第5話 塩と魚と、始まりの学び舎
港の朝は、潮風の香りとともに始まる。
まだ日が高くないというのに、広場にはすでに人の声が満ちていた。
荷を運ぶ男たちの掛け声、魚を並べる漁師の威勢、樽職人の木槌がリズムを刻む音。
再び動き出した港町エーベルには、少しずつかつての活気が戻りつつあった。
そんな中、波止場に一隻の商船が滑るように入港した。
帆には見慣れぬ紋章。装飾は控えめだが、船体は磨かれ、どこか格式を感じさせる。
その甲板に、栗色の髪を低くリボンで結った少女が現れる。
海風が髪を揺らし、真新しい商人服が朝日に映える。
「活気があるわね。面白くなりそう」
その呟きには確かな興味と期待が込められていた。
少女の名は、セリナ・ユーレイン。
王都に本拠を置く大商会ユーレイン商会の跡取り候補である。
「十歳の少女が、港町を立て直している」
そんな噂を聞きつけ、真偽を確かめに来たのだ。
*
アリアは倉庫前で帳簿を片手に樽の数を数えていた。
塩漬け魚の仕込みは順調。港に届けられた塩と、漁師たちが朝のうちに運んできた新鮮なシララ。
それらを丁寧に捌いて、注文したばかりの新しい樽に詰めていく。
「あと三樽で今月分は揃いそうね。次は干物の準備も」
「失礼、アリア・アイゼンベルクさんでしょうか?」
背後から届いた声は、丁寧で落ち着いていて、どこか品のある響きだった。
振り返ると、見慣れない少女が立っていた。
涼やかな青緑の瞳。低めの位置でリボンを結んだアッシュベージュの髪。
仕立ての良い商人服が、彼女がこの町の人間でないことを物語っていた。
「初めまして。セリナ・ユーレインと申します。王都のユーレイン商会より参りました」
「ユーレインって、あの?」
思わず声が上ずった。アリアの前世の記憶にも、その商会の名は刻まれている。
王国屈指の大商会。名ばかりの商人ではない、本物の実力者たちの集まりだ。
「ふふっ、そんなに驚かないで。代表は祖父。私はただの孫娘よ」
セリナはにっこり笑って、倉庫の中を覗き込む。
「この香りは干物? それと、この樽、塩漬け魚ね?」
「はい、今ちょうど準備しているところです。まだ本格的な出荷は先ですが……」
「構わないわ。見せてもらっても?」
少し強引だけれど、礼儀はわきまえている。
アリアは戸惑いながらも頷いた。
「もちろんです。塩は再生した塩田のもので、魚は近隣の漁村から」
説明を聞きながら、セリナは樽の蓋を開け、真剣な眼差しで中身を確認した。
「この色、艶、香りいい塩使ってる。魚の締まりも悪くないわ」
思わずホッとするアリアを見て、セリナはぱっと笑顔を見せる。
「なるほど。これが“十歳の天才令嬢”の作った商品、ね。ふふっ、面白いじゃない」
「その呼び方はやめてください」
むっとした顔のアリアに、セリナはくすくすと笑った。
「ごめんなさい。でも、本当に感心してるのよ?」
青緑の瞳が、真剣にアリアを見つめる。
「これはただの塩漬け魚じゃない。“町を動かす起点”になれる品よ。ね、そうでしょう?」
核心を突かれたようで、アリアは一瞬息を呑む。
「そう。これを売った利益で学校を作るの。魔法学校を」
「魔法学校?」
セリナの眉がぴくりと動く。
「ええ。庶民でも孤児でも、適性があれば学べる場所にしたいの。そして魔法で、船を動かすの。特に風魔法を使って、安定した航海を可能にする」
セリナの目が、ぐっと輝きを増す。
「それって、魔法で航海革命を起こすってことよね?」
恥ずかしそうに目を伏せたアリアだったが、すぐに顔を上げた。
「妄想って言われるかもしれない。でも、私はその可能性を信じてる」
ぱちぱちと、拍手の音が響いた。
「最高じゃない、それ!」
セリナが一歩踏み出し、アリアの肩に手を置く。
「風魔法で船! 魔法使いの学校! 港町の革命! もう、ワクワクしかしないわ!」
「ちょ、ちょっと近いです……」
アリアがたじろぐのをよそに、セリナは真顔に戻る。
「アリアさん、投資させてちょうだい。うちの商会から正式に、学校建設を支援したいの」
「え……本気ですか?」
目を丸くするアリアに、セリナは頷いた。
「ただし、魔法使いの船乗りが本当に育ったら、うちで雇わせてもらうわよ?」
「まだ実験も実績もないのに……」
「それでもいいの。あなたの目が、ちゃんと未来を見ていたから」
セリナは、そっとアリアの頭を撫でた。
「さ、港の案内をお願いできる? 商会の支部に良さそうな物件も探したくて」
そう言う彼女の背中には、王都の少女らしからぬ風格があった。
*
午後、セリナは港町をくまなく見て回った。
市場の様子、倉庫の規模、港湾施設の配置――その目は鋭く、判断は早い。
「この空き家、使ってないのよね? 商会の支部にするから手続き、お願いしてもいい?」
「は、はい。手配しておきます」
「動けるときに動く。それが商人よ」
ウィンクを返され、アリアは思わず笑ってしまう。
その視線の先、並べられた塩の袋や、干物を干す木枠、広場で作業する職人たち。
「あの人たちは?」
「ハチミツ屋さんと石鹸職人さん」
「えっ!?塩漬け魚だけじゃ足りないからって、他の交易品まで。十歳でやることじゃないわよ」
セリナは額を押さえたが、次の瞬間には楽しそうに笑っていた。
「もう決めた。あなたに全力で協力するわ!」
港の風がふたりの髪を優しく揺らす。
その風は、確かに未来へと吹いていた。
*
エーベルの港町を見下ろす小高い丘そこに、新しい風が吹き始めている。
「ここに、学校を建てるわ」
アリアの声は静かだが、しっかりとした意志が込められていた。
足元には、簡易的に整地された広い土地が広がる。かつての放牧地を買い取り、土魔法で地ならしをしたばかりだ。
「ここから未来が始まるんだな……」
ロイが感慨深げに呟く。隣ではイルマが真剣な顔で図面を確認している。
「講義室は三棟、宿舎を後方に。裏手は魔法訓練場。搬入経路も確保済みです」
作業現場には、職人たちや土魔法使いの冒険者が集まり始めていた。その中には、戸惑いや不安も混じっていた。
「学校? うちの子が魔法使いに?」「ほんとに誰でも通えるのか?」
アリアは一人ひとりの目を見て、はっきりと答える。
「魔法だけじゃありません。読み書き、計算、礼儀、歴史、生きるために必要なことを、全部学べる場所にします。誰でも、学べるように」
「ほんとに?」
子どもを抱いた母親が、不安げに尋ねる。
「ええ。未来を選ぶ権利は、すべての子どもにあるべきです」
その言葉に、ざわついていた空気が、少しずつ静まっていく。
*
夕暮れの丘に、柔らかな風が吹いていた。
港の水面は黄金に染まり、アリアとセリナは岩の上に並んで腰を下ろしていた。
「わたし、魔法だけを教えたいわけじゃないの」
アリアがぽつりと呟く。指先には、土の感触がまだ残っていた。
「読み書きも、計算も、歴史も。学ぶこと全部が“生きる力”になると思うの。だから“誰でも学べる場所”が必要なの」
その真っ直ぐな目を見て、セリナは微笑む。
「商人も同じよ。字と数字、それだけで生き方が変わる」
「この学校から未来を作る人が生まれたらいいな。魔法使いでも、商人でも、何でもいい。大事なのは、“選べること”」
「うん、いいわね、それ」
セリナはそっとアリアの頭を撫でると、いきなり抱きしめた。
「ちょっ……!?」
「アリアってば可愛すぎるのよ! そんな真剣な顔で語られたら、本気で応援したくなるじゃない!」
「や、やめてってば!」
もがくアリアをくすくす笑いながら、セリナは言った。
「冗談よ。でもね、本気で応援するつもり。覚悟して?」
「……うん。ありがとう」
*
翌朝、港町には早くも活気が戻っていた。
広場では干物の準備が進み、倉庫では塩漬け魚の出荷作業が進んでいる。
アリアが帳簿を手に確認していると、ふと視線の端に動く気配を感じた。
塩袋の影に、小さな少年が腰を下ろしている。日に焼けた肌と痩せた体――アリアと同じくらいの年に見えた。
「ごめんなさい。勝手に休んでたわけじゃ……」
「大丈夫。休憩は大事よ」
アリアは微笑み、少年と同じ目線に腰を下ろす。
「名前は?」
「……ティム」
港の外れで寝泊まりし、荷運びを手伝って飯をもらっているという。
アリアは鞄から思念写本で作った練習帳を取り出し、そっと差し出した。
「これ、見てみる?」
ティムは戸惑いながらも開き、指で文字をなぞって読んだ。
「魔法の言葉?」
「そう。でも、読めてる。覚えが早いわね」
ティムは照れたように笑う。
「でも俺なんか、学ぶ資格ないし」
「違うの。これからは、誰でも“学べる”ようにするの。あなたにも、チャンスはあるわ」
ティムは目を見開いたまま、しばらく黙っていた。
「そういう場所、本当にできたらいいな」
*
その夜。
アリアは屋敷の執務室で、手紙を書いていた。
『テオドール殿下へ学校の準備が進んでいます。今日は最初の生徒になるかもしれない少年に出会いました。ティムという名の少年です。彼に「チャンスはある」と伝えられたのは、あなたの言葉があったから。私はまだ未熟だけど、それでも前に進みます。いつか、この町を見に来てくれたら嬉しいです。アリア・アイゼンベルク』
手紙を封じ、小包をそっと撫でる。
中には、この町で採れた塩漬け魚と、小瓶のハチミツ。
その包みは定期便に託され、王都のテオドールのもとへと運ばれていく。
夜空に星がまたたき、春の風がカーテンを揺らしていた。




