第七話:王都の不穏な夏の夜
【ローレント公爵家の家族会議】
サヴィエール辺境伯家で家族会議が開かれていた頃、奇しくもローレント公爵家――クレアの元婚約者の家――でもまた、家族会議が開かれていた。
ヴァルミール王都の中心部に堂々と構える、ローレント公爵家の屋敷。その内装は、ヴァルミール様式の優美で壮麗な装飾が施されていた。
天井には繊細な漆喰細工が広がり、壁面には淡いクリーム色の装飾が施されている。家具の一つ一つは、柔らかな曲線美を描き、白と金を基調とした意匠が目を引いた。
そんな気品に満ちた空間で、しかし今、重苦しい沈黙が支配していた。
ローレント公爵家の当主、ロドリック・ローレントは、曲線美の華やかな椅子に腰掛け、長い指を組みながら目の前の息子を睨んでいた。
その視線は冷たく、厳しい。
広い応接室には、彼と息子のヴィクトール、そしてロドリックの後妻とその娘スカーレットが控えていた。
蝋燭の炎がゆらめき、窓の向こうには夜の王都が静かに広がっている。
やがて、ロドリックが口を開いた。
「バカなことをしたものだ」
静かながらも、低く響くその声に、ヴィクトールは微かに眉をひそめた。
ロドリックは深いため息をつく。
「お前に命じたのは、クレア嬢を『第二婚約者』へと格下げするための、当人同士での調整だったはずだ」
ロドリックの声は冷静だが、その中には確かな怒りが滲んでいる。
「その過程で婚約破棄を要求すること自体は、交渉戦略として、まぁ、良い。だが――」
ロドリックの視線が鋭くなる。
「公衆の面前でそれをやるなど、どうしてそんな愚かなことを」
ヴィクトールは微動だにせず、その言葉を受け止めた。彼の表情は冷静で、まるで何の過失もないかのような態度だった。そして、落ち着いた口調で反論する。
「彼女自身の婚約価値が無に帰せば、こちらが慈悲を見せる形での婚約再締結になる。それは、サヴィエール辺境伯家の影響力を弱めるという、我々の意図にも合致する話です」
ロドリックはしばし無言で息子を見つめ、そして低く嗤った。
「それで、アヴェレート王家に付け入る隙を与えた。本末転倒だ」
ローレント公爵家は、アヴェレート王家を警戒していた。ヴァルミールの国王がアヴェレート王家への関係を緊密にするあまり、政治・経済・文化のあらゆる面で、アヴェレート王国からの影響を受けていた。その影響を最も受けやすいのが、アヴェレート王国と隣接する、サヴィエール辺境伯家である。
ヴィクトールとクレアが幼い頃は、中央貴族であるローレント公爵家と、国境を守るサヴィエール辺境伯家が手を結ぶのは、国内の安定の面で合理的な判断だった。しかし近年の国王の動向から、サヴィエール辺境伯家の影響力が大きくなりすぎることを、ローレント公爵は危険視した。
そこでローレント公爵が画策したのは、『やや強引な、婚約格下げ交渉』。
サヴィエール辺境伯家の影響力を落とすための一手として、本来なら慎重かつ繊細に行動するべき、綱渡のような交渉方針だった。
にも関わらず、ヴィクトールが行ったのは、全てを無に帰すような愚行だった。確かに交渉戦略として婚約破棄を匂わせることも、親子の間で合意はしていたものの、「公爵家の決定」などと突きつけるような合意はしていなかった。ヴィクトールの拡大解釈だった。
「……あんなのは、ヴァルミールの文化を尊重しない、あの小賢しい王子による内政干渉だ」
その言葉には、抑えきれない憤りが滲んでいた。
ヴィクトールにとって、テオドール・アヴェレートは、明らかに目障りな存在だった。それは単なる政略上の問題ではない。クレアを巡る争いが、彼の感情に火をつけていた。
ロドリックは、ヴィクトールの感情的な反応を冷ややかに見つめた。
そして、淡々とした口調で続ける。
「その方向で、すでに他の貴族には根回しをしてある」
ヴィクトールが驚いたように父を見やる。
ロドリックは机に肘をつき、静かに指を組んだ。
「婚約者間のバランスを取ろうとしたお前が、証人のいる場で正そうとした――そこに、文脈を知らないテオドール王子が正義感に駆られて飛び出した、と」
ロドリックが額を抑える。
「この調整がギリギリだ。これ以上は庇えん」
ヴィクトールは、僅かに拳を握りしめた。
ロドリックの言葉には明確な含みがあった――「お前のせいで、この事態を収めるのに苦労している」と。ロドリックの年々色味を失う銀灰色の髪と、経験を刻んだ皺が、老獪な政治家としての風格を醸していたが、今この時ばかりは疲弊を隠せていなかった。ヴィクトールの表情が険しくなる。
「それではまるで、僕がその正義感に負けたようではないですか」
ヴィクトールの声には、不満が滲んでいた。
しかし、ロドリックはその言葉を聞いても、表情を崩さなかった。
「あれだけの愚行だ。この程度の傷で済んだことに、感謝しろ。まだお前も若い。今後の実績で汚名は返上できる」
ヴィクトールは何か言い返そうとしたが、結局、口を閉ざした。
ロドリックがこれ以上の言葉を発する気がないことを悟ったのだ。
部屋には静寂が戻る。
その沈黙の中で、ロドリックの後妻と、その娘スカーレットが、黙ってこのやり取りを見ていた。
スカーレットはまだ12歳の、幼き公爵令嬢だ。しかし、その灰色の瞳には、年齢にそぐわぬ理性が宿っていた。その目はまるで、愚かな男に見切りをつける、潔くも冷徹な女のそれであった。
【ヴィクトールの狂気】
ローレント公爵家の家族会議が終わった。しかし、ヴィクトールはその場に残り、じっと拳を握りしめていた。
ヴィクトールの表情には納得の色はなく、むしろ苛立ちが浮かんでいる。扉の向こうに去っていった父の言葉を思い返すたびに、胸の内が煮えたぎるようだった。
クレア・サヴィエール。その名が頭をよぎるたびに、ヴィクトールの怒りはますます膨れ上がった。
クレアのあの冷ややかな目、拒絶するような態度、そして――アヴェレート王国の王子との縁ができたという現実。
ヴィクトールは立ち上がると、苛立たしげに足を踏み鳴らし、自室へと向かった。
ローレント公爵家の廊下は、ヴァルミール様式の優雅な調度品で統一されている。曲線を描く装飾が施された白い柱、大理石の床、そして淡い金色で彩られた壁紙。完璧な美の世界が広がる空間だったが、ヴィクトールの足音はそこに馴染まないほど荒々しかった。
自室へと入るなり、彼は乱暴に扉を閉めた。
ローレント公爵家の後継者として整えられたその部屋もまた、完璧な調度品が揃えられ、優雅な美意識が貫かれている。しかし、ヴィクトールはその美しさを味わうような余裕は持ち合わせていなかった。
彼はゆっくりと机の前に腰掛け、深く息を吐く。
――クレア・サヴィエール。自分のものになるはずだった女。それが、今では自分を蔑ろにし、他の男に媚びようとしている。
ヴィクトールは一度目を伏せ、そして机に拳を振り下ろした。
――許しがたい。
彼の中に渦巻く感情は、愛などではなかった。それはむしろ、彼自身もコントロールできないほどの支配欲。クレアの利発なアイスブルーの瞳が、納得行かなそうにヴィクトールを見るたびに、ヴィクトールの支配欲が煽られ続けてきたのだ。
クレアを徹底的に貶め、縛りつけ、自由を奪いたい。反抗する気すら起こらないほど、逃れられない状況に追い込んでやりたい。
そんな、獰猛な獣のような野蛮な執着だった。
ヴィクトールは公爵家の唯一の跡取り息子として、敬われてきた。特別な存在であると、直接言葉で告げられてもきた上に、周囲の人間の接し方でも伝えられてきた。
父はヴィクトールの経済的センスを高く評価し、彼が何かを成し遂げるたびに称賛を惜しまなかった。家庭内では、公爵の次にヴィクトールの意見が尊重され、彼が求めるものは当然のように与えられた。
また、実母は早くに亡くなり、その後釜となった元側室の後妻は、跡取り息子に対して遠慮がちだった。継母として公爵家に迎えられた彼女は、決してヴィクトールの機嫌を損ねることはなかったし、使用人たちもまた、彼を「公爵家の未来」として丁重に扱った。
そのような家庭環境で、ヴィクトールは自己愛と支配欲を肥大化させ、全て自分の意のままとなると信じて疑わない人間へと育った。そんな彼にとって、思い通りにならないクレアは、解決せねばならない問題であると同時に、甘美な酒精でもあった。
ヴィクトールの唇が、皮肉げに歪む。
「……テオドール・アヴェレート」
低く呟いた名は、新たな彼の怒りの矛先となるものだった。
――ヴァルミールの文化も知らずに、異国の正義を振りかざし、自分の計画を台無しにした男。
「小賢しい王子風情が……」
彼の中で怒りが渦巻いていたが、それを思考の外に押しやるように、扉が控えめにノックされる。
「ヴィクトール様、本日の投資報告を」
執事の落ち着いた声が響く。毎晩決まった時間に行われる定時報告だ。ヴィクトールは無言で手を伸ばし、書類を受け取る。
「……南部の鉱山開発、撤退する貴族が増えている?」
「モンテヴェール侯爵家も投資を縮小する意向のようです」
「愚かなことだ」
ヴィクトールは鼻で笑った。
「市場は恐怖で売られ、強欲で買われる。彼らは短期の揺れに怯えすぎだ」
報告書を手の甲で軽く弾き、ヴィクトールはふと呟く。
「……サヴィエールの評判は?」
執事は一瞬だけ戸惑ったが、静かに答える。
「社交界では動揺が広がっています。様子見をしている家も多い様子です」
ヴィクトールの唇が歪む。
「ほらな?」
彼は冷笑した。
「価値が下がった時こそ、買い時だ」
――市場は操作するものだ。人間も、例外ではない。
ヴァルミールは執事を下がらせると、 ゆっくりとインク壺を手元に引き寄せた。
彼は、便箋を取り出し、ペンを走らせる。
宛名はイザベラ・モンテヴェール侯爵令嬢。もともと彼の第二婚約者であり、今となっては唯一人の婚約者となった女性。
彼女はヴァルミール国内でも有力な貴族の令嬢であり、美貌と才知に恵まれていた。
しかし、ヴィクトールにとって彼女はただの「戦略的な婚約者」に過ぎなかった。ヴィクトールが本当に求めていたのは、クレアだった。
ヴィクトールがその事実を思い返すたびに、思い通りにことが運ばない苛立ちに、暴れ出しそうになる身を抑えた。
ヴィクトールはペンを強く握りしめ、インクを紙に落とした。
ヴィクトールの執着が、手紙の中の端正な文字となって、滲み出していく。