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42. 村への流れ 都からの旅路、偶然か必然か導かれるように強引に着いたエルデン村。

 エミリア・レードの旅は、最初から予定通りのものではなかった。


 都の深い石畳を抜け、灰色の早朝に馬車の車輪が静かに軋む。彼女の隣には荷物がひとつ、膝の上には魔導士だけが持つ異様な重みをたたえた鞄。


「ここまで来ることになるとは、思っていなかったわ」


 窓の外には、次第に都会の輪郭が薄れていく。都の宮廷で交わされた命令。「シオン=クレストリアの監視」。ごく短い要件と名前の書かれた手紙だけが、旅の指針となっていた。


 馬車の御者が、ふとエミリアに話しかける。


「……奥様、もうすぐ街道を離れますが、ほんとうによろしいので?」

「ええ、ここからは歩いて向かうつもりです。――ありがとうございました」


「この先は……何もございませんが」

「それがいいのです。何もない場所を歩くのもたまには」


 馬車が去ったあと、エミリアは一人、かすかに靄の漂う丘道を歩き出した。道標も途切れがち、時折、鳥や風の音だけが耳に残る。魔法の護符や旅の便利道具を持ち歩いてはいたが、意識的にそれらを使わず、足で土を踏みしめる。


(なぜ、私は“わざわざ”こんな不便な方法を選ぶのだろう……)


 彼女の心の内で、答えられぬ問いが何度も反響する。



 旅路の小さな村はずれ――地図にも載らないような農家の灯り。道に迷った訳ではなかった。だが街道から逸れ、林を抜け、急な坂を下りきった時、濃い朝霧の先に突然開けた田園が現れた。


 足元に転がる石を払い、靴に泥をつけたまま、小さな橋を渡る。川のせせらぎ。吹き抜ける風。見知らぬ集落の輪郭が、霧の先にぼんやりと浮かび上がる。


「ここが……エルデン村?」


 名も知らず、地図にも頼らず、導かれるように辿り着いたこの場所――。

 

「偶然か必然か……まるで道が私を連れてきたみたい」


 エミリアは周囲を冷静に観察しながらも、魔法的直感のような「この場でしかありえなかった」という感覚を覚えていた。


 理由もない奇妙な必然性。それもまた、魔法使いが“運命”を信じすぎないための、ささやかな防壁だったのかもしれない。



「失礼します、旅の者ですが……」

 村の入口で、まず声をかけたのは、年配の男。「薬草集めかね? こんな山奥まで変わった趣味だな」

「仕事の関係です。地方の薬草標本を集めています。都の商館でも注文が多くて」


「ほう、都の人だったか。魔法使いみたいな雰囲気だな」


 エミリアはほんのわずか目線をずらし、微笑みで返す。魔導士風の身なりが田舎で目立つことを隠そうともしない自分に皮肉交じりの自覚。


「ええ。子供のころ田舎に縁があったので、不便も嫌いじゃありません」


 農夫たちの間からも、薬採集という職業は珍しくないが、都会ふうの身なりと洗練された話し方が目立つ。それでも「よそ者は、すぐには拒まない」それがこの土地の流儀だった。


 しばらく歩けば村長宅。大きな桑の木の下で、老人が声をかけた。


「旅のお人ですかな」

「薬草採集の者です。この周辺にしばらく滞在を……」


「おう、薬草取りなら困った時は声をかけなされ。あまり“余計な魔法”で土や水をいじらなければ、ここは悪い村じゃないからね」


 老人の言葉に宿る警戒。エミリアはやんわりと「魔法」について否定もせず、肯定もせず、会釈だけで答えをぼかす。



(だが、本当に必要なのは薬ではない――)


 エミリアの心の深奥には、他ならぬ密かな使命。この村に「ある人物」――シオン=クレストリアがいるかもしれない、という報告書の断片。都から届いた密命の文の熱が、まだ重く胸に残っている。


(ここであの人を、“外敵”ではなく“生活者”として見ることができるのか。私は……何を望まれている?)


 薬草採集者の仮面を保ちつつ、村に潜む気配や人影をひとつひとつ観察し、記憶に刻み込む。魔道の力は、都でさえも恐怖と警戒の眼で見られるもの。だがそれ以上に、「監視者」としての孤独を、すでにエミリアは知り尽くしていた。


「……観察も悪くない。むしろ“誰かを探し、見守る”ことだけが、私の得意分野かもしれない」


 そう自嘲まじりに呟いて、エミリアは新しい村の空気を五感で感じ、強制的な「居場所探し」を始めようとしていた。



 村を一周してみて、最初に身に染みた感覚――「何もない」。


 鍛冶場では、グレンという男が黙々と鉄を打つ音。井戸では、子供たちがバケツを引き上げる歓声が響く。畑では、土の香と汗の匂いが立ち上る。


(都の魔導研究院なら、一日の始まりに温度管理魔法、食事も洗濯も歯ブラシも――全て魔法で事足りていたのに)


 エミリアは腰巾着から水筒を取り出し、村道脇の小さな石壁に座った。


「……不便だけど、不思議と落ち着く」


 ふと、手にこびりついた泥を見て、都会の美しい石造りや、完璧な管理空間になかった「肌ざわり」を感じる。便利さの裏返しにあった“人と人の距離”が、ここではあまりにも素直に、近い。


 彼女の視線の先では、小さな子供たちが「水やり競争だ!」と声を張り上げている。


「――ねえ、あなたも手伝う?」

 少年が声をかけてきた。


「……ありがとう。でも私は、しばらくここで休ませて」


 エミリアは丁寧に微笑む。その一瞬だけ、「監視者」「魔導士」であることから遠く離れた気持ちに浸る。


(これが、“普通”の村の日常。魔法で矯正された都より、不格好だけど、どこか柔らかい)


 その感覚は新鮮で、ほんの少し眩しい痛みを伴っていた。


 日が傾くにつれ、村の景色は淡く色づき始める。エミリアは野辺の小道を歩きながら、薬草図譜を片手に村の外縁まで足を伸ばしていた。小さな野いちごの茂み、栗の実の落ちる音、名前も知らぬ花の匂い……。都市育ちの彼女にとっては、すべてが新鮮な発見に満ちている。


 だが、観察という巡礼の内側では、絶えず「仕事」としての焦りが呼吸をせき止めていた。


(……この村で、私は本当に“見張る”ことができるのだろうか? シオンはどこに——どんな表情をして生きている? 彼の本質は変わったのか、変わっていないのか)


 村人たちの無垢な挨拶や些細な歓待が、返って自分を「外部者」「目的を秘す者」として浮かび上がらせ、ふいに心の奥に冷たい小石が転がる。



 薬草採集のふりをして畑を覗き込めば、リアナが優しく声をかける。


「魔導士さん、そんなに真剣な顔で草を見てどうしたの?」

「ええ、すみません……ちょっと珍しい葉が見えたので。これは……毒草では?」


「それはミントですよ。水で煮出すと風邪に効きます」

「そう、ありがとう。田舎の人々は本当に薬草に詳しいのね」


 少しぎこちないが、穏やかな会話が生まれる。

 子供たちも後ろでひそひそと噂しながら、「このお姉ちゃんに変な草をいっぱい教えよう!」と盛り上がっている。


 しばらくすると、パン職人ノルが焼き立てのパンを手にやってくる。


「お代は要らねえから、毒見よろしくな」

「……ご冗談を。美味しそうね、いただきます」


 そんな小さなやりとりの中で、彼女は「監視者」だけではない、“村に住まう一人”の端くれとして、じわじわと受け入れられつつあった。



 日常は想像よりも不便だった。

 井戸水は重い。衣服は手洗い。道具もすぐには揃わない。


 けれどエミリアは、その不便さの中に新しい「静けさ」を見つける。火を使うにも心得がいる、畑の雑草を抜くにもコツがいる。魔法を使えたとしても、皆が皆それに頼るわけではない。むしろ、“手間暇”の積み重ねの中に、見落としていた豊かさがあるように感じ始めていた。


(都では、一つ一つの便利さの裏に多くの「疑念」や「警戒」があった。でもここでは、失敗したり泥だらけになることを誰も咎めない――)


 時間をかけて作ること、その「無駄」そのものに、人間らしさが宿ると気づきはじめる。便利さを「普通」と思っていた自分が、静かに解けていく。



 夜。村に明かりがぼんやり灯る。エミリアは宿の小さな机で、今日の観察記録――《村周辺在住者の特徴・シオン未確認・村は特筆すべき緊張感なし》――を整理していた。


「……“異常なし”か。でも、それで本当にいいの?」


 ふと、外から鍛冶槌の余韻が聞こえてくる。火を囲んで笑いあう声。パンを分け合う家族の団らん。そうした音が窓越しに漂えば、監視と孤独のはざまに立ちながらも、どこか“誰かと一緒に生きている”という柔らかな安堵が胸を満たしてゆく。



 翌朝。エミリアは井戸端で手を洗いながら、ふと子供たちに小さな魔法で水を出して見せる。驚きと歓声と、おそるおそるの好奇心。


「魔法って便利だな!」

「でも、やりすぎはだめだよ。村の水はみんなのものだからね」


 まだ距離感はある。けれど、最初の日よりも視線が温かい気がした。


(こうして少しずつ、この村の「日常」に、私の姿が溶けていけたら――)


 エミリアの胸には、都での緊張でも敬われ方でもない、「誰かの隣で穏やかに呼吸する自分」への新しい願いが芽生え始めていた。



 夜、寝床につきながらエミリアは思う。


(結局、人はどこかで“誰かを見守ること”と“見守られること”の間を浮遊しているのかもしれない。監視者としての冷たい目線と、暖かな暮らしの手触り。その両方を持ち続けて、私はどこへ向かうのだろう……)


 村に根づく小さな交流と、ひそかな使命を胸に抱え――

 エミリアの新たな日常。それは、不便で、面倒で、同時に人生で一番瑞々しい朝の連続だった。

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