第9話 希望の種、実を結ぶとき
春の光が差し込む港町エーベル。その小高い丘の上、完成したばかりの校舎を背に、アリアは広がる海を見下ろしていた。
潮風に髪を揺らしながら、彼女はゆっくりと息を吸い込む。
「ようやく、ここまで来たわね」
少女が立ち上げた小さな学び舎は、まだ生徒も教師も少ないけれど、確かに町の空気を変え始めていた。
この場所でアリアは「魔法は特別なものではない」と説き、「学ぶことは未来を選ぶ力になる」と繰り返し語ってきた。
そして、学校だけではない。アリアの手はすでに、次の改革へと動いている。
港の整備が始まった。朽ちた桟橋を修復し、新たな荷揚げ場を築くため、人がせわしなく動いている。並行して、街道の整備も進められた。塩や干物、薬草などの交易品を王都へと運ぶには、安全で整った道が欠かせない。
町の一角には、出荷を待つ塩漬け魚の樽がずらりと並び、港に集まった商人たちの間では「エーベルの塩魚は日持ちがいい」と評判が広がっていた。さらに、丘のふもとで行っている養蜂では品質のよいハチミツが沢山収穫できる。
アリアはそれを使って、簡単な焼き菓子や蜜漬け果実といった“甘味”の試作にも取りかかっていた。
「疲れたときに、こういう甘さがあるだけで、人はまた頑張れるのよ」
そんな言葉とともに、小さな焼き菓子がルミナ学園の子どもたちの間で密かな人気となり、いずれ町の名物になる兆しを見せていた。
町の北に広がる荒れ地では、綿花に似た植物の畑が広がっていた。試験栽培の結果、繊維は紡げることがわかり、天然染料を使った絞り染め布として加工する計画が進行中だった。
港では、地元の漁師たちとともに真珠貝の調査も進んでいた。浅瀬に潜む貝を一つひとつ確かめ、養殖の可能性を探る。
「この海に、宝石のような恵みがあるなら、それもきっと未来を照らしてくれる」
領地の守りにも目を向けていた。アリアはイルマやロイと相談し、女性や年若い者でも扱える小型クロスボウの試作に着手した。
農村部ではたい肥の製造も始まった。家畜の糞や枯れ葉を集め、熱で分解し、畑に還元する。農作物の収穫量が増えれば、人々の生活も安定し、余剰分は交易に回せる。
すべては、小さな「未来の種」だった。
「やっぱり、あなたは“本物”ね」
声の主はセリナ。手に紅茶をとお菓子を持って現れ、アリアの隣に腰を下ろす。
「学園も、交易も、商会まで立ち上げて、本気で町ごと変えるつもりでしょ?」
「ええ。流通を握らなきゃ、何を作っても届かないもの」
アリアは、自らが立ち上げたアイゼンベルク商会の運営も担っていた。まだ小さい商会ながらも塩漬け魚の樽詰め、ハチミツ、石鹸などを取り扱い順調な滑り出しを見せている。小型の帆船保有し、王都との定期便を確保している。
「競い合うより、力を合わせた方が早いわ。私たち、最強のビジネスパートナーよね?」
セリナがウインクすると、アリアも柔らかく笑って頷く。
「ええ、協力してよい未来を創りましょう」
二人の前に広がるのは、未来に向かって脈打つ港町の鼓動だった。
*
それから数年後。
エーベルの港町は、見違えるほどに変わった。
真珠の養殖は成功し、光を帯びた珠が王都の貴婦人たちを魅了するようになる。
絞り染めの布は“エーベルの綿布”として人気を博し、異国の商人すらこの町を訪れるようになった。
交易は活性化し、街道には荷馬車が往来し塩漬け魚の樽詰めが運ばれていく、人と物と情報が流れる。
そして何より、町の人々の表情が変わっていた。
学び舎からは、魔法を扱える若者たちが育ち、領地では小型クロスボウを手にした民兵が訓練に励み、農地では豊かな作物が実っている。
もはや、かつての貧しいアイゼンベルク領ではない。
十六歳になったアリア・アイゼンベルク。
アイゼンベルク領を変えた、中心にいる者。
*
アリアのもとに、使者が一通の手紙を届けにやってきた。
差出人はテオドール・アルシオン第一王子。
封を開け、読み進めるうちにアリアの瞳が揺れた。
『アリアへ。アイゼンベルク領が見違えるように発展していると聞き、驚くとともに胸が熱くなりました。
できることなら、この目で見て君ともっと話したい。そして、君の知識から学びたい。
君が歩んだ道を、僕も知りたい。
近いうちに訪ねてもいいだろうか? テオドール』
アリアは小さく微笑んだ。
*
近ごろ、王都の政界では小さな波紋が広がりつつあった。
とくに第一王子の側近であるヴェルナー・ベルトラムが、密かに各地と連絡を取り始めたことは、決して見過ごされてはいなかった。
宮廷内では、弟王子ユリウスを推す派閥が「また何か企んでいる」と警戒の色を強めている。
“ヴェルナーが動くときは、必ず何かが起こる”
それは王宮で密かにささやかれる定説となっていた。
王都の外れにある古びた屋敷の一室。
誰にも知られることなく、ふたりの男が対面していた。
王都の外れ、目立たぬ場所にある古びた屋敷。
外見は倉庫のようだが、内装は重厚な調度品が並び、ここがただの建物でないことを物語っていた。
この部屋で、二人の男が向かい合っていた。
一人は、王国一の知恵者と名高い、ヴェルナー・ベルトラム。
もう一人は、王都最大の商会ユーレイン商会の当主、ユースタス・ユーレイン。セリナの祖父である。
「何かが起こる前に、備えておきたいのです」
ヴェルナーの言葉に、ユースタスはゆっくりとワイングラスを揺らした。
「ほう、“何か”とは……?」
「まだ確定ではありません。ただ、北の情勢が不穏です。」
「それで、この場所か。なるほど、秘密の相談にはうってつけだ」
ユースタスは笑ったが、目は笑っていなかった。
「で? 今回の話、具体的に何をすればいいのだ?」
ヴェルナーは鞄から一枚の紙を取り出し、テーブルに置いた。
「人手の確保。特に、腕の立つ傭兵団。
それと、人員や物資を運ぶための中型船の手配。
そして、保存食や医薬品、簡易な武具など、軍に準ずる装備の準備も」
「ほう、これは小規模な遠征か、大きな戦の準備にしか見えんな?」
ユースタスが目を細める。
「ええ。ですが、現時点では“動く”と決まったわけではありません。ただ、動ける準備をしておく必要があると考えています」
「王宮の他の者には?」
「誰にも話していません。信じられるのは、貴方だけですから」
その一言に、ユースタスの目がわずかに見開いた。
「おだてが上手くなったな、ヴェルナー殿」
そう言ってユースタスは笑った。だが、どこか楽しげだった。
「いいだろう。船も人も、手配しよう。ただしこちらにもリスクはある。内密にやらねばな」
「見返りは用意します」
二人の視線が交差し、やがて静かに握手が交わされた。
「“もしもの時”が来たら、アイゼンベルク家には連絡を入れるつもりかね?」
「必要があれば」
それは表には決して出ることのない、“戦の備え”だった。




