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41話 エミリアの登場 静かな朝の村に、よそよそしい雰囲気とともに現れるエミリア。

 ――薄靄うすもやに包まれた朝。山裾の小さなエルデン村に、都会では当たり前だった整然とした空気など、どこにも無かった。だがこの日の朝、村人たちが何となく足を止めて振り返るほどの、ひときわ異質な影が村道を静かに歩いてきた。


 エミリア・レード――元宮廷魔導士。年代ものの厚手のマント、灰色がかった銀髪、擦り切れない透明感。佇まいは驚くほど凛として、洗練された動きひとつひとつが田舎道の景色から浮き上がるように醒めていた。


 その足取りには迷いはなく、だが、歩幅は決して大きくない。地面の泥を気にするでもなく、まるで宙を滑るように進む。村外れの雑木林を抜け、畑を耕す老人たちの視線を一身に集めても、真っ直ぐに村の中心に向かって歩き続けた。


 (……思った以上に、素朴な場所)


 エミリアは心の内で小さく嘆息した。肩の内には、長い旅と都に渦巻く魔導士の栄光と疲労の残滓が、複雑に溶け合っていた。



「おい、誰だ……?」「旅の者か……妙にシュッとしてるな……」

 あちらこちらでざわめきが起こる。パン工房から顔を出したノルが、眉をひそめる。「おい、あの人……貴族かなんかか?」


 田んぼにしゃがみ込むミリィや子供たちも、畑の道具を手にしたまま固まってエミリアの背を見送った。


 ふいにリアナが子供たちの後ろからそっと声をかけた。「あの人、都会の人っぽくない?」


「都会の人って、いつもあんなにツヤツヤしてるの?」

「ううん、違う気もするけど……なんか怖いね」

「きっといい人だよ」

子供たちは声をひそめてひとしきりささやき合う。


 エミリアの耳には、そのざわめきが遠い雨音のようにしか聞こえなかった。彼女のまなざしは、村人たちのいぶかしげな距離感を冷静に測る。「……慣れているわ。彼らの“好奇”や“警戒”の混じった目……」



 荷物は驚くほど少ない。身の回りの品は魔導士として最低限のものばかり。魔導書の小さな鞄と、旅でよれたノート、魔法石の入ったポーチ。


 村道の脇で屋根を修理する男に、一瞬だけ視線を向けた。釘を打つ音と炭の匂い。「ああ、鍛冶屋……。グレンだろうか」エミリアは表情を動かさず、しかし内心の観察は怠らない。


(素朴な手仕事。だが、魔法を使えば一瞬で済む。……けれど、この村でそれを見せればどうなる?)


 民家の軒先で立ち働く老婆。水桶を肩に、こちらにぺこりと一礼する。「おはようございます」

エミリアは、ほんのわずかに会釈で返した。


 村の空気には、常に微かな緊張と温もりの混淆こんこうがある。話しかける者はごくわずか、だが息遣いを感じれば「自分がいま違う世界に足を踏み入れている」実感が増していく。



 外からはただの旅人。だがエミリアの本当の役割は“監視者”だ。

 心の奥にひっそりと埋められた命令――「シオン=クレストリアの所在・動静を把握し、その力が都や敵対勢力に向かわぬよう監視せよ」


 (“彼”は本当にこの村に……どんな顔で、どんな日常を過ごしているの?)


 思えば、宮廷時代から続く仕事の延長だった。ただ「見張り」だけが仕事ではない。異端、脅威、そして孤独な者の心を察することも、彼女が得意とする術だった。


 だが、刺すような朝の冷気に紛れ、彼女の胸のどこかがわずかに騒いだ。「私も、結局“よそ者”だ――この村でどこまで普通に息ができるのか」



 エミリアは井戸の近くで腰を下ろした。濡れた桶の取っ手に露が滴る。


「これ、使いますか?」


 見知らぬ青年が、何気ない口調で声をかけてきた。シオン……ではない、村生まれの農夫タカシだ。


「ええ、ありがとう」


 エミリアは努めて優雅な仕草で答えたが、村の青年は少し戸惑いながらも微笑み返した。


「都会から来たの?」「……まあ、そんなようなものよ」


 村人はどこかそわそわしながら去っていく。その背を見送りつつ、エミリアはふと空を見上げる。


(宮廷の離宮ほどではないけれど……山並みも、鳥の声も悪くない。この静けさは……少し、落ち着く)


 だが次の瞬間、心内を引き締める。

 ――私は「観察」しなければならない。己の使命を忘れてはならない。



 午後になり、エミリアは村道を歩き直した。村長宅の前を通ると、村人たちの声が風に紛れて耳に入る。


「あれが元・都の魔導士か?」「本当に一人で暮らすのかしら」「でも美人さんね」「……魔法使えるって噂よ?」


 何気ない壁越しの声。それを無表情で聞き流しつつ、腹の底ではかすかに痛みのようなものが走る。


(魔導士。異質。畏怖。けれど、私は普通でいたいだけ……)


 「魔法」を解いた自分――それでも色濃く残る“違和感”と“孤独”という名の鎧。


 ふと広場の片隅で、子供たちが「見ちゃダメ!」と囁き合い、一人の少女だけがまっすぐエミリアを見上げ、声をかけた。


「ねえ、あなた、魔法使いなの?」


 短い沈黙。エミリアは困ったような、そしてどこか慣れた微笑を浮かべる。


「……そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないね」


「じゃあ、火を出せる?」


「……必要ならね。でも、一番大事なのは火じゃなくて、“火の番”の仕方よ」


「ふーん……不思議な人だね!」


 エミリアは心の奥で小さく、けれど確かな何かがほどけていくのを感じた。



 村の路地の角、エミリアは人々とすれ違いながらも、どうしても己の立ち位置を探しあぐねていた。


(私は……ただの旅人ではない。だが、都の魔導士として振る舞えば、村の息遣いを乱してしまう。ここでは“何者でもない”ことが一番難しい)


 夕刻が近づくと、人影はまばらになり、鍛冶場の煙、パン工房の香ばしい匂いがひときわ鮮烈に思える。誰もが「するべきこと」を体で覚え、ゆるやかに支え合っている――そんな静かな暮らしが、都で積み上げた魔法の力よりも、ずっと息苦しく、またどこか羨ましく感じられた。



 宿を借りるため村長宅を訪れると、村長バルスが慎重に言葉を選んで出迎えた。


「魔導士殿、ようこそエルデン村へ。ご滞在は長うなるのかの?」


「しばらく、静養も兼ねて。薬草の採集や、静かな環境を探しておりまして」


 村長はしばし考え、

「この村は、便利なものは何も無いが、騒がしい者も少ない。困ったときは言うてくだされ」と意味深に言葉を結んだ。


 (疑いと好意。どちらも村の「粋」なのだろう、とエミリアは心の中で微笑んだ。)



 夕食時、宿の小さな卓を囲み、見知らぬ村婦が素朴な料理を差し出す。


「……魔導士さん。お口に合うか分かりませんけど、粗末な田舎料理です」

「ありがとう。こういう温かい食事は、都でも滅多に食べられませんでした」


 箸をすすめるエミリアを、家主の幼い娘がじっと見つめている。


「何でも魔法で出せるんでしょ?」

「でも……料理は、手で作るほうが美味しい。魔法だけじゃ、こんな優しい味にはならないの」


「……なんだか不思議な人だね」


 素朴な食卓には懐かしさとまぎれない疎外感が隣り合っていたが、エミリアはどこか――生まれて初めて“外”からこの世界を味わっている気がした。



 翌朝。エミリアは井戸端でリアナとまた顔を合わせる。二人だけの静かな対話。


「グレンの道具やノルのパン、皆の手仕事は本当に凄い。だけど……魔法は嫌われている?」

「この村じゃ、魔法は少し怖いもの。でも、役に立つ魔法なら――助かる人はいるんです」


「便利さは恐れと隣り合い。都でも変わらなかったわ」


 村の空には朝焼けの鳥が舞い、どこか遠くから子供の「おーい!」という声が聞こえる。


 エミリアは初めて、村の日常の地平の中で、客体として観察するだけでなく、少しずつ溶け込んでいく自分を感じ始めていた。



 夜。宿の窓辺に腰かけ、エミリアは小さな魔導石をひっそりと掲げた。淡い青の輝きが、自分の指先と心の奥をぼんやり照らす。


(誰かのために魔法を使える場所は、本当にあるのだろうか。私はただ、命令で動いてきただけ……。それが“監視者”の定めなのか)


 けれど――

 窓越しの畑に見える子供たちの影や、遠くで明滅する鍛冶場の光が、なぜかほんの少しだけ、心の硬さを溶かしてくれる。


 (……私も、静かな朝を楽しんでいいのだろうか)



 翌朝。新しい一日が始まっても、村人たちはまだエミリアを遠目で眺めつつ、確かな距離を保っていた。

 それでも、リアナやノル、タカシ、そしてグレン。彼らの一言一言が、エミリアの心に静かに沁み込んでくる。


 ――監視するはずだった場所が、少しずつ、自分にとっても「居場所」の入り口になる。

  

 そう気づきながら、エミリアはひと筋の光の射す村道を歩き始めるのだった。

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