第19話 豊穣の地、試される心
私たちの乗った馬車は、長い道のりを越え、ようやくスタンリー領へと到着した。
整った街並み。清潔な石畳。活気に満ちた市場では、野菜や果物が並び、行き交う人々の表情はどれも明るい。
子どもたちが元気に駆け回り、老人たちは笑いながら談笑している。
(豊かで、穏やかだ)
ここには、無理な徴税も、無謀な労役も存在しないらしい。
馬車がゆっくりと城門に到着すると、出迎えの一団が待っていた。
先頭に立つのは、整った服装をした家令だった。
彼は私たちを見るなり、深々と一礼する。
「心より歓迎いたします。 スタンリー家の家令、ハロルドと申します」
その声は柔らかく、礼節をわきまえていた。
テオドール殿下が馬車から降り立つと、家令ハロルドはさらに頭を下げる。
「伯爵様も、皆様のお越しを心待ちにしておりました」
そう言いながら、どこか困ったように目を伏せる。
「ただ、誠に恐縮ながら……。 現在、伯爵様は農作業の最中でして」
顔を上げたハロルドは、どこか申し訳なさそうに苦笑した。
「すぐにご案内いたします。 何卒ご容赦いただけますでしょうか」
その控えめで誠実な態度に、テオドール殿下は静かに頷いた。
「構わない。案内してくれ」
私たちは、家令に続いて馬を進める。
スタンリー伯爵、いったいどんな人物なのだろう。
静かな期待と緊張が膨らんでいく。
やがて、広々とした畑にたどり着く。
そこでは、数十人の農民たちが汗を流し、賑やかに作業していた。
「あれは……?」
思わず、私は声を漏らした。
一人の男性が、泥だらけの作業着姿で、土を耕していたのだ。
年齢は30手前といったところだろうか。動きには無駄がない。
周囲の農民たちが、自然にその人を中心に動いている。
その様子を見た瞬間、私は確信した。
(あの方が、スタンリー伯)
作業の手を止め、こちらに気づいたスタンリー伯は、微笑みながらこちらへ歩み寄ってきた。
泥のついた手を軽く払うと、膝を折り、深々と一礼する。
「スタンリー領へようこそ。 遠路はるばる、お疲れさまでした」
作業着のままだというのに、その所作は驚くほど丁寧で美しかった。
威圧感も、無駄な権威もない。 ただ、心からの歓迎の意を込めた、温かな礼。
テオドール殿下も、わずかに目を細め、柔らかく頷いた。
「ご多忙のところ、すまない」
スタンリー伯は小さく頭を振った。
「とんでもない。もしお時間が許すようでしたら、少し畑を見ていかれませんか?」
こんなにも自然に、領民と共に生きる領主がいるのだと。
私たちは顔を見合わせ、そして小さく頷き合った。
「ぜひ、案内していただきたいです」
テオドール殿下が柔らかい笑みで答えると、スタンリー伯は嬉しそうに微笑んだ。
「では、こちらへ」
スタンリー伯に案内され、私たちは畑の間を歩いた。
黄金色に実る麦畑。瑞々しい緑の野菜畑。整然と区画整理され、無駄のない農地。
ただ豊かなだけではない。自然の恵みを、最大限に活かすために緻密に管理されているのがわかった。
「ここは冬小麦、あちらは夏野菜、輪作を組んで土を疲れさせぬよう工夫しています」
スタンリー伯は穏やかに説明しながら、優しく作物に触れる。
「すごい……!」
シエナが目を輝かせ、思わず声を上げた。
「領民たちのおかげです」
スタンリー伯は、少し照れたように笑った。
その言葉にも、驕りはなかった。 心から、民を信頼しているのがわかる。
並の領主には到底できないことだ。
テオドール殿下も畑を眺めながら、じっとスタンリー伯を観察している。
スタンリー伯はそんな私たちを気にする素振りもなく、和やかに案内を続けた。
畑を一周したところで、スタンリー伯は立ち止まった。
そして、改めて私たちに向き直る。
「さて、遠路よりお越しいただいた理由を、そろそろお聞かせ願えますかな?」
穏やかな笑みを浮かべながら、しかしその眼差しは冴えていた。
テオドール殿下も、微笑みながら一歩前に進み出る。
その瞳に、揺るぎない光を宿して。
「スタンリー伯。私は、今日、お願いに参りました」
穏やかな声。だが、はっきりとした意思を含んだ言葉だった。
スタンリー伯は、ただ静かに耳を傾ける。
「お願いとは?」
「アルシオン王国は今、王位継承を巡り争いが起きています。私は、この国を、貴族も平民も隔てなく、誰もが胸を張って生きられる国にしたいと願っています」
テオドール殿下の声は、まっすぐだった。
「そのために、スタンリー伯。あなたのお力を、貸していただきたいのです」
風が、畑を優しく揺らした。
「立派なお考えです。しかし、私はカリオル王の臣下で忠誠を誓う身」
スタンリー伯は、テオドール殿下を柔らかな眼差しでみつめる。
「私から言えることは無益な争いをやめて、ご兄弟で仲良くしていただきたい。これだけです。」
スタンリー伯は柔らかな笑みで言った。
「どうぞ今夜は、我が屋敷でお休みください。遠路はるばるお越しいただいたのですから、せめて疲れを癒していただきたい」
その申し出を、テオドール殿下も快く受け入れた。
スタンリー邸は、領地の中心に建つ堅実な石造りの館だった。 贅沢さはないが、どこか温もりを感じさせる造りで、出迎えた使用人たちも皆、礼儀正しかった。
用意された客室は広く、清潔で、ふかふかのベッドが整えられていた。
夕食は、領内で採れた食材をふんだんに使った素朴な料理だった。 焼きたてのパンに、香ばしいロースト肉、甘くみずみずしい果物。 豪奢な料理はなかったが、そのどれもが温かく、心を満たすものだった。
「ここ、いい領地だね」
「あぁ、料理も酒も美味い」
シエナがぽつりと呟き、バルドが頷く。
領民たちに愛され、支えられている。 そんな空気が、館全体に満ちていた。
*
翌朝。
朝の光が、まだ白く淡い時間。
私は目を覚ますと、そっと起き上がった。
外の空気を吸いたくなった。
身支度を整え、静かに扉を開ける。 長い石造りの廊下を抜け、館の裏手に出た。
朝の空気は冷たく澄んでいて、ひんやりとした土の匂いがした。
歩き出すと、かすかに土を掘る音が耳に届いた。
(誰かいる?)
気になって音のするほうへ向かう。
そこには、朝靄に包まれた畑。 その一角で、鍬を手に、黙々と土を掘り返す人影があった。
作業着に身を包み、腰を曲げ、額に汗をにじませながら、土に向き合うその姿。
スタンリー伯だった。
貴族としての威厳を捨てるでもなく、ただ自然体で、土と向き合う背中。
私は静かに息を整え、足音を忍ばせながら、そっと近づいた。
「伯爵様」
静かに声をかけると、スタンリー伯は、振り向いた。
朝靄の中でも変わらぬ柔らかな笑み。 作業着に土をつけたまま、それでも礼を欠くことなく、深く一礼する。
「お早うございます、アリア様。こんな朝早くから、お目覚めとは」
その穏やかな声に、私は自然と微笑みを返していた。
ふと、胸の内に抱えていた疑問が、口をついて出た。
「昨日のお話、スタンリー伯爵様は、なぜあのようなお答えを?」
兄弟仲良くなさってください。
その言葉の真意を、私は知りたかった。
スタンリー伯は、静かな口調で答えた。
「私はカリオル王に忠誠を誓った臣下でございます。どちらか一方に肩入れすることは、できません」
迷いのない、穏やかな声。
伯爵は、ふう、と小さく息を吐く。
「私は何度も両陣営に書簡を送りました。兄弟で争うのではなく、手を取り合ってほしい、と」
その横顔には、静かな疲労と、わずかな諦めが滲んでいた。
「ですが、効果はありませんでした。どちらも、もう、簡単には引けないのでしょう」
スタンリー伯の言葉に、私は胸の奥が少し痛んだ。
伯はさらに続けた。
「私は、ヴェルナー殿にも、何度か助言を求めました。あの方なら、兄弟仲を改善できるのではないかと……」
しかし、と伯は微笑を浮かべる。
「ヴェルナー殿には、ヴェルナー殿なりの、お考えがあるようでした。結局、色よい返事はいただけませんでした」
その言葉に、私は思考を巡らせた。
(ヴェルナー様は最初から和解を望んでいなかった?)
思い浮かんだのは、アルシオン王国の現状。
王の直轄領が少なく、貴族たちの権力が強いこの国。歴代の王たちが、貴族たちの権勢に悩まされ、無力に甘んじてきた歴史。
(まさか)
ヴェルナーは、テオドール殿下とユリウス殿下の対立を止めるつもりなど、初めからなかったのかもしれない。
むしろ、対立を激化させ、ユリウス派の貴族たちを暴発させ、そして反乱を誘発する。
「王に忠誠を誓わぬ者たちを一掃する」
そんな考えが、ふと頭をよぎった私は、気づけばスタンリー伯に問いかけていた。
「ヴェルナー様は、あえて対立を煽り、ユリウス派の大貴族たちを粛正し、王国の改革を進めようとしているのかもしれません」
スタンリー伯は、穏やかな表情で私を見ていた。
「アリア様は、賢いお方だ」
柔らかな声だった。
そして、静かに言葉を続けた。
「真実は、わかりません。ですが、私も、似たようなことを考えておりました」
朝の光が、少しずつ濃くなっていく。
柔らかな土の香り。 遠くから聞こえる鶏の鳴き声。
スタンリー伯と私は、しばらく言葉を交わさず、静かに並んで畑を眺めた。
未来への不安も希望も、朝靄の中で、ひとときだけ溶け合っていた。




