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第1話 貧乏貴族令嬢に転生したけれど、前世の知識で領地を立て直します

はじめまして!

婚約破棄された令嬢と年下王子が未来を切り拓いていく物語が始まります。

少しずつ成長していく二人を、温かく見守っていただけたら嬉しいです!

挿絵(By みてみん) 

 


挿絵(By みてみん)



「月島さん、これ今日中にお願いできる?」


 蛍光灯の光がじんわりと滲んで見えた。積まれたファイルの山。その頂上に、新たな紙束が静かに降ってくる。


「……はい、わかりました」


 そう答えるしかなかった。反射のように口が動く。本当は「無理です」「帰らせてください」と言いたい。でも、それが言えないのが私だ。


 私は月島詩織。三十歳。某企業の事務職。いわゆるブラック企業というやつで、朝から晩まで仕事漬け。終電間際の帰宅は日常茶飯事。休日出勤? もちろんある。残業代? 出ない。


 それでも、誰かに迷惑をかけるのが怖くて、仕事を断れない。昔からそうだった。


 中学も高校も大学も、誰かと一緒にいることが苦手だった。話しかけるのも、話しかけられるのも怖くて、気がつけば一人で本ばかり読んでいた。歴史の本。日本史も世界史も、人物伝も戦略論も。古今東西の王や将軍、女王や革命家の人生を、静かな教室の隅で追いかけていた。


 孤独だった。でも、知識があれば、世界は広がると信じていた。


 けれど現実は、その知識で誰かを助けられたわけでも、評価されたわけでもなかった。時には「そんなこと知ってどうするの?」と笑われることもあった。読書の結果、歴史好きな“歴女”になっただけだった。


 私は仕事も恋愛も、人付き合いもうまくいかず、気づけば誰からも必要とされない“社会の歯車”になっていた。


「このままじゃ、私そのうち壊れるな……」


 かすかに漏らしたその声は、誰にも届かない。冷えきった空調の風が、デスクの上の書類をさらりと揺らす。夜も更けていく。


 やりがいのない仕事、搾取される日々、恋人も友達もいない孤独な人生、変わりたいけど変われない自分。ぼろぼろになるまで働き、誰とも会話しない休日を過ごす。生きている意味があるのだろうか。


 せめて誰かに必要とされたり、褒められたりする人生がよかった。自分の知識や経験が誰かの役に立つ瞬間を、一度でいいから感じてみたかった。


 そんな願いすら、この世界では叶わない夢なのだろうか。


 終電に間に合うよう、急ぎ足で駅へ向かい、ぎりぎりで電車に飛び乗る。降りる頃には足も心も重く、家までの道がひどく遠く感じた。


 マンションの鍵を開け、「ただいま」とつぶやく。返事はない。狭くて静かな一人暮らしの部屋。照明をつけても空気は冷たいままだった。


 スーツを脱ぎ、バッグを置き、ぺたりと床に座る。


「ご飯、作る気力ないな……」


 冷蔵庫を開けたが、何も手につかない。代わりに机の上の常温のミネラルウォーターを一口。喉を通る水さえも味気ない。


「……もう、疲れた」


 何に? 仕事に? 人生に? わからない。ただ、今日という一日が終わることに、ほっとする気持ちがあった。明日に怯える気力すらない。


 部屋の隅には、大好きな歴史の本たち。

『ナポレオン戦記』『大航海時代の帆船と貿易路』『戦国武将の外交術』『織田信長・尾張からの挑戦』。彼らはどんなふうに生きたのだろう。


 手に取ることもなく、ただ目で背表紙を追った。


 お風呂に入って寝ないと。浴室に湯を入れながら、服を脱ぐ。こんな生活でも、湯船に浸かることだけは習慣だった。


 体を洗い、湯船に身を沈める。じんわりと温かさが体に染みていく。


「誰かに必要とされる人生を送りたいな」


 まぶたがゆっくりと重くなっていく。水面がゆらぎ、意識がぐらつく。胸が締め付けられ、同時に身体が驚くほど重くなる。水が肺に入りそうだ。息が、できない。


(……ああ、これ、本当に危ないかもしれない)


 苦しさの中で、ふと感じた。怖さはなかった。むしろ、安堵に近い感覚。


「さようなら、私……」


 最後に残ったのは、ほんの少しの救いだった。


 *

 

 冷たい。


 とても冷たい。


 次の瞬間、私は水の中で目を覚ました。必死に手足を動かし、水面に顔を出す。


「はっ、はっ……!」


 咳き込みながら辺りを見回す。見知らぬ石橋、尖塔の街並み。見たことのない景色。多分ここは日本ではない。そして、私の手は小さく、声は幼く高い。


「何?これ?」


「お嬢様っ!」


 岸から女性の叫び声が聞こえる。血に染まったメイド服の若い女性が私を呼んでいる。


 「イルマ?」


 知らないはずのその名が、自然と口をついた。頭が割れるように痛む。


「早く岸へ! 刺客がまだいるかもしれません!」


 混乱の中で本能的に泳ぎ、川岸に辿り着いた私をイルマが引き上げ、抱きしめる。


「アリアお嬢様っ! 無事で良かったっ!」


 その腕の中は温かかった。


 彼女の顔、長く艶やかな黒髪を後ろで一つにまとめたている、切れ長の瞳の凛々しい女性だ。


「……イルマ……?」


 その名を呼ぶと、自分の声に違和感を覚えた。澄んだ少女の声。こんな声で話したことはない。喉に手を当てると、小さな指が視界に入った。


 そしてその瞬間、記憶が洪水のように押し寄せた。


 月島詩織としての三十年と、アリア・アイゼンベルクとしての十年。


「私……は……?」


 混乱する意識。しかし、身体は嘘をつかない。この小さな手、日差しの温かさ。

すべてが現実だった。


 記憶の奥に浮かぶのは、王宮での冷たい視線、ユリウス第二王子との婚約破棄、「身の程知らず」と笑われた日々、森での襲撃、川に落ちた瞬間。


(たしか……ユリウス殿下。王家の次男で、私の婚約者だったはず。あの冷たい目。隣にいた、金髪の女性……第二王妃エレオノーラ。)


 彼女はアリアの婚約破棄を、まるで見世物のように周囲の貴族に見せつけ、嘲笑した。ドレスを貶され、家柄を侮辱され、誰も味方してくれなかった。

 屈辱と恥、そして孤独。あの光景が、胸の奥をひどく締めつけた。


 (きっと、私はこの子に、アリア・アイゼンベルクなったんだ)


 でも、どちらでもなく、どちらでもある。アリアとしての思いも、詩織としての人生も、確かに今ここにある。


 イルマは周囲を警戒する。


「刺客が潜んでいるかもしれません。移動しましょう、お嬢様」


 頷く私の背後で、風が木々を揺らした。


 次の瞬間、茂みの中から、黒装束の男が飛び出して短剣をこちらへ投げつけた。


「危ないっ!」


 イルマが私の前に立ち、手をかざす。


「《エアシールド》!」


 風の魔力が障壁となり、襲撃者の短剣を弾いた。その隙に、イルマは地面を蹴って跳躍した。


 鋭く短剣を振るい、流れるような動きで敵を制圧する。


 彼女の戦いぶりは、ただのメイドではなかった。


 数秒後、男は地に伏し、気絶していた。


 イルマは静かに息を吐き、私に向き直る。


「ご安心ください。お嬢様、敵は制圧しました」


 その姿は、まるで騎士のようだった。


(イルマって……本当に、ただのメイドなの?)


 後に聞いた話では、彼女は元冒険者で、その腕を買われて屋敷に雇われたのだという。


 詩織としての三十年の人生では、誰かのために犠牲を払う人などいなかった。ましてや、自分のために。


「ありがとう、イルマ」


 その言葉は、心からの感謝だった。


 イルマは少し驚いたように目を見開き、それから優しく微笑んだ。これまでの高慢なアリアなら、けして口にしなかったであろう言葉を、彼女は確かに聞き取ったのだ。


「イルマ。王都には戻らない。領地に帰る」


「え? でも、お嬢様」


「もう社交界にも出ない。アイゼンベルク家を立て直す」


 イルマは驚いたように目を見開いた。これまでのアリアなら、決して言わないような言葉だった。


「アイゼンベルク家は、もう『貧乏』だなんて言われたくない。『身の程知らず』なんて、二度と言わせない」


 小さな拳をぎゅっと握りしめる。


 前世の詩織が蓄えてきた知識が、頭の中で静かに整理されていく。


 戦国時代の領地経営、交易や産業の発展、城下町の繁栄。前世で色んな本を読んだ歴女としての経験がこの世界では役立つかもしれない。


「絶対に見返してやる。もう誰にも、見下されない家にする。それが、今の私の"生き直し"よ」


 その決意は、二つの人生から生まれた新たな希望だった。


 悔しさも、願いも、どちらも本物だ。

 でもそれ以上に、今ははっきりと感じている。


(この世界でなら、誰かの役に立てるかもしれない)


 少しずつでいい。

 まずは、自分の領地から。

 前世では誰の役にも立てなかった知識が、この世界では光を放てるかもしれない。

ここまで読んでくださって、ありがとうございました!

少しずつですが、アリアとテオドールの歩みを丁寧に描いていきます。

次回もお楽しみいただけたら嬉しいです!


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