第18話 静かなる激流
王都の空気が、わずかに変わり始めていた。
表向きは、何も変わらない。
臣たちは礼儀正しく、侍女や従者たちは忙しなく動き、城の中庭には今日も平和な陽光が降り注いでいる。
けれど。
耳を澄ませば、廊下の隅々から、低くざわめく声が聞こえてきた。
「オルデ王国が……」 「リオネル王子が……」 「テオドール殿下と婚姻を……?」
囁きは、まるで地下水脈のように広がっている。
ヴェルナーは、静かに目を細めた。
すべて、想定の範囲内だ。
リオネル王子の来訪。
テオドール殿下とオルデ王国の姫君との政略結婚の打診。
そして、それに激しく反発するユリウス派の動き。
今、王都で進行しているすべては、ヴェルナー・ベルトラムの読みの上にあった。
オルデ王国との繋がりの価値は計り知れない。国力がある国で王であるザイデン・オルデは策略家として名高い。
そして、その後継者であるリオネル・オルデ王子は剣の腕や戦場での武勲で勇名を轟かせている。
彼ら味方にできれば、テオドール殿下の覇業にきっと役に立つ。
ヴェルナーは、玉座の間の窓から差し込む陽光を眺めながら、静かに息を吐いた。
だが焦る必要はない。
今は、ただ。自分にできることをひとつずつ、確実に進めるだけだ。
*
玉座の間での正式な謁見を終えたあとも、リオネル・オルデ王子の存在は、王城全体に静かな波紋を広げ続けていた。
その波紋に、最も強く反応したのはユリウス派の貴族やエレオノーラ王妃だった。
彼らは焦っていた。
オルデ王国が、テオドール殿下の後ろ盾になるかもしれない。
そんな未来など、到底受け入れられるはずがなかった。
ユリウス派の有力貴族たちは、密かに動き出した。
自派閥の娘を、リオネル王子に嫁がせることで、オルデ王国を自陣営に引き込もうと画策したのだ。
だが、リオネルは、その提案をあっさりと、静かに拒絶した。
「私は王命を受けて交渉に来ました、それ以外のことは出来かねます」
その一言で、全てを断ち切った。
礼を失することもなく。
怒りをあらわにするでもなく。
ただ、完璧な礼節の裏に、冷ややかな断絶を隠したまま。
ユリウス派の貴族たちは、何も言い返せなかった。
顔をひきつらせ、唇を噛みしめ、ただその場を後にするしかなかった。
その夜、ユリウス派内部には、 抑えきれない怒りと焦りが渦巻いていた。
「テオドールめ……! オルデ王国まで取り込むつもりか!」
「このままでは……まずい……!」
密室で交わされる、怒りに満ちた声。
だが、どうすることもできない。
情勢は、確実にテオドール殿下側に傾き始めていた。
*
王城の片隅。
夜の帳が下り、月明かりだけが静かに石畳を照らしていた。
ヴェルナーは、回廊の影で立ち止まっていた。
その背後から、ためらうような足音が近づいてくる。
「父上」
レオンだった。
夜風に、少年の柔らかな銀髪がふわりと揺れる。
ヴェルナーは振り向かず、静かにその言葉を待った。
「テオドール殿下とアリア様を、リオネル王子の来訪中に王都から遠ざけたのは……」
レオンの声が、わずかに震える。
「婚姻話を、円滑に進めるため、だったんですよね?」
ヴェルナーは一拍だけ間を置き、ためらいなく答えた。
「ああ、そうだ」
レオンは小さく肩を揺らしたが、それでもまっすぐに父を見据えた。
「オルデ王国との縁は、それほど重要なことなのですか?」
ヴェルナーは初めて静かに振り返る。
月光が、その横顔を照らし出す。
「ザイデン・オルデ王。そして、リオネル・オルデ王子。あの父子を味方につける意味は、計り知れない」
淡々とした声。
しかしそこには、確かな信念があった。
「オルデ王国の後ろ盾を得ることは、殿下の覇業に、この国の未来に、重みをもたらす」
レオンは小さく唇を噛んだ。
「……でも」
絞るように問いかける。
「テオドール殿下の気持ちは、どうなるのですか?」
ヴェルナーはわずかに目を伏せる。
月光の中、静かな沈黙が二人の間に落ちた。
「未来を背負う者は、時に己の心を捨てねばならぬ」
静かな声が、夜気に溶けていく。
レオンは迷いながらも、さらに一歩踏み込んだ。
「父上は、本当にそう思っているのですか?ユリウス派との対決は、父上の思惑通りに進んでいるでしょう。オルデ王国の後ろ盾がなくても、きっと勝てるはずです」
その瞳は真剣だった。
「……なのに、なぜ、そこまで急ぐのですか?」
ヴェルナーは、わずかに口元を緩めた。
「レオン。お前には、夢や目標があるか?」
レオンは唐突な問いに戸惑いながらも思案する。
今まで必死に剣技と魔法を学んできた。
けれど夢について、深く考えたことはなかった。
返事に詰まるレオンを見て、ヴェルナーは静かに続ける。
「例えば、テオドール殿下には、貴族も平民も分け隔てない国を作るという夢がある。アリア様には、領地を豊かにし、人々を幸せにするという夢がある。レオン、お前にはあるか?」
レオンは、ただ黙った。
代わりに、問い返す。
「では、父上の夢は?」
ヴェルナーは、はっきりと答えた。
「テオドール殿下を、この大陸の覇王にすることだ」
レオンは言葉を失った。
ただ、拳を握りしめ、父の背中を見つめた。
父の歩む道は、あまりにも遠く、重かった。
ヴェルナーは、背を向けたまま、静かに告げる。
「いずれ、お前にも選ぶ時が来る」
夜の静寂に、低く確かな声が響いた。
月光だけが、ふたりの影を、長く伸ばしていった。




