽生える自然な感情だった。
子供の一人が、エミリアに花冠を差し出した。
「……これ、あげる。お姉ちゃん怖いけど、優しいから」
エミリアは呆気にとられ、やがて小さな笑みを零した。頭に花冠をのせると、周りの子供たちは歓声をあげる。
そこに見守る大人たちの眼差しはまだ完全な安堵ではない。けれども、その視線の色は、最初に会った日のような冷え切った拒絶ではなかった。
夜更け、宿の窓辺でエミリアは独りつぶやく。
「……一線を画す。それでも、その線は日に日に薄れてゆく」
村人たちは彼女をまだ“仲間”とは呼ばない。だが“異物”として遠ざけることももうない。そうした曖昧さの中に、居場所を探し当てる静かな予感があった。
炎の使い方ひとつ、薬草のひとつ。ささやかな日常のやりとりが、確かに距離を縮めていた。
エミリアは明日も、ただ村人の中に自分を置こうと思った。役割でも監視でもなく、「誰かを手助けする存在」として。




