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第十話:愛とは何か

【アルモンド侯爵家の家族会議】

 

 夜の帳が降りたアルモンド侯爵邸。当主の執務室には、侯爵家の面々が揃っていた。現当主トレヴァー、夫人イレーネ、次期当主ワルター、そして次男ソレアン。

 温かみのある灯りが室内を照らし、豪奢な机を囲む家族の顔が浮かび上がる。静かな重みを帯びた空気の中、話を切り出したのはイレーネだった。

「ソレアンと、フィオーネ嬢の婚約を進めようかと思っているの」

 ソレアン、硬直。

 紅茶を口に運ぼうとしていた手が止まり、目を瞬かせる。予想外の言葉が、静かな夜に突如として響いた。

「……え?」

 思わず聞き返すが、母は優雅に微笑みながら続ける。

「貴方ももう十八歳。ちょうど婚約を決めるのに良い時期だわ」

 イレーネの言葉に、トレヴァーがゆったりと頷く。

「ナディア家は男爵家ではあるが、フィオーネ嬢の名声も踏まえれば、お釣りがくるくらいだ。異論はない」

 ワルターも淡々とした口調で賛意を示す。

「二人の相性も良いし、私も賛成ですね」

 ソレアンは内心で困惑する。またしても決定権がないのか、と。


 しかし、意外な展開が訪れる。ワルターが、ソレアンへと目を向けた。

「とはいえ、今の時代、本人の意志が一番重要でしょう。最近、無茶な政略結婚をした家での離婚が問題視されています」

 ソレアンの眉がわずかに動く。

 アヴェレート王国の結婚観は、かつてとは変わりつつあった。

 王弟ラグナルとカレスト公爵——彼らの婚姻が世間に与えた影響は大きい。理と利と愛と希望、そのすべてを備えた結婚が「理想」として認識されるようになったのだ。

 反対に、旧来の「理と利」だけで決められた婚姻は、今や破綻の危機にある。強いられた関係は綻び、世間の目も厳しくなった。

 そうした流れを汲み、ワルターもまた、形式だけの婚約を押しつけるつもりはなかった。

「ソレアン、お前はどう思う?」

「ええ……?」

 戸惑いと共に声を漏らす。

 ソレアンが家族会議で意見を求められることなど、今までほとんどなかった。

 思いもよらない議題に、咄嗟に答えが出てこないのは、次男という立場の悲しい性である。


 イレーネが、まったく、といった表情で肩をすくめた。

「貴方って子は。昔から恋愛沙汰には疎いのだから。それだからウィンドラス公爵令嬢からのアプローチにも気付かず、チャンスを逃したのよ」

「え、母上、それ何の話?」

「まだ気づいていなかったの!?」

 トレヴァーとワルターが、ほぼ同時にため息をついた。

「まぁ言っても仕方ない」

 トレヴァーが落ち着いた声で言葉を継ぐ。

「ソレアンにも考える時間が必要だ。だが、フィオーネ嬢の帰国までには結論を出しなさい。彼女がまだ婚約していない現状は、奇跡だと思った方がいい」


 フィオーネ・ナディア。

 ヴァルミールを代表する天才劇作家であり、その名声は国を越えて轟いている。婚約の申し込みは、数え切れないほどあったはずだ。

 にもかかわらず、いまだに婚約者のいない身であること——それは、本人の意志の表れだ。

 選択肢はいくらでもある恋愛強者。そんな彼女が、ソレアンに好意を寄せている。

 だからこそ、アルモンド侯爵家としては、この機会を逃したくないのが本音だった。


 しかし今回ばかりは、ソレアンの意志が尊重された。

 フィオーネの帰国まで、残り十日あまり。ソレアンは、自らの胸に問いかけることを迫られていた。


【唯一無二の幼馴染としてのゼファリス】


 家族会議が終わり、ソレアンは静かに部屋を出た。廊下を進みながら、頭の中は整理がつかないままだった。

 フィオーネとの婚約——考えてもいなかった話題が、突然現実として目の前に突きつけられたのだ。


 執務室での話を反芻しながら、彼の足は自然と館の奥へ向かっていた。

 ゼファリスの工房。そこへ行けば、少しは気が紛れるかもしれないと、ソレアンは考えた。

 扉を軽くノックすると、開ける前からゼファリスの声が聞こえた。

「入れよ、ソレアン!」

 気怠そうな、けれどどこか機嫌の良さそうな声音。

 扉を開くと、ゼファリスが真っ白なキャンバスに向かい、難しい顔をしていた。一応、絵に向き合う気はあるらしいが、筆は動いていない。

 しかし、ソレアンの姿を見た途端、ゼファリスは珍しくにこやかな表情になった。

「ソレアン! 魂がまったく震えない!」

「そうかい。それを笑顔で言うんじゃない」

 呆れてため息をつくソレアン。

 しかしゼファリスの無邪気な様子に、少しだけソレアンは安堵を覚えた。魂の震えが訪れないのは困りものだが、本人が暗い顔をしているよりはいい。


 ソレアンは、ふと昔を思い出した。ソレアンが十歳、ゼファリスが九歳の頃に、二人は出会った。まだゼファリスが「デュヴァン男爵家の三男」として過ごしていた頃だ。

 二人は親たちに連れられ、何かのお茶会に参加させられた。大人たちの会話のそばで、ソレアンはただ黙って時間が過ぎるのを待っていた。

 しかし、ゼファリスは開始早々に飽き飽きし、さっさと紙と筆を取り出して、部屋の片隅にあった一輪挿しを描き始めたのだ。

 実際の花は美しく咲き誇っていた。しかしゼファリスのスケッチブックに描かれた花は、なぜか枯れかけていた。おそらく、その時の彼の心理が反映されたのだろう。

 その絵を覗き込んだソレアンは、思わず声を上げた。

「すごい! 君は天才だよ!」

 ゼファリスは驚いたようにソレアンを見つめた。その瞬間から、二人の関係が始まった。


 それから五年後。

 ゼファリスは家族との折り合いが悪くなり、ついにデュヴァン男爵家を飛び出した。行くあてもなく、世間の価値観とも折り合えず、ただ絵を描くことだけを望む彼を、ソレアンは迷わず支援すると決めた。

 自己決定力に欠けるソレアンが、家族の前で初めて強く主張したのは、そのときだった。

 それからというもの、ソレアンはゼファリスによって、パトロンとしての支援の名目で散々振り回された。なぜか森での狩猟に付き合わされたり、花街・万灯町の見学に同行させられたりしたこともある。

 しかし、それらの経験は、ソレアンにとっても未成年時代の冒険として、良き思い出になっている。


 とはいえ、いつまでも子どものままではいられない。

 ソレアンは成年を迎え、婚約者を決める時期に差し掛かった。ゼファリスにも、いずれそういう相手が現れるかもしれない。

 お互いが大人になったとき、今までのような関係を維持するのは難しい。二人を取り巻く状況は変わり、それぞれが社会と複雑に依存し合って生きていく。


 ——ゼファリスは、僕とフィオーネ嬢が結婚するとなったら、どう思うだろう。


 ソレアンは、考えを巡らせながら、ゆっくりと口を開いた。

「ゼファリス。フィオーネ嬢のことなんだけど」

 その言葉を聞いた途端、ゼファリスの表情が一変する。顔をしかめ、勢いよく言い放った。

「あの女は最悪だ! 顔を合わせれば生意気なことを言うし、お前を連れ回すし、さっさと帰国させろ!」

 即答だった。ソレアンは、目を閉じて静かに息を吐いた。


 ——こりゃダメだ。


 フィオーネとの婚約の話を、ゼファリスに伝えるのはやめておこう。そう、そっと胸にしまいながら、ソレアンは白いキャンバスを見つめた。


【フィオーネの愛の定義】


 ゼファリスの反応を見て、ソレアンは静かに工房を後にした。扉を閉じると、無言のまま館の廊下を歩き、やがて中庭へと足を向けた。

 夜空には満月が昇り、白銀の光が庭の草木を優しく照らしていた。夏の夜風が心地よく頬を撫で、遠くから虫の声が微かに響く。

 ソレアンは、静かに息を吸い込んだ。


 フィオーネがアヴェレート王国に訪れて、二週間弱。その間、ソレアンにとって、想像以上に悪くない日々だった。

 心穏やかな表情で紅茶を飲む彼女。

 文化的な好奇心に目を輝かせる彼女。

 激情的に意見を述べる彼女。

 どの彼女も、ソレアンの目には微笑ましく、興味深く映っていた。


 しかしそれが即ち「愛」なのか「恋」なのかと問われると、ソレアンも答えに窮する。


 ——恋愛とは、情熱的に相手を追い求め、時に狂おしいまでに捕え捕らわれるものらしい。

 ——数々のロマンスを舞台にした小説や歌劇で、そう語られている。だから、きっと間違いないのだろう。


 そんな恐ろしい感情を、ソレアンは誰かに抱いたことがない。

 他人の心に強く惹かれ、自分を見失い、相手を独占したいと願う——それを「愛」と呼ぶのなら、ソレアンはその感情に身を委ねる自信がなかった。

「……ソレアン様?」

 不意に、優しい声が響いた。

 振り向くと、中庭の入り口にフィオーネが立っていた。白いドレスの裾をそっと持ち上げながら、夜の静寂の中に佇んでいる。

 考えていた相手が目の前に現れたことで、ソレアンは少し動揺した。

「珍しいですね、こんな時間に。何か考え事ですか?」

 フィオーネはそう言いながら、彼の隣に腰掛ける。

 ソレアンは、少し逡巡した後、「せっかくだから」と思い、口を開いた。


「男女の愛とは、一体どのようなものなのだろうかと考えてしまってね……」

 その言葉を聞いた瞬間、フィオーネは動きを止めた。表情が固まり、目をぱちくりと瞬かせる。

「え……?」

 戸惑いが見て取れる反応だったが、ソレアンは気にせず続けた。

「小説や歌劇で描かれる愛の形を見ると、僕にはただ恐ろしいものとしか思えないんだ」

 フィオーネは気遣いを滲ませる声で、問い返した。

「……恐ろしい、ですか?」

「うん」

 ソレアンは夜空を見上げる。満月が煌々と輝いている。

「自分自身ですら抗いがたく、相手の自由を奪ってでも独占したくなる。そんな暴力的な感情が、果たして愛だとか恋だとかで持ち上げられるような良いものなのだろうか」

「だいぶ偏っているような気もしますが……」

「だけど世の中は、それを情熱的と評価している」

 ソレアンは、ゆっくりとフィオーネを見た。

「それが、僕にはわからないんだ」


 フィオーネは、一度息を整えた。そして、慎重に言葉を紡ぐ。

「そうですね……確かに、そういう一面もあるかもしれませんが……」

 ソレアンは、彼女の言葉を待った。

「でも、それは——自己愛からの脱却の過程なのではないかと」

「自己愛?」

 ソレアンの眉が僅かに動く。その反応を確認してから、フィオーネは続けた。

「人間は、自分の目で見て、頭で考え、心で感じることで、世界を理解します。私たちは『自分』という観察者の視点からしか、世界を捉えられない。故に、その観察者たる自己への愛着から逃れられない」

 フィオーネは一度言葉を切った。月明かりの下、フィオーネの青い瞳がソレアンを捉える。

「だけど、社会には自分だけでなく、たくさんの人々がいる。そして中には、自己愛を超えて惹かれる相手がいる。それに気づいたとき、自己愛から脱却し、自分の世界を広げる推進力として、時に暴力的なまでの衝動が生じるのではないでしょうか」

 ソレアンは、ゆっくりとフィオーネの言葉を噛み締めた。


 ——自己愛。

 ——それを超えたところにある、誰かへの情熱。

 ——それが、愛なのか。


「……さすが、天才劇作家だな」

 思わず呟くように言うと、フィオーネは「えっ」と小さく息を呑んだ。

「僕は初めて、『愛』というものの解釈に納得した気がする」

 そう言って、ソレアンは穏やかに微笑んだ。

 フィオーネは、夜風に髪をなびかせながら、少しだけ頬を染めた。


 夜空の下。満月の光が、二人を静かに照らしていた。

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