第十六話:理解者
【馬車の中の会話】
夕暮れの森を後にし、ソレアンとゼファリスを乗せた馬車は王都へ向かっていた。窓の外には、茜色から深い群青へと移り変わる空が広がり、遠くには街の灯りがぽつぽつと瞬いている。
馬車の中では、二人が向かい合って座っていた。先ほどの感情のぶつかり合いはひとまず落ち着いたものの、完全に気まずさが消えたわけではなかった。
そんな中、ソレアンが口を開いた。
「フィオーネ嬢のことなんだけど」
その言葉に、ゼファリスが薄く眉を上げた。
「……惚れてんのか?」
身も蓋もない聞き方に、ソレアンは苦笑する。
「うん」
ゼファリスは呆れたように肩をすくめた。
「お前、女の趣味悪いな」
その言葉に、ソレアンは肩をすくめ、さも当然といった顔で答えた。
「そりゃ、お前を親友にするくらいだからな」
一瞬の沈黙の後、ゼファリスが鼻を鳴らした。
「……で、結婚すんのか?」
ソレアンはわずかに考えた後、静かに問い返した。
「ゼファリスはどう思う?」
ゼファリスは露骨に不満げな表情を浮かべる。
「は? お前のことだろ」
ソレアンは笑い、肩を軽くすくめた。
「彼女は、僕と君と共にありたいと言ってくれている」
ゼファリスの動きが一瞬止まった。目を細めると、やや鋭い声で尋ねる。
「はぁ?」
「君の意志を尊重するってことだよ」
ゼファリスは、それを聞いた途端、視線を外し、窓の外へと顔を向けた。深い群青に染まる空が、彼の無表情な横顔を淡く照らしていた。
「どいつもこいつも馬鹿ばっかりだ」
そう呟く声は、不満げでありながらも、どこかくすぐったそうな響きを帯びていた。
ソレアンは、そんなゼファリスを静かに見つめていた。
【帰還】
馬車は、静かにアルモンド侯爵邸の門をくぐった。外灯がぼんやりと夜の帳に溶け、屋敷の窓から漏れる灯りが暖かく邸内を照らしている。
ソレアンとゼファリスが並んで馬車を降りると、エントランスホールで待っていたのはフィオーネだった。
彼女はいつものように姿勢正しく立ち、二人を迎えた。
「お帰りなさい、二人とも」
フィオーネの優しく、それでいて芯のある声が響く。その瞬間、ソレアンはほんのわずかに顔を赤らめた。
一方、ゼファリスは明らかに不機嫌な顔でそっぽを向く。
そんな二人の反応を見ながらも、フィオーネは穏やかな微笑を崩さずにいた。
「ゼファリス様」
彼女は一歩前に進み、両手に抱えた厚みのある紙束を差し出す。
「お二人がいない間に書いたものです」
ソレアンが驚きに目を見開く。
「え、このわずかな時間で……?」
フィオーネは、小さく微笑んだ。
「ここに、私の想いを込めました」
ゼファリスはフィオーネを訝しげに見やる。だが、次の言葉には動きを止めた。
「私は、ゼファリス様に認められたい」
その言葉に、ゼファリスは微かに瞳を揺らした。しかしそれを悟られまいとするように無言で紙束を受け取り、読み始める。
【火の精霊と人間】
ゼファリスの視線が、原稿の文字をなぞる。それは、火の精霊の物語だった。
火の精霊は、寂しがりだった。
彼はただ自由に踊ろうとしただけだった。
しかし、彼が舞うたびに森は燃え、周囲からは厄介者とされてしまう。
そんな彼に、ある日、一人の人間が手を差し伸べる。
「僕は君と友達になりたい」
火の精霊は驚いた。
誰もが彼を恐れ、遠ざける中で、その人間だけは恐れることなく手を伸ばしていた。
火の精霊は迷いながらも、その手を取った。
すると、不思議なことに、その人間だけは燃えることがなかった。
彼は驚き、喜び、人間にまとわりつくようになった。
やがて、その人間の周りには、他の精霊たちも集まるようになった。
水の精霊、風の精霊、土の精霊……。
火の精霊はそれが面白くなかった。
人間は自分のものだったのに——。
彼は怒り、他の精霊たちを追い払おうとする。
しかし、そんな彼に人間は静かに言った。
「そんなことをしてはいけない」
火の精霊はショックを受けた。自分を受け入れてくれた唯一の存在が、まるで裏切ったかのように感じた。
怒りと悲しみのあまり、火の精霊は再び踊り出す。
今度は、人間がいた森を焼き尽くそうと。
他の精霊たちは慌てて森から逃げ出した。
しかし、そんな炎の中でも、人間は決して逃げようとしなかった。
火の精霊は焦る。
「お前が死んでしまうぞ!」
しかし人間は微笑んで言った。
「僕は死なないよ。君が僕の友達でいてくれる限り」
火の精霊は気づく。
彼が人間を燃やさなかったのは、人間が特別だったからではない。
彼が、この人間を「友」として大切に想っていたからだった。
しかし問題はもうそこにはなかった。
炎はすでに彼の手を離れ、暴走し、ただの災厄と化していた。
火の精霊ですら、これを止められるかどうかわからない。
そして、人間の言葉が胸に突き刺さる。
「僕は君が友達でいてくれることを信じているよ」
火の精霊は、人間を守るために初めて、他の精霊たちに助けを求める。
「どうか、森とこの人間を助けてほしい」
その願いを精霊たちは聞き入れた。
水の精霊は火を鎮め、土の精霊は焦土を豊かな大地へと変え、風の精霊は新しい命の種を運ぶ。
こうして、焼けた森は以前よりも豊かな楽園へと生まれ変わった。
火の精霊は、ずっとそばにいた人間の手を取る。
「周りに精霊が増えることは、君から僕が奪われることじゃない。君に友達が増えることなんだよ」
そして火の精霊は初めて、精霊たちの輪の中へ入っていった。
【涙と創作】
ゼファリスは、原稿を読み進めるほどに、その手を震わせていた。
ページをめくる速度が次第に遅くなり、やがて、最後の一行へと辿り着く。
——周りに精霊が増えることは、君から僕が奪われることじゃない。君に友達が増えることなんだよ。
その言葉を目にした瞬間、ゼファリスは目を伏せた。
肩がわずかに震える。
紙束を持つ指が、ぎゅっと力を込められる。彼は、原稿を胸に押し当てるように抱きしめた。
そして、次の瞬間、ゼファリスは無言で踵を返し、まっすぐに工房へと向かって歩き出した。
「……え?」
フィオーネは、困惑したようにゼファリスの背を見つめた。
工房の扉が乱暴に開かれ、ゼファリスはそのまま部屋の奥へと消えていく。
フィオーネは呆気に取られた顔で、ソレアンに尋ねた。
「気分を害してしまったのでしょうか……?」
不安げな声だった。
しかしソレアンは笑った。その笑みには、どこか確信があった。
「いや、違う」
そして、ゼファリスが消えた工房の扉を見ながら、はっきりと言う。
「あれは……神が降りてきている」
【翌朝】
夜が明け、朝日がアルモンド侯爵邸を照らし始める頃。
ソレアンは静かに工房の扉を開けた。
そこには、疲労の色を滲ませながらも、満ち足りた表情のゼファリスがいた。
彼の左手には、まだ乾ききっていない筆。
そして、イーゼルの上には、一枚の完成された絵があった。
——火の精霊と人間、そして、それを宙に描き出す女。
ソレアンは、言葉を失った。
画面の中心には、炎に包まれる火の精霊と、穏やかに手を差し伸べる人間の姿。
しかしそれ以上に目を引いたのは、その両者を見つめるひとりの女性——フィオーネ・ナディアの肖像だった。
彼女の青い瞳は、火の精霊と人間を見つめているようで、その実、その先にあるものを見通していた。
その視線の中には——火の精霊でもなく、人間でもなく。
ただ、泣きじゃくる子どものような影が、ぼんやりと映り込んでいた。
『共感と憧憬の眼差し』を描き出す作家、ゼファリス・デュヴァンの面目躍如と言える傑作だった。
ソレアンは、静かに息を吐いた。
ゼファリスの世界が広がった。そして、その世界の中には、フィオーネの存在が確かに刻まれていた。




