エピローグ:いつもの三人と一匹
【そしてまたいつもの三人の風景】
新年早々、アルモンド侯爵家のソレアンの執務室は、今日も朝から賑やかだった。
「おいフィオーネ! 俺のソレーネを取るな!」
「違うわ! ソレーネが私のところに来てくれたのよ!」
ソレーネを巡るフィオーネとゼファリスの言い争いが、冬の日差しとともに室内に響く。
その様子を、ソレアンはすっかり見慣れた光景として眺めていた。
これまでも何かと口論が絶えない二人だったが、最近はそれに新たな要素が加わっていた。
それがソレーネである。
普段、ソレーネはゼファリスにべったりとくっついている。他の家族に対しては、それなりに愛想を見せるものの、どこかクールな距離を保っていた。ちなみにソレアンに対しては完全にそっぽを向く有様だ。
しかしフィオーネに対しては、妙な懐き方を見せていた。
今、彼女の腕の中にすっぽりと収まったソレーネは、喉をゴロゴロと鳴らしながら、満足そうに目を細めている。
柔らかい毛並みがフィオーネの胸元に埋もれ、完全に甘えきっていた。
「お前、またたびでも振りかけて歩いてんのか!?」
「そんなわけないでしょ! ソレーネが人を見抜く目に優れているということよ!」
フィオーネが得意げに微笑むと、ゼファリスは「ぐぬぬ……!」と悔しそうに唸る。
対照的にソレーネは何も気にしていない様子で、ふにゃっとした顔をしていた。
そんなやりとりを、ソレアンは側から眺めながら、静かにため息をついた。
「ソレーネが羨ましい……」
「えっ」
「えっ」
二人の言い争いが、ソレアンのぼそりとした呟きで静まり返る。思わず、フィオーネとゼファリスの視線が、同時にソレアンへと向いた。
ソレアンは、ふと自分の発言を思い返し、じわじわと顔が熱くなっていくのを感じた。
——しまった、完全に流されるつもりで呟いたのに。
ソレアンの呟きは、こういう時だけバッチリ拾われるのである。
二人の視線に耐えきれず、ソレアンはそっと顔を背ける。
すると、腕の中でフィオーネに甘えていたソレーネが、「にゃあ」と愛らしい鳴き声を上げた。
「ソレアン様……」
フィオーネがじっと彼を見つめる。その青い瞳に、どこか微笑ましさと愛しさが滲んでいた。
「いや、今のは忘れてくれ」
ソレアンは慌てて手を振る。
「つまり、ソレアン様も私に甘えたいということですか?」
フィオーネが、じわりじわりとソレアンに近づいてくる。
「ちょ、ちょっと待っ——」
ソレアンが後ずさると、フィオーネはニコリと微笑みながら、さらりと言った。
「甘えたいなら、どうぞ?」
——何この、勝ち誇ったような余裕の笑み!?
ソレアンは、自分がまさに今、フィオーネに「翻弄されている」ことを悟る。
その証拠に、ゼファリスが爆笑していた。
「ソレアンの方がフィオーネに飼われてるな!」
「そんなこと……っ」
必死に否定しようとするも、今の状況では何を言っても無駄だった。
ふと、ソレーネがフィオーネの腕の中で「にゃあ」と鳴き、気持ちよさそうに目を閉じた。まるで「僕の勝ち」とでも言うように。
「……」
「……」
ソレアンとゼファリスは、揃ってソレーネを睨んだ。
しかし、ソレーネは優雅にゴロゴロと喉を鳴らし続けるだけだった。
【そしていつもと少し違う二人の風景】
「おいソレーネ、そろそろまた絵描くぞ!」
ゼファリスがフィオーネからソレーネを奪い取り、抱き抱えた。ソレーネも「にゃあ」と返事する。ソレーネは、すっかりゼファリスのミューズを気取っている。ゼファリスも、「ソレーネの餌代は俺が稼ぐ!」と気合が入っており、以前の制作ペースからは信じられない速筆ぶりを見せている。二ヶ月後に控えるアート・コモンズ・オークションの目玉作品になりそうだ。
ゼファリスがソレアンの執務室を出ていくと、一気に室内は心地よい静けさが広がった。
こうして唐突に、ソレアンとフィオーネは二人きりになった。
「ふふ、やはりこちらに来ると、毎日が賑やかです」
フィオーネが笑いながら、長椅子へ腰掛けた。ソレアンもため息をつきながら、その向かいのソファに座る。
「君たちが元気に喧嘩してると、今日も平和だと実感するよ」
ソレアンが余裕ありそうな皮肉を言う。しかしフィオーネは、その内心を見通すかのように、言葉を続けた。
「そしてゼファリスやソレーネが羨ましくなってしまうのですか?」
「なっ……!」
フィオーネの指摘は、完全にソレアンの図星であった。フィオーネがアルモンド侯爵邸に来てからというものの、ソレアンの胸中はこうだった。
——人目を気にせずフィオーネに甘えられるソレーネが羨ましい。
——フィオーネと口論し合ってるゼファリスさえ羨ましい。
そんな情けない本音を見せるわけにもいかず、ソレアンは日々、理性的に振る舞う努力をしていた。
「素直にそうおっしゃって下さればいいのに。そしたらこうして二人きりの時間も増やせますよ」
フィオーネが楽しそうに笑う。ソレアンはバツが悪そうに顔を背けた。そしてフィオーネは頬に手を当てながら呟いた。
「『男女の愛がわからない』とおっしゃっていた、あのソレアン様が。本当に意外ですね……」
フィオーネはしみじみと、かつてのソレアンを思い出していた。
「僕自身ですら戸惑っているからね……」
ソレアンも、フィオーネと出会ったばかりのことを思い出す。積極的に自分への好意を見せ、行動するフィオーネに驚かされる日々。その頃の自分を思い出し、ソレアンはいかに自分が男女の心の機微というものを理解していなかったか、痛感する。
「ふふ、でも私は嬉しいです。ソレアン様のお心をいただけたことが」
フィオーネがまた笑顔を浮かべた。その笑顔が、ソレアンの目にはあまりに眩しく、甘く映った。
ふと、ソレアンが席を立ち、フィオーネの隣に腰を下ろす。そしてフィオーネを抱きしめた。
「そ、ソレアン様?」
フィオーネの声が震えた。
「ずっとこうしたかった……」
ソレアンがフィオーネの肩に顔を埋める。フィオーネの華奢な体が、緊張で強張っているのがソレアンにも伝わった。
「今僕はまさに自己愛からの脱却の過程にいる」
それは夏の満月の夜に、フィオーネが語った言葉。『自己愛を超えて惹かれる相手に気づいた時、自己愛から脱却し、自分の世界を広げる推進力として、時に暴力的なまでの衝動が生じる』というあの愛の定義を、ソレアンは今まさに自分の身に起きていることとして体感している。
「フィオーネが嫌ならやめるけど……」
それは衝動に飲まれそうになる中の、ギリギリの理性の言葉だった。ただソレアンはそう言いながら、いざ拒絶されたら立ち直れない予感もあった。
フィオーネの腕がソレアンの背中に回された。
「もう。ソレアン様。言ったじゃないですか。甘えたいならどうぞ、って」
フィオーネの優しい受容の言葉が、ソレアンの耳元で鼓膜を揺さぶる。その魅惑的な響きを前にして、ソレアンは抗う気持ちを手放した。
ソレアンはそっと顔を上げ、フィオーネの瞳を覗き込んだ。青の瞳が揺れながらも、確かに彼を映していた。
「……フィオーネ」
低く囁くように名前を呼ぶと、フィオーネは少しだけ目を伏せ、頬を赤らめた。その仕草が、ソレアンの胸を締めつける。
次の瞬間、彼は迷いなく、彼女の唇にそっと触れた。
初めてのキス。
柔らかく、温かな感触に、ソレアンは静かに目を閉じる。
何度も夢見た瞬間だった。けれど、実際に触れてみると、その夢すら霞むほどに甘美な感覚だった。
やがて、唇を離し、そっとフィオーネの表情を窺う。彼女の頬は上気し、瞳には戸惑いと幸福が混ざっていた。
するとフィオーネがそっと彼の首に腕を回し、今度は彼女の方からキスをしてきた。
「……!」
少し強引で、それでいて優しいキス。
先ほどの控えめなものとは違う、フィオーネの確かな意志が、ソレアンにも伝わってくる。
——この人は、迎えに来てくれる人だ。
ソレアンは目を細め、彼女を抱き寄せる。
そして今度は、お互いに自然と引き寄せられるように、三度目の口づけを交わした。
触れるたび、胸の奥が熱くなる。確かめ合うように、そして貪るように、何度も何度も唇を重ねた。
——もう、離せない。
そう思った矢先——
「おいソレアン!」
突然、扉の向こうからゼファリスの怒鳴り声が響いた。
——しまった。
反射的に二人は飛びのき、一定の距離を取る。
「ソレーネが逃げ出したんだが、こっち来てないか!?」
ゼファリスが執務室の扉を開けるや否や、中の二人を見て「あっ……」といった顔をした。
ソレアンは目を逸らし、フィオーネは少し肩を震わせながら小さく笑っている。
そんな中、扉の隙間からすり抜けるように、一匹の猫が入ってきた。
「にゃあ」
優雅な足取りで、ソレーネが部屋に入り、迷うことなくフィオーネの腕の中に飛び込む。
「えっ……また?」
フィオーネが驚きつつも、そっと彼女を抱きしめると、ソレーネは満足そうに喉をゴロゴロと鳴らした。
「おいソレーネ、お前まだ絵の途中だろ!」
ゼファリスが抗議するも、ソレーネはまるで聞く耳を持たない。
フィオーネが微笑みながら、ソレーネの顎を優しく撫でた。
「甘えたくなっちゃったの?」
その優しい声に、ソレーネはますます喉を鳴らし、彼女の胸元に顔を埋める。
ゼファリスが呆れたようにため息をついた。
「くそっ、俺のミューズが……!」
一方、その光景を見ていたソレアンは——
「……結局こうなるのか……」
遠い目をしながら、呟いていた。
甘く静かな二人きりの時間は、あっという間に終わりを告げた。
フィオーネはソレーネを抱きながら、穏やかに微笑んでいる。その横でゼファリスが険しい顔をしながら文句を言っている。
——まあ、これはこれで悪くない。
この賑やかで温かな日常が何よりも愛おしいと、ソレアンは心に広がる思いを噛み締める。
そしてこの幸せな光景の中、ソレアンはもう一度だけ、そっとフィオーネの手を握った。
これにて物語完結です。
ご覧いただき本当にありがとうございました。
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