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第六話:お友達作戦

【兄の参戦】


「ロマンがなければヴァルミールの歌劇はここまで発達しなかったわ! ロマンは文化なのよ!」

「だからって政治的判断を軽視してどうする……」

 父母の変わらない会話を見て、クレアは苦笑いを浮かべる。


 ――父は理知的な現実主義者、母は情熱的なロマンチスト。そして、自分はその狭間に立っている。


「お母様、お気持ちはありがたいのですが、少し落ち着かれて……」

 クレアが困ったように言いかけた、そのときだった。

 コン、コン。

 執務室の扉が控えめにノックされる。

「お父様、お母様、戻りました」

 低く落ち着いた声が響くと同時に、扉が開かれる。そこに立っていたのは、クレアの五歳年上の兄、サミュエル・サヴィエールだった。

 旅装こそ解いていたものの、屋敷に戻ってきたばかりのようだ。クレアと同じアイスブルーの目を持ちながら、父シグムントに似た端正な顔立ちは、クレアとはまた違った威厳を備えていた。

「お帰りなさい、サミュエル兄様」

「無事で何よりだわ」

 クレアとベアトリスが出迎えると、サミュエルは微かに微笑んで頷く。

「遅くなって申し訳ない。視察の途中で少し手間取ってね」

「それは構わん。ちょうどいいところだ、お前も座れ」

 シグムントが、自分の隣の席を示す。サミュエルは短く「失礼」と言いながら、腰を下ろした。そして、卓上の書類に目を走らせた。

「……ローレント公爵家との婚約は、正式に解消されたのですね」

 淡々とした声の裏に、少しだけ慎重な響きが混じる。

「ええ、無事にね!」

 ベアトリスがなぜか嬉しそうに答えた。サミュエルは母の様子に若干の疑問を抱きつつも、視線をクレアに向ける。

「それで、話し合いの議題は……例のアヴェレート王家の件?」

「その通りだ」

 父が頷き、改めて話し始める。

 こうして、サヴィエール辺境伯家の未来を決める会議に、サミュエルも正式に加わることとなった。


 まず、口火を切ったのは母のベアトリスだった。

「いい? クレア、これは千載一遇のチャンスなのよ!」

 ベアトリスは興奮気味に身を乗り出した。

「何がなんでもテオくんを本気にさせなさい! こんな素晴らしい縁談を逃すなんて、貴族の娘としても、乙女としても大損よ!」

 その熱弁に、クレアは内心ため息をついた。クレアも予想はしていたが、やはりベアトリスはこの話に全面賛成であった。


 一方で、父シグムントは冷静なまなざしを向けながら、ゆっくりと口を開いた。

「婚姻自体は、私も賛成だ」

 その言葉に、クレアは驚かなかった。むしろ、当然の判断だと思った。

 父はサヴィエール辺境伯家の当主として、家の利益を第一に考える。アヴェレート王家との繋がりが、サヴィエール辺境伯家にとって極めて有益なのは明らかだった。

「だが、その場合は、しっかりと筋書きを考えねばならん」

 シグムントの低く落ち着いた声が、部屋の空気を締める。

「くれぐれも、アヴェレート王家に手玉に取られたなどと思われぬようにな」

 この言葉に、クレアは少し背筋を正した。

 サヴィエール辺境伯家は、ヴァルミール王国の西の国境を預かる要の家門。そのため、単なる高位貴族ではなく、軍事的・政治的な視点でも影響力を持つ立場にある。

 ここで軽々しく他国の王家に屈したような印象を与えてしまえば、サヴィエール辺境伯家の威信を損なう可能性がある。クレアがテオドールの求愛に応じなかったのも、それが理由だった。


 シグムントに続き、兄サミュエルが口を開く。

「確かにアヴェレート王家との婚約の利点は大きい。国境の安定、両王家との関係強化、名誉の向上……申し分のない話だ」

 サミュエルは賛同の意を示しながらも、その表情に影を落とす。

「だけど、ローレント公爵家のことがあったばかりだ。信用できる相手かどうかを見極めるべきだろう。判断はその後でも遅くはない」

 クレアは、その言葉にわずかに目を見開いた。

 サミュエルは、理と利の価値を正しく認識する男だ。しかし、今の言葉には、素直に妹を案じる優しさが滲んでいた。

「テオドール殿下の真意がどこにあるのか、軽率に決めつけるのは危険です」

 サミュエルの意見に、父シグムントも深く頷いた。

「その通りだ。だからこそ、まずは状況をしっかりと見極めねばならん」

 ベアトリスは、明らかに不服そうに頬を膨らませる。

「もう……あなたたち、つまらないわね! もっとこう、情熱的になれないの?」

「クレアの人生がかかっている問題だ。情熱だけで決断はできん」


 この話し合いの中で、家族の意見はそれぞれ異なっていた。

 母は「テオくんを本気にさせなさい!」と情熱的に推す。

 父は「戦略的に動け」と狡猾に構える。

 兄は「まずは相手を見極めろ」と慎重に判断する。


 三者三様ではあるが、反対する者はいなかった。それが、クレアにとって最も意外なことだった。


【方針策定】


 家族の意見が出揃い、部屋には静かな緊張が漂っていた。

 クレアは一度目を伏せ、思考を巡らせる。

 クレアは彼の求愛を受けるつもりはない。それは変わらない。しかし、無視できないのもまた事実だった。


 ――婚約破棄の場面で、迷わず飛び出してきた姿。人好きする笑顔。「安心して愛せる」と、あまりにも自然に言い切ったあの瞬間。


 クレアの心の内で、テオドールの姿が鮮やかに映し出される。クレアの胸の内が温かく感じられた。

 クレアはそっと息をつき、ゆっくりと顔を上げる。

「矜持を示してしまった以上、サヴィエールの名にかけて、私はテオ様の求愛を受ける気はありません」

 はっきりとした宣言に、母ベアトリスの顔が思いきり顰められた。しかし、クレアは臆することなく続けた。

「ですが……彼との友誼を深めることは、我が家の利益になるということは、理解しました」

 ベアトリスの表情が、ぱっと明るくなる。まるで春の花が咲いたような笑顔だ。

「ですから、婚姻せずとも、こちらの利益を最大化できるよう、立ち振る舞ってみせます」

 そう言いながら、クレアはニヤリと笑った。それは、「受け身のままでいるつもりはない」という宣戦布告だった。


「まぁ、それも良いだろう」

 父シグムントがゆっくりと頷く。

「どんな関係であろうと、全ては信頼があってこそだ。関係の形よりも質にこだわるべきというのは一理ある」

 シグムントの言葉に、サミュエルも静かに同意を示す。

「親交を深める中で、相手の目論見や出方も見えてくる。僕も賛成だ」

 サミュエルは慎重な性格だが、一度納得すれば、しっかりとした協力者になる。彼の同意を得たことで、クレアの方針は確実に家族の了承を得たといえる。

 そんな中、ベアトリスが感動したように手を叩いた。

「まずはお友達から始めるのね! 恋愛の王道だわね!」

 クレアは思わず肩を落とした。


 ――結局、お母様はそっちの方向で解釈するのですね……。


 こうして、サヴィエール辺境伯家としての交渉戦略が決まった――その名も「お友達作戦」。その実行担当者はもちろん、クレアである。


【王家からの書状】


 その決定から、五日後。クレアが自室で書き物をしていたところ、家令が静かに扉をノックした。

「お嬢様、王都より書状が届いております」

「王都……?」

 クレアが訝しげに眉を寄せると、家令は恭しく書状を差し出す。クレアは受け取り、封蝋を確認する。

「フィーリス王家から……?」

 ヴァルミールの王家――フィーリス王家の紋章が刻まれていた。

 王家からの正式な書簡。それは間違いなく「重要な案件」だ。

 クレアは静かに封を切り、書状を広げた。そしてそこに記されていた内容を読んだ瞬間、クレアは言葉を失う。

「テオドール・アヴェレート王子殿下の、たっての希望により――」

 思わず、書状を持つ手に力が入る。

「サヴィエール辺境伯家の領地視察のための歓待を要請する、ですって?」


 ――まさか、早速攻めてくるなんて。


 サヴィエール辺境伯家の「お友達作戦」は始まったばかりのはずだった。だというのに、テオドールの動きは、まるで待ち構えていたかのように素早かった。

 クレアは目を閉じ、ゆっくりと息を吸う。

「……さすがですわ、テオ様」

 思わず口元がほころびる。それは喜びなどではなく、敬うべき強敵を前にしたときの高揚による笑み。


 ――ならば、こちらも抜かりなく対応してみせる。


 そう心に決めながら、クレアは再び書状を見つめる。

 こうして、「お友達作戦」は、予想外の早さで動き出すこととなったのだった。

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